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第3話
能木山の療養所は、谷川を見下ろす山の中腹にあった。
高い練塀に囲まれたそこはしかし門番もおらず、門脇の潜り戸から覗くも人影は見えない。
於菟二は肩で息をしながら木戸を潜って中に入った。
母屋の戸口から声を掛けても誰も出てこない。裏手に回るとようやく下女らしき小女が井戸端で洗濯をしていたが、帯刀のことを聞いても首を振るだけだった。
(いってえ……どうなっているんだい?)
汗まみれの於菟二を、蝉しぐれが包み込む。
「なあ、だれか教えておくれよ! 野田の旦那はいるのかい?」
半泣きの声で喚く。
「野田殿の知り合いか?」
蝉の音を破って後ろから声がした。はっとして振り向くと、五間(約9メートル)ほど離れた土蔵の影に、背の高い、着流しの侍が、薬草らしき草の入った平籠を持って立っている。
「名は?」
問いかける顔はまだ若い。髷のない傾きものの風体だが、卑しい風ではない。整った男らしい面立ち。眼は鋭いが、口許に甘さがあって恐ろしいとは感じない。
「あっしは……廻り髪結の……於菟二と申します」
射るように見据えられ、偽名をつかうのを忘れる。
「髪結の……於菟二」
侍がつぶやき、ああ、という顔をする。
「案ずるな。野田殿はご無事だ。いや、無事ではないか……」
「どっちなんです!」
思わず侍相手に喰ってかかる。若い侍は怒るふうもなく極り悪そうに笑った。
「曖昧な物云いをしてすまなかった。肩に怪我をされたのだが、そちらの方は命にかかわるものではない。それより眼をやられて」
「眼を?」
「医師が申すには、見えるようになるには、まだ暫く」
「治るんですね?」
「確かなことは分からぬが、養生すれば見えるようになると申していた」
於菟二は安堵のあまり、地べたにへたり込んでしまった。涙と汗に濡れる埃まみれの頬を強い西日が焼く。
「野田殿を案じて、かような所まで来たのか」
若い侍が黒絽の裾をひるがえして、ゆったりと近づいてくる。すると涼やかな山風が、木々の緑をゆらして吹き抜ける。
「水を飲んで、しばし足を休めるが良い。また長く歩まねばならぬゆえな」
白献上の帯を結んだ腰から竹筒を外し、於菟二に差し出す。町では見かけぬ、柄の長い武張った大刀を挿している。
「野田の旦那は……何処にいるんです?」
竹筒の水を飲みつつ、食い入るように訊く。
侍が微笑し、於菟二の西側に立って照りつける日差しを遮る。
「野田殿は、今朝方早く戻られた。蛍屋敷へ行くのだと申されてな」
「蛍屋敷?」
侍がうなずく。
「見えぬ間は身の回りの世話をする者がいるゆえ、知り合いをやろうと持ちかけたのだが、於菟二という髪結がいるゆえ心配無用と笑っておられた」
「旦那が? あっしを?」
「うむ。なれば於菟二、野田殿を頼むぞ」
若侍が鋭い眼をほそめ、やんちゃな面つきで笑った。
(あれは……)
雲隠れの伊十郎だったのでは――
そんな思いに至ったのは、能木山から戻り、茶屋町を過ぎた頃だった。
見上げるような長身、髷のない断髪、黒絽の小袖を着流し、腰には武張った大刀を挿していた。歳は於菟二と同じくらいか? 澄ましていれば美男で通るも、笑うと目尻が下がって白い歯並がこぼれ、どことなく悪童めいて見ているものの気持ちをやわらげる。さりげなく日陰をつくってくれたことも、於菟二は忘れない。
(あれが雲隠れなら、おんな子どもが騒ぐのも合点がいく……)
剣客というのは見栄っ張りと相場が決まっているが、雲隠れの伊十郎は、剣技こそ鬼神のごとくであるも、驕 ったところがなく、気さくで気持ちのやさしい男であるという。ただ、居所が定まらず、会いたいと思っても会えるのは稀だという。それゆえ“雲隠れ”などと呼ばれているが、名賀浦っ子の間では、絵双紙の光凛丸と並ぶほどの人気がある。
(あの侍が、雲隠れの伊十郎なら……)
どうして能木山の療養所にいたのだろう? さらには帯刀と親しいふうであったのも気になる。雲隠れの伊十郎といえば、昨年秋、交易商人天竺屋与兵衛の抜け荷を暴いた立役者である。
(雲隠れの伊十郎が……旦那の仲間なら……)
あれこれ疑念が湧きだすも、竹井村に近づくにつれて霧散する。
ドーン!
轟く爆音が心の臓を打ち、疲れ切った足に地響きが伝わる。
パッ、パッ、パッ、パッ、パッ、パッ――
火花の爆ぜる音がして、墨色の空にまばゆい光の花が咲く。
大波止で花火が上がりだしたようだ。あたりはすっかり宵闇に沈んでいる。
於菟二は痛む足を引きずって、光に染まる竹林に入った。曲がりくねった細い一本道を急ぐ。
この七日のうちに萩が咲きだし、荘の庭は、紫色の小さな花のうねりが波のように重なって美しい眺めをつくっている。
そして帯刀は、そんな風情を眺めるような態で、一人荘の濡れ縁に座っていた。
パーン!
西の空にひろがる光の花が、縮織 の帷子 をゆったりとつけた慕わしい姿を、瞬きの光の色に染める。
庭に入った於菟二が、声を掛けるより早く、
「遅かったな」
と、帯刀が云った。
療養所で聞いた通り、肩から胸にかけて白布に覆われ、眼にも白布が巻かれている。
「腹がへったろう。鰻があるぞ」
何事もなかったように微笑する。
「旦那は呑気だな。呆れて声もでねえよ」
於菟二は泣き笑いつつ、波打つ萩を分けて濡れ縁に近づく。花の香のする蒸し暑い夜気にまじって、蚊遣りの匂いが流れてくる。
「これでも急いで来たのだぞ」
「七日も来ねえで、急ぐもなにもねえだろう」
「心配したか?」
「するもんかい」
嗚咽をこらえて強気の声を出す。帯刀が見えていないのが救いだ。
於菟二が濡れ縁に腰をかけると、帯刀が膝から団扇をとって蚊遣りの煙をゆったりと掻きまわす。
「貞助が、半べそ顔ですっ飛んで行ったと申していたのだがな」
「貞助って……あの、白髪あたまの業突く張り のじじいかい?」
於菟二が云うや、帯刀がくくと喉を鳴らして笑い出す。
「ずいぶん苛められたようだが、貞助は業突く張りではないぞ。座敷に財布と道具箱があるだろう」
首を伸ばして、灯のない閨を覗く。
文机の脇に、それらしき風呂敷包みが置いてある。蚊帳のうちに敷かれた夜具は、帯刀が横になっていたものらしく抜け殻のような形になっている。
「寝てなくて、平気なんですかい?」
「貞助が煩いゆえ横になっていたのだが、些 か飽きた」
帯刀が背筋を伸ばして首をまわす。
「じいさん……中にいるんだね」
於菟二は小声で云った。屋内に灯が見えないので、帯刀が一人でいると早合点したが、よくよく考えれば眼の見えない帯刀を一人にする筈がない。
「いや、貞助は先ほど帰った」
「帰った?」
「ああ」
「そう見せかけて、どっかに隠れているんじゃねえだろうな。あのじいさんなら、やりそうだぜ」
於菟二は首を伸ばして、屋内の気配を窺った。
能木山の療養所で、若侍は「野田殿は、今朝方早く戻られた」と云ったのだ。そうであれば於菟二が訪ねたあのとき、帯刀は役宅に居たことになる。
(畜生、一杯食わされた)
「そう尖るな。お前を試したものらしい。おれの世話を任せられるか否か、とな」
「なら……旦那のお世話、おいらに任せてくれるのかい?」
「帰ったということは、そういうことだと思うが、愉快ものの貞助ゆえ、油断はできぬがな」
帯刀がまた、さも可笑しげに笑いだす。
「ちぇ、とんでもねえじじいだぜ」
膨れっ面で返しつつ、帯刀が、自分に世話を任せてくれたことや、見えぬ眼で縁側に出、自分を待っていてくれたことがうれしくて泣きそうになっている於菟二だ。
花火が止んだからか、萩の葉陰に隠れていた蛍が姿をあらわし、消えては光り、光ってはまた消えて、帯刀のやさしい顔をほのかに照らす。花火はもちろん、淡い月影にさえ霞んでしまうほどの小さな光は、今このときを懸命に生きる命の光だ。
「どうした、於菟?」
黙りこんだ於菟二に、帯刀が声を掛ける。
「いえね。吹けば飛ぶようなちっぽけな光でも、光る蛍は、おいらよりずっと上等だなって思ったんでさ」
「ほう、ずいぶん弱気ではないか。蛍が光るのは、番う相手を引き寄せる為だと聞いたことがある。お前は十分光っていると思うがな」
「おいらの光なんか……」
云いかけて唇を結ぶ。
(嘘っぱちの偽物さ)
ドーン!
しばらく止んでいた打ち上げの爆音がとどろく。
少し遅れて、空が割れるような大音に竹林が震え、夜空に大輪の火の花が光をまとって咲き誇る。
「祭に行けなくて、すまぬな」
帯刀が手を伸ばして、於菟二の頬に触れる。
「知るかい、唐変木」
堪え切れずに嗚咽があがる。
「死んだら……いやですぜ」
云うのがやっとだ。
「お前もな」
帯刀の硬い手指が、於菟二の濡れた頬をやさしく撫でる。
「旦那、おいら……」
於菟二の言葉は、花火の爆ぜる音に消されて聞こえない。
真昼のような光に驚いたのか、蛍たちが萩の波間に隠れる。それでも命ある限り、光りつづける。
「なにか申したか?」
訊ねる唇を、於菟二は唇で塞いだ。
隠れそびれた蛍が一匹、火色に染まる残光の宙で光った。
了
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