2 / 33
2
「おまわりさーん、こんにちはー!」
「はーいこんにちは。みんな、気を付けて渡るんだよ」
底抜けに明るい子供たちの声と、それに応える警官の笑顔。画材を持って歩道を進んでいた私は、ふいに目に入った光景に立ち止まる。
横断歩道を、手をあげ元気に渡る子どもたち。それを見守る警官と、法律に従って動きを止める車。ありふれた街角の光景だ。
何事もなく道路を渡り終えた子どもたちは、楽しそうに笑いながら歩道を走って消えていく。警官はその後ろ姿をしばらく見守っていた。そして車が走り始めた頃、私も逃げるようにその場を後にしていた。
足早に目的の公園へと向かう。街角にあって広々とした公園は、ほんの少しの遊具はあるものの、あとは樹木が並び、整備されたグラウンドが広がっているばかりだ。先日の雨のせいでところどころ水溜りができている。曇り空とはいえ気温はそこそこあるから、蒸し暑い限りだ。
なるべく早く帰ろう、とは思いつつ、公園の一角に置かれたベンチの前に向かう。まだ昼前とあって公園に人の姿はまばらで、小さな子供を連れた母親や、ご老人、犬の散歩をする人がチラホラ見える程度。
そんな公園の全てを見るように、小さな折り畳みのイスを置き、携帯用のイーゼルを開く。スケッチブックを用意して、筆記具を左手に持てば、あらかたの準備は終わりだ。
あとは、自分の精神世界に耳を澄ます。
車の走り抜ける音。どこから聞こえるかもわからない笑い声。近くのコンビニの入店音。生温かい風が静かに頬を撫で、生乾きの公園を走っていく。揺れる木の葉の鳴き声。雲間から一瞬差し込む光。
全てを受け入れ、また全てを溶かし、忘れる。その日によってやりかたはまちまちだが、今日は何もかも忘れることにした。
それらの全く無い公園を、ただ静かにスケッチし始める。人を、風や音を受け入れない公園はまるで死そのもののようだ。あるはずのものがもう無い、しかしいつも通りの姿をしているそれはどこか不気味で、私はその恐ろしく冷え切った空気感まで写し取ろうと鉛筆を、筆を走らせていた。
そこには誰もいない。私だけしか。あるいは、私さえもいないのかもしれない。誰にも見られず、存在することすら知られないなにか、そんな空虚な寒さ。その景色を描き出す。それはもしかしたら、私そのものの姿なのかも――。
「タマさん、そろそろひと休みしませんか?」
後ろから声をかけられて、私はハッと我に帰った。刹那、私の耳にはたくさんの音が戻ってくる。私がここに座った頃より遥かに音が増えた公園を見れば、弁当を持った会社員の姿がまばらに確認できた。
いつの間にか、昼時になっていたようだ。それで私はようやく額の汗を拭った。暑い。人の姿のある公園は、随分と蒸し暑くて不快だった。
それから画材を置き、振り返る。そこには、いつものようにグレーのスーツ姿の、シノさんが立っていた。
シノさんという人を、私は未だによくわかっていない。
暗い色をした前髪は少し長くて、いつも邪魔ではないのかと思う。でも私の髪型もシノさんに言わせれば「芸術家らしい」「個性的」なものらしいから、何も言えない。アンダーリムの眼鏡をかけたシノさんはとろんとした優しい眼をしていて、いつでも微笑んでいるようにさえ見えた。
物腰柔らかな彼は、今日も穏やかだ。そしていつもどおり、私の後ろにあったベンチに腰掛けると、隣に座るよう促した。そこは木陰になっていて、ほんの少しだけ涼しく感じられる。ここで合流するとき、私たちは決まってこの日陰で過ごした。
「ずいぶん気温が上がっていますから、お疲れでしょう」
「大丈夫です。少し日陰で休めば続けられますよ。麦茶も持って来ていますし」
「ならいいんですけど……あまり、根を詰めて無理はしないでくださいね」
「はい、大丈夫ですよ」
シノさんの隣に腰掛けると、彼は持っていたビニール袋からおむすびを1つ取り出し、私のほうへ。
「シノさんのお昼ご飯でしょう?」
「ええ。でも、買い過ぎてしまったので。近頃は梅雨のせいか食欲が無いのに、忘れていたんです。食べきらないともったいないですから」
どうぞ、と差し出すシノさんは、よく同じ言い訳で私に昼食を分けた。私のほうも、いつも同じように「では、ありがたく」と受け取る。
公園のベンチにふたり、並んで昼食をとる。似たような組み合わせは他のベンチにもちらほら見られた。世間一般では昼休みの時間なのだ。時を忘れ、絵に没頭していた身に、コンビニのおかかむすびはこの上なくありがたい。
持ってきていた小さな水筒には、まだ氷が残っていたから冷たい麦茶で体も冷えた。ふう、と溜息をひとつこぼしてシノさんを見る。彼はいつものように、小さなサラダをおむすびひとつで食べていた。
「……シノさん、いつも私の居場所がわかりますよね」
私が普段出歩いている場所は少ないけれど、ここばかりというわけでもない。その日の天気や気分で行き先を決めるし、そもそも出かけない日も多い。なのにシノさんは、よく私が居る場所を見つけては、昼食を共にした。
よくお昼にこの辺りで出会うから、近くに職場があるのだろう。それでも、昼休みはそう長い時間ではないはずだ。わざわざ買いすぎたというおむすびを持って合流してくるのは、ただの偶然なのか? 探し歩く余裕は無いと思う。
「タマさんにGPS発信機をつけているんですよ」
その言葉に思わず目を丸くしてシノさんを見ると、彼はいつものように笑っていた。
「嘘です、そんな顔しないでください。なんとなく、タマさんの傾向が読めてきただけですよ」
「傾向、ですか……?」
「はい。こんな天気の日には、ここに来るかもしれないと思っただけです。いい絵が描けそうだから」
シノさんはそう言って、描きかけのスケッチブックに視線を移した。私もつられて見ると、青と黒に近い色で描かれた寒々とした公園が、小さく佇んでいる。少し離れてみると印象が変わるものだ。私の描きだしたかった、死そのもののような公園を造るにはまだ試行錯誤が必要だと感じる。
それでも、シノさんはまじまじとスケッチブックを見つめていた。いつもそうだ。初めて会った日から、シノさんは私の絵に、真正面から向き合った。
「……どう、思いますか?」
聞いてから少し後悔する。あの描きかけの絵に何か評価を与えられたら、これから描くものへ影響しないかと。私にとってそれは、恐るべきことであるのに、それがシノさんから与えられたものだと思うと、悪くないような気もした。
しかしシノさんは「僕は、続きが気になります」と答えた。
「この絵が、どう完成するのか。それがとても楽しみです」
「……そう、ですか……」
私は少し安堵して、シノさんに聞こえないよう息を吐き出した。
シノさんと知り合ったのは、半年前のことだった。
ともだちにシェアしよう!