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 美術系の短大を卒業した私は、ろくに就職もできないまま、自分の精神世界を絵に起こす生活をしていた。働いたことは有るけれど、いずれの仕事もうまくいかなかった。私は人と関わるのが苦手で、自分の世界に入りがちで手が遅く、どの職場でも長くは続かなかったのだ。  そして毎回、私は深く悲しんだり、次の仕事を探す勇気を蓄えたりする。そのため長くアトリエを兼ねた自宅に滞在し、筆を走らせた。  作品の数が一定数になると、母が個展を開こうと言い始める。私は無名の絵描きであり、まだ個展を開く段階ではないと何度も伝えた。けれど、過保護な彼女は「何事も経験よ、タヅマさん」の一言で済ませ、会場から招待まで全て準備してしまったのだ。  そうして私の初の個展は、小さなギャラリーを貸し切って行われた。個展どころか展示自体、学生の頃しかやっていない。私はギャラリーの入口で、居心地悪く過ごすことになった。  初日こそ知り合いや親戚たちがやって来て、お祝いの言葉や土産物を渡してくるからそれなりに人もいた。けれど、日を追うにつれギャラリーを訪れる数も減り、ひとりきりの時間が多くなった。がらんとした、真っ白な壁のギャラリーに、私の作品と私だけが存在している。そのほうが気楽だった。  あまり、人といるのが好きではない。私は人を不幸にするから。母だってそうだ。いつまでも子どもが独り立ちしないから、ずっと面倒を見る羽目になっている。かわいそうな人だ。  陰鬱な気持ちがこの部屋にも満ちるのだろうか。誰も来なくなったギャラリーにひとり、暇を潰すことが多くなる。ガラス張りの入口から見える外の景色をスケッチしつつ過ごしていた。  そんなある日のこと。閉館時間が迫る頃に、シノさんがやってきたのだ。  彼はあまりにも静かに、ギャラリーのガラス戸を開けて入ってきた。気配が無かったから、気付かなかったほどだ。スケッチブックに鉛筆を走らせ、ふぅと顔を上げると既にシノさんは訪問帳に名前も書かず、私の作品を見ていた。  私は慌ててスケッチブックを置き、挨拶に行こうとしたのだけれど。なんと声をかけていいか躊躇ってしまった。というのも、シノさんは私の油絵を真っ直ぐに見つめていたから。  壁にかけてあるのは、私の精神世界の絵だ。夜、ひとりきりで過ごす薄暗い部屋に、僅かに差し込む外界の光が注ぐ。眩しくて不愉快で温かくて辛く、そして妬ましくあり羨ましくもあった。その時の私の、何とも言いようのない感情を一枚のキャンバスに移し込んだものだ。それは一般に抽象画と言われるもので、タイトルが「夜の帳」でなければ何を描いたのかわからないかもしれない。  そんな私の精神世界に、シノさんは真剣に向き合ってくれていたのだ。  私がかける言葉を無くしていると、ふいに彼のほうがこちらに気付いた。 「ああ、こんばんは。お忙しそうだったから、勝手に見させてもらっていました。ごめんなさい」 「いえ、私も気付かなくて申し訳有りません。ようこそおいでくださいました……」  もう舌にへばりついてしまった挨拶を口にしながら、シノさんの姿を改めて見る。グレーの落ち着いたスーツ。さらりとした整えられた髪に、アンダーリムの眼鏡。革のビジネス鞄に靴。左手首に腕時計。仕事帰りのサラリーマン、のように見えた。  シノさんは私の絵を見つめるのと変わらず、貫くように私を正面から見つめてくる。私の内面まで透かし見てしまいそうな、そのあまりに純粋すぎる視線から思わず目を逸らしてしまった。 「お邪魔します。ええと……お名前はそのまま、タマさん、とお呼びしていいんでしょうか?」  私のペンネームはアルファベットでTamaだ。私の本名、タヅマから単純に取った名前。 「はい、大丈夫です」  頷くと、シノさんは今では見慣れた柔和な微笑みを浮かべた。 「とても素晴らしい絵がたくさんあって、じっくり見させていただきたいのですが……お時間は大丈夫ですか?」  シノさんがギャラリーにかけられた時計を見る。開館時間は残り30分程度だ。私は少し考えてから頷いた。 「あと30分ですが、ギリギリまでいらっしゃっても大丈夫ですよ。閉館の準備には入ってしまいますけど……」 「ありがとうございます。私のことはどうぞ、お気になさらず」  シノさんはそう言って、また私の作品へ眼を向けた。  正直に言えば、シノさんの存在は私にとって、この退屈な数日間が無駄ではなかったと思わせるものだった。  親戚や知人が悪い人間でないことは、重々承知している。しかし彼らは私の作品を見ては、「へえ」とぼんやりした反応をするのみで、特になにも感じてはいないようだった。それはそれで一つの感想であるから、まだ構わない。ただ、私が戯れに描いた猫のスケッチなどを見て「こんな絵のほうが売れる」と言ってくるのには辟易していた。  売りたくて描いているわけではない、のだ。私は私の表現をしているだけなのに、彼らにはそれがわかってもらえない。もちろん、それがきれいごとであり甘えたことであるのも理解はしている。母の財力があってこそ、私はろくに働きもせず画家のような何かでいられるのだから。私の態度は不誠実であり、私の考えは愚かなのだ。  そんな私の絵を、シノさんはただただ、受け入れているように見えて。私は静かに、彼のことを少しだけ好ましく思った。彼は、私ではなく、私の絵をずっと見ていてくれたから。  私のような、無価値な人間よりも。そんな私が作り出した、何かに目を向けてもらえるのは、少し心地良かったのだ。あるいは、そこには彼にとっての価値が生まれているのかもしれない。そう思うことは、なにか私の救いにも繋がるような気さえした。  そんなことを考えているうちに、30分などあっという間に過ぎてしまった。シノさんは私の作品の数枚しか見ていないと言う。 「明日もこれぐらいの時間に来ていいですか?」 「ええ、大丈夫です。是非、いらっしゃって下さい」  まだ数日、個展は開いている。私は心からそう思い、頷いた。

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