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第1話

「虫の音を聞きながら蛍火が見られるとは、名賀浦とは不思議なところよ」  煙管で一服つけながら野田帯刀(のだたてわき)が云う。汗を浮かせた逞しい裸身をごろりと夜具に横たえ、蚊帳のうちに瞬く蛍火を見つめる。 「名賀浦の蛍は長生きなんでさ。この仲良し蛍も、きっと昨日からいたやつだ」  団扇をゆらして風を起こしながら、於菟二(おとじ)は返した。後ろに張り出した当世風の(つと)がほつれて、汗ばんだ白い首筋に張りついている。歳は二十六。ふわりふわりと舞う二匹の式部蛍を見上げる貌はやさしげで、ほどよく締まった細身の躯は、帯刀と同じくなにもつけていない。  行燈(あんどん)を消した(ねや)に淡い月影がさしている。風のない蒸し暑い夜だ。  夕暮れになると庭に蛍が飛び交うのは、すぐ裏手に小川が流れているからだ。  帯刀が借りた竹井村の百姓家は、坂町と茶屋町の間くらいにあり、於菟二の住む仲宿から歩いても四半刻ほどでゆける。名賀浦奉行の内与力が使う荘(別宅)にしては大分粗末だが、竹林と小川の他は何もないこのあばら家を帯刀は気に入っているようだ。そして於菟二は、このところ自分のねぐらへ帰らず、荘に入り浸っている。  庭から響く虫の音が、さざ波のように静かな夜を満たしている。 「違うな」  帯刀がぼそりと云って煙を吐く。 「なにが違うんです?」  於菟二は瞬く小さな光から眼を移し、帯刀を見た。於菟二好みの涼しげな貌が、蚊帳ごしの淡い月影に濡れている。眼は鋭いが、どこかおっとりとして人好きのする面立ちだ。物腰は上級武士らしく泰然としており、性格も朴訥として浮ついたところがない。あっちの相性もすこぶる良くて、イロ(情夫)としてこの上ない男であるも、於菟二にとって帯刀はそういうものではない。 「蛍さ」  帯刀が、立ち上る煙のゆくえを見つめる。 「蛍?」 「そこの朝顔と同じ。日ごと散り、日ごと新しく咲く。同じ花に見えて違う花なのだ。蛍も同じよ。明日にはいない……」  帯刀が煙草盆の灰落しに、火皿の灰をぽんと落とす。濡れ縁に置かれた朝顔の鉢は、於菟二が買ってきたものだ。 「なんでそんな淋しいことを云うんだい。まるで明日には死んじまうみたいな話、おいらは好かないね」  怒ったような於菟二の声に、帯刀が眼を向ける。於菟二は涙ぐんでしまった目許をぬぐい、ぷいと横を向いた。吹き込んだぬるい夜風が、蚊帳うちの夜気を僅かばかり掻きまわす。  葉月に入ったというのに、名賀浦はまだ盛夏の名残をとどめている。それでも夜半近くになるといくぶん冷んやりして、秋の気配が立ちだした。 「参れ、於菟」  帯刀が横になったまま、やれやれという面つきで手を差し伸べる。  於菟二はむくれていたが、強い力で引き寄せられ、帯刀の厚い胸の下に引き込まれる。 「ねえ、旦那。どうしても久呂谷(くろだに)へ行くんですかい?」  硬い手指に愛撫され、汗の引いた躯に再び熱がともる。 「案じてくれるのか?」  二度目の行為は、ゆっくり進む。於菟二を抱きに三日と空けずに訪れる帯刀は、於菟二の躯を気に入っているらしい。 「当り前だよ。あんな所へ行ったら、命がいくつあっても足りやしない」 「そうだな。お前は来てはならぬぞ」  耳許で囁かれ、どきりとする。こうやってイロのごとく抱かれているも、於菟二は公儀の草だ。帯刀の動向を公儀の忍び衆に逐一知らせるのが於菟二のつとめだ。 「行くわけないよ。ゾッとすらあ」 「うむ。お前はここで待っておれ」  微笑む口許を小さな光がほのかに照らす。 「ちゃんと、帰って来てくだせえよ」  なぜだか涙がでそうになって、於菟二は唇を噛んだ。この頃、名賀浦はおかしい。花見山の椿が夏の盛りに狂い咲いたかと思えば、能木山(のぎやま)の峠向こうの久呂谷(くろだに)の木々が枯れ、杣人(そまびと)(きこり)が幾人も熱病に罹って死んだ。  恐ろしいのは、その死んだ杣人が土の中から蘇えり近くの村を襲ったというのだ。