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「……それで、タマさんは? そして……お巡りさんはどうなったんですか?」
シノさんは、静かに尋ねた。
私たちはベッドに腰かけたまま過ごしている。シノさんは、途中で私のために水を持ってきてくれた。長い時間話すのが得意ではない私にはありがたいことだ。今もまた、私はコップの水を一口飲んで、息を吐く。そうして、ひと呼吸おかないと次の言葉が出ないのだ。
「……私も無事では済まなくて、右足を骨折していました。井土さんは……私をかばったせいで、車にはねられて。病院に搬送されましたが、数時間後には亡くなられたそうです」
「……それは……」
シノさんは、言葉を選んでいるように目を伏せる。こんな話をされても、シノさんだって困るだろう。わかっている。わかっていて、私は打ち明けