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第2話

 それから七日が過ぎ、八十祭(やそさい)の朝になっても、帯刀(たてわき)は竹井村の荘に現れなかった。  於菟二(おとじ)は思い余って、取次役の忍び衆を探したが見つからぬ。思案に暮れる足は日の出橋を渡り、浦本町の奉行所へ来ていた。  されど、なんと云って訊ねたらよいのか。内与力の野田様に会いたいなどと云おうものなら、怪しまれること間違いない。奉行所付きの役人でない上に、名賀浦奉行佐竹筑前守直々の密命を受けて動いている男だ。  唐破風造の番所を据えた壮麗な表門はいかにも厳めしく、夜盗あがりの於菟二は近づくだけでも身が竦む。  松林の向こうには大波止があり、その目と鼻の先にある海那彦神社(うみなひこじんじゃ)の八十祭の賑わいが海風に乗って聞こえてくる。いつもであれば、うかれて走り出すところだが、於菟二は、門番が睨みを利かせる表門を遠巻きに眺め、巡らされた海鼠壁に沿ってなにをするでもなくうろうろする。  そうやってどのくらい経ったのか、とぼとぼと歩く於菟二の足は、西堀の組屋敷へ来ていた。許しもなく役宅へ出向くなど、〝草〟という役目上犯してはならない愚行であるも、じっと待つなどもうできぬ。 「あのう、お訊ねします」  正門脇にある潜り木戸を叩くと、下男らしき白髪頭の好々爺が顔をだす。 「こちらは野田帯刀様のお屋敷で?」 「あんたさんは?」 「あっしは、野田様に贔屓にしていただいている廻り髪結の新吉と申します。近くへ来たら寄るよう云われていましてね。野田様はご在宅で?」  於菟二は手に提げた髪結の道具箱を見せつけながら、何食わぬ顔で訊いた。廻り髪結という仕事柄なら、組屋敷に出入りしたとて怪しまれることはない。 「わざわざ来てもらって悪いが、旦那様は留守じゃ」 「いつ戻られるんで?」 「さあのう」  白髪頭の老爺が、のんびりとした動きで腰を伸ばす。 「さあって……あんたの御主人だろう!」  思わず語気が荒ぶる。小柄な老爺はにこにこするだけでなにも云わぬ。 (まさか足下を見てるんじゃあねえだろうな?)  於菟二は財布から粒銀を取りだし、皺だらけの手に握らせた。 「な、教えておくんな。おいら、旦那に大事な用があるんだ。しゃべっちゃいけねえって云われているなら、あんたから聞いたなんて云わねから」  於菟二は切羽詰まった顔をして見せた。老爺が恍けた面つきで、さらに手を出す。於菟二は蹴り倒してやりたくなったが、ぐっと堪えてさらに粒銀を握らせる。 「旦那様は怪我をされたようじゃのう」 「怪我? どんな塩梅(あんばい)なんで?」 「さあのう」  老爺がまた恍けた面つきで掌を見せる。 「じじい、いい加減にしねえと首を絞めるぞ」 「ほう、それが年長の者に物を訊ねる態度かい」  老爺がさも呆れたという顔をし、木戸の内に入ろうと腰を屈める。 「わかったよ! おいらの負けだ。有り金やるから教えておくれ。旦那は何処にいるんだい?」  於菟二が財布ごと渡すと、老爺が腰を伸ばして耳打ちする。 「能木山(のぎやま)の……療養所」  聞くなり於菟二は走りだした。 (やっぱり、ばけものが? それとも)  公儀の忍び衆に襲われたのだろうか?  七日も動けないのなら、容態は軽いものではないだろう。能木山の療養所といえば、大きな薬園を備えた奉行所直轄の療養所である。たしか六頭(むつ)街道の途中から能木山に入り、山道を上ってゆくとある筈だが、久呂谷の蘇えった死人に襲われたという村からも近い。  このあたりから療養所へは、およそ四里半ほど。途中から山道になり、走りつづけたとて二刻(四時間)はかかる。せめて六頭街道に出るまで足の速い川舟に乗ろうと思いつくも、大波止に上がる花火を見ようと、青野川はもちろん、琴川も、羽音川も、朝から屋形船や屋根船でひしめいている。  於菟二は舌打ちし、着流しの尻を端折った。鼓橋を走って渡る。  名賀浦の町は、どこも祭の熱気にうかされていた。琴川の堤は、見物客を当て込んだ屋台見世が所狭しと並んでおり、大きいのやら小さいのやら(わらべ)が大勢むらがっている。はしゃぐ童を避けて走りながら、帯刀の役宅の門前に、道具箱を忘れてきたのを思いだす。 (あとで取りに行けばいい)  己に言い聞かせつつも、あんな図々しい老爺を帯刀が下男として雇うだろうかと疑念が湧いてくる。もしかしたらあの老爺は偽物で、本物の下男は屋敷のどこかにおり、自分は騙されたのではなかろうか。だとしたら、道具箱は持ち逃げされたやもしれぬ。 (糞ッ、なんて日だい!)  道具箱がなければ、明日から仕事ができぬ。しかも髪結の道具だけでなく、預かりものの高価な簪が二つ入っている。