奉行所の役人によって一帯に竹垣が組まれ、化物はそこから出られないと云われているも、皆恐ろしがって近づく者はいない。その久呂谷に、帯刀は調べに入ろうとしている。片や公儀は、何人も近づけたくないらしい。 「ねえ、どうして旦那が行かなきゃならねえんで? そんな危ねえ所、手下をやればいいじゃねえか」 「手下は遣えぬ」 「どうしてだい? 偉いお人は、てめえじゃ行かねえもんだろう」 「おれは偉い人ではないゆえな」 「内与力は、お奉行さまの右腕だろう」 「右腕ゆえ、行くのよ」  大きく揺すり上げられ、返す言葉を奪われる。  つい先日、大黒屋の蔵で斬り合いがあった。大黒屋とは、取り潰しになった天竺屋の後釜にすわった交易商だ。その大黒屋の蔵を破りに来た賊と、用心棒らが鉢合わせしたのだという。手練れを揃えていたという用心棒方が有利と思えるも、賊は楽々(やいば)をくぐり、何かを盗んで逃げたらしい。それを追った公儀の忍び衆が、翌朝、青野川に浮かんだ。於菟二の知る男だった。  どうして公儀の忍び衆が、大黒屋の騒ぎに関わっているのか? そもそも名賀浦奉行佐竹筑前守を監視するのは、なにゆえなのか? 新任の奉行、筑前守は御役に熱心らしく、悪い噂は聞こえてこない。命じられるまま内与力の帯刀に張りついているも、一介の草である於菟二には、久呂谷の一件も、大黒屋の騒ぎも、何がどうなっているのか、まるでわからなかった。 「お前は、命の(くびき)を越えてみたいと思うか?」  帯刀が於菟二から躯を離し、乱れた夜具に仰臥する。 「久呂谷に不死の木があるのだそうだ。その実を食うと不死になるらしい」 「不死?」 「うむ」 「死なねえってことですかい?」 「そうだ」 「なら、杣衆はその実を食って生き返ったんですかい?」 「それは調べてみぬことには分からぬ」 「ふん。そんな絵双紙みたいな話、あるもんかい。あったらどいつもこいつも弥勒丸(みろくまる)になっちまう」 「弥勒丸?」  帯刀が訝しげに眉を寄せ、於菟二は笑ってしまった。 「“花あらし”ですよ。絵双紙の。花より美しく鬼より強い若衆美剣士、光凛丸(こうりんまる)って、聞いたことありやせんかい?」 「あるような、ないような……」 「もう旦那、しっかりしてくだせえよ」  於菟二は傍らに寝そべり、甘えるように厚い胸板に頬をのせる。 「まあ、尋常に考えれば絵双紙のような話だが、もしそれが真で、実を手に入れられたとしたら、お前はどうする?」  熱を帯びた眼で見られ、どきっとする。 「おいらは……そんなもん……欲しくはない」 「食せばどんな病も治るのだと聞く」 「嘘っぱちだよ。なんでも治る南夢屋(なむや)の万病平癒丸と同じいんちきさ」 「いんちきか」 「決まってら」 「……」  帯刀は天井の闇を見つめたまま黙っている。国許にいる奥方のことを考えているのやもしれぬ、と於菟二は思った。たしか躯が弱く、臥せりがちであるという。  於菟二の胸に鋭い痛みがつきんと走る。 「ねえ、旦那。海守さんの八十祭(やそさい)に行きやせんかい?」 「うみもりさんの、やそさい?」 「へえ。海那彦神社ですよ。毎月十日に月次祭(つきなみさい)ってのがあるんですがね、この月ばかりは花火が上がって露見世が立つんです。名賀浦に来たなら、この祭は外せませんぜ」  於菟二は陽気な声で云ってやった。半年ほど前、名賀浦に来たばかりで勝手のわからぬ帯刀に、於菟二は名賀浦のことを教えてやると近づいたのだ。以来こんなふうに誘うと、帯刀は断らない。 「海の鎮守ゆえ海守(うみもり)さんで、八月十日ゆえ八十祭(やそさい)か。なるほど」 「ねえ、行きやしょうぜ。茶屋町の芸子が名賀浦節を踊って、そりゃあ賑やかなんですぜ」 「七日後か」 「決まりだ。花火を見て八十団子を食って、笹酒飲んで」 「おい、まだ行けるとは……」 「おいら待ってますから、ぜったいですぜ!」  於菟二は押しかかり、むしゃぶりつくように男らしい唇を吸った。どうして自分が泣きそうになっているのか、わからなかった。

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