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幸せの定義(私)
「本当に泊まっていかないのかい?」
「アタシたち野宿は慣れてるから大丈夫よぅ。お気遣い感謝するわぁ」
庭先まで送ってくださったユウシンさんの言葉に、ウィムさんが答えています。
「師範、大丈夫か?」
私の隣で、ギリルが私の肩をそっと撫でました。
「……大丈夫です……」
そう答えた自分の声は、驚くほど弱々しく聞こえました。
「ギリルダンド君、サリを頼むよ」
ギリルは驚いたようにユウシンさんを見てから、私を見て、もう一度彼を見ました。
「……ああ。任せてくれ」
私の隣で、ギリルが背筋を伸ばして答えました。
それだけで、空気が凛と透き通ります。
ギリルの真っ直ぐな気配が、キラキラと輝いて私の目を奪いました。
「サリは泣き虫で臆病で卑屈で……そのくせ頭は固いし思い込みは激しいし、手がかかる子だけどね。ちょっと……人より運が悪いだけなんだよ」
……あの、ユウシンさん、私の評価がなんだか酷くありませんか?
「運……?」
ギリルの言葉に彼は黒髪を揺らして頷きました。
「そう。人には、時にどうにもならないこともあるからね」
その言葉に、私は胸の奥が痛みました。
どうにもならない事だった。
だから、私にはどうすることもできなかった。
そう思うしかない。ということなのでしょうか。
ウィムさんも、ティムダムさんまでもが、彼の言葉に一瞬息を詰めた気がしました。
しんと静まり返った森の中で、ギリルが静かに答えました。
「今まではそうだったのかも知んねーけど、俺は、師範にもうそんな思いはさせない」
ユウシンさんは少し目を見開いて、それから眩しげに目を細めました。
「そうか。それは頼もしいね」
「ギリル、もう少し丁寧に話しなさいと何度言ったら分かるんですか」
思わず注意すると、ギリルは「分かってる。けどいいんだ、これで」と答えました。
何がいいんですか、何が。
「僕たちはこの家で暮らしてるから、困った時にはいつでも尋ねておいで」
ユウシンさんが穏やかに手を振りました。
ああ、せっかくお会いできたのに。また、お別れなんですね……。
ユウシンさんの傍にはキルトレインさんがニコニコと微笑んで小さな手を振っていて、もう少し側に居たいなんて、とても言い出せそうにありません。
「はぁい。またぜひお茶しましょうねぇ」
ウィムさんが明るく答えて手を振り返します。
私は、後ろ髪を引かれながらも、彼に一礼して背を向けました。
ギリルが、そっと私の肩を撫でてくれます。
ギリルの手の温もりが、私の冷え切った肩を、心を温めてくれるようで、私は思わずギリルの手に自分の手を重ねました。
「サリも、もう幸せになっていいんだよ」
背にかけられた言葉に、私は足を止めて振り返ります。
…………しあわせ……?
私には、その言葉が指す形が、もうよくわかりませんでした。
死ねない呪いのかかった私には、この世から消えて無くなることこそが唯一の幸せだと信じて、この十数年は、そのために全てを注いできました。
けれど、ギリルやウィムさん達と過ごすうちに、それすらもあやふやになってしまい……。私には、もう何を幸せとしたらいいのかが分からないのです。
「ユウシンさんは、今幸せなんですか?」
私の問いに、ユウシンさんは迷う事なく「もちろん」と大きく頷きました。
彼が隣のキルトレインさんと視線を交わして微笑み合う姿に、私は胸が苦しくなりました。
まるで、これが正しい幸せの形なのだと言われているようで。
私も、こうあるようにと言われているようで……。
「そう、ですか。それはよかったです」
なんとかそれだけ答えて、なるべく自然に微笑んで。
闇が心から漏れ出さないよう、細心の注意を払いながら、私は彼にもう一度背を向けました。
もしかしたら、私はもう二度と、ここには来ないかも知れない。
そんな予感を感じながら……。
「お幸せにねぇ〜」
ウィムさんの声に、彼は「君達もね」と答えました。
彼の目には、私とギリルが想い合う恋人同士にでも見えたというのでしょうか。
私は、ギリルの人生を奪って、その心を今も操っている極悪人だというのに。
「師範。寒くないか?」
ギリルが私の肩を抱き寄せました。
「俺のマント、入るか?」
「ぇ?」
私の声を肯定と取ったのでしょうか。
私の両肩は彼のマントの内に包まれていました。
気付けば、沈みかけていた夕日はすっかり落ちて、暗い森は冷え冷えとしていました。
前を見れば、同じようにウィムさんもティルダムさんのマントに入って……。いえ、あれはもう完全に抱き抱えられているんでしょうね。足が浮いてますからね。
ともあれ、ギリルもそれを手本にしたということでしょうか。
ギリルの体温が私を包み、じんわりと彼の熱が移ると、強張っていた身体も心もゆっくり解けてゆくようでした。
ああ、ギリルはいつも温かいですね……。
「師範」
耳元で囁かれて、ドキンと心臓が跳ねます。
「な、なんですか?」
焦って答える私とは対照的に、ギリルは落ち着いた声で、ゆっくりと私に伝えました。
「俺、師範のこと、ずっとずっと大事にするから」
それは、まるで宣誓のように、彼の心が乗せられた力ある言葉でした。
私の心臓が、速度を上げます。
いけません。それはあなたの行動を縛ってしまいます。
「ギリル、待っ――」
「俺は必ず、師範を幸せにする」
ギリルの真剣な眼差しが、私を貫いていました。
燃えるような赤い髪が、夜風に吹かれて揺れます。微かに差し込む月の光に新緑の瞳が闇の中で一層煌めいて……、それらが全て、今、私だけに注がれていました。
胸が熱くて、息が苦しくて、でも心臓はうるさい程に音を立てています。
嬉しいなんて。そんなこと。私が思ってはいけないのに。
だって、彼の想いは、私が作り出してしまった、まやかしの……。
『せんせ! 俺っ、なんかココがすげーポカポカして、嬉しくって、ドキドキして、はち切れそーだ!』
私の耳に、あの日私が『幸せ』を教えた時の、幼いギリルのはしゃぐ声がやけにハッキリと蘇りました。
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