二つ合わせると四両ほどもする。その代金をどうやって工面すればいいのか――いや、そんなことより道具箱には於菟二の宝物が入っている。初めて抱かれた宵に帯刀から贈られた、朧ギヤマンの若衆簪だ。 (畜生ッ、畜生ッ、畜生ッ)  苛立ちに胸を締め上げられながらも、於菟二の足は止まらない。老爺の云うことが本当なら、帯刀は能木山の療養所にいる。そして老爺が(かた)りなら、戻ったとて道具箱は無いのだ。  大小さまざまな船で混み合う川面を右手に、琴川の堤を走る。屋台見世の幟がはためき、団子を八つ串に刺した八十団子(やそだんご)を焼く香ばしい醤油の匂いや、青竹を蒸す青臭い匂い。その蒸した青竹の筒に、酒をつめる馥郁とした香りが、否が応でも祭気分を盛り上げる。  於菟二は神社へ向かう町衆らと逆行し、茶屋町を走り抜けて、羽根川に架かる河童橋を渡る。ここからやっと六頭街道だ。はあはあと息を喘がせ、もつれそうな足を引きずって、雑木林をつらぬく山道を上る。  自慢の髷は乱れ、粋な縞柄の単衣も汗みずくである。さらには顔も躯も土埃にまみれて、見られたものではないに違いない。 (ざまァねえ)  髪結の腕もさることながら、姿が良くて当たりもやさしく、着るものも江戸風で洒落ている於菟二は、仲宿ではちょっとした人気ものであった。於菟二を贔屓にしてる客たちが今の姿を見たら、なんと思うことだろう。  噴きだす汗を拭う気力もなく、肩で息をしながら黙々と山を上る。やがて苔むした石地蔵の脇に標石(しるべいし)を見つけ、ようやく目指す能木山に入った。 (奉行所に行ったのが昼四ツ半(午前十一時)くらいだったから、今は八ツ半(午後三時)くらいか?)  鳴きしめる蝉の音を浴びながら、天を突く杉林を見上げる。木々の(あわい)の狭い空は、昼の盛りを過ぎている。  於菟二は、痛む横っ腹を押さえながら薄暗い山路をひたすら上る。されど、行けども行けども人っ子一人行き合わぬ。 (みんな逃げちまったのかな?)  能木山で採れる杉の木は、寺社の建材や船材に重宝され、古くから山稼ぎ(林業)が盛んであったと聞く。良質な炭を産し、山の幸にも恵まれた豊かな山はだが、久呂谷(くろだに)の化物騒ぎで死んだようになっている。  静まりかえった杉林の暗がりに、蛍がふわりふわりと舞いながら明滅をくりかえしている。瀬音がするから近くに渓流があるのだろう。  ――同じ花に見えて違う花なのだ。蛍も同じよ。明日にはいない。  つと、帯刀の言葉がよみがえって泣きそうになる。  お役を含め、数えきれない男たちと寝てきたが、用がなくとも会いたいと思ったのは帯刀がはじめてだった。 「旦那……死んじゃいやだぜ」  言葉にした途端、嗚咽が込み上げて唇を引き結ぶ。  御政道(ごせいどう)なんて、どうだって良いのだ。云われた通りにさえしていれば、自分も妹も安穏に暮らせる。誰がどうなろうと知ったことではない。自分さえよければ、それでよかったのだ。帯刀に会うまでは――  ――と、療養所の方から早桶(はやおけ)(簡易作りの棺桶)が運ばれてくるのが見え、心の臓が撥ねる。 「待ってくれッ! その仏さん、奉行所の与力様じゃあねえよな?」  於菟二は狂ったように駆け寄った。やさ男を絵にかいたような於菟二の、汗と埃と涙にまみれた必死の形相に差し担いの男たちが足を止める。 「与力の旦那なら、おとつい運んだぜ」  後ろを担ぐ年配の男が、首に掛けた手拭で汗を拭きながら応える。 「……う、嘘をつくな」 「嘘なもんかい。七日前、久呂谷から重病人が大勢運ばれて来て、この仏さんで八人目よ」 「与力の旦那って……まさか……野田様かい?」 「名前なんかわからねえよ。おいらたちは、ふもとの浄仙寺へ運ぶだけだからよ」  行こうとする男たちの前に、於菟二は必死で立ちはだかる。 「待ってくれ! ほ……仏さんの顔は見たんだろう? 三十がらみの、男振りのいい旦那だったかい?」 「さあな。どの仏さんも顔が腫れあがって誰が誰やら……熱にやられて、口も利けなかったらしいから」 「けど、あんた……さっき与力の旦那って」 「桶に、陣笠と大小が入っていたからよ」  於菟二は目の前が暗くなる。 「あんた、大丈夫かい? 顔が真っ青だぜ」  震える於菟二に、前を担ぐ若い男が見かねたふうに声を掛ける。 「なら……みんな……死んじまったのかい? 生きてるお人は……いねえのかい?」 「いるにはいるが、大方虫の息で、明日まで持た」  年配の男が云い終わらぬうちに、於菟二は駆けだした。 (旦那の馬鹿野郎ッ! だからおいら云ったんだ! 久呂谷なんか行っちゃけねえって!)  胸の中で喚きつつ、涙がこぼれて前が見えない。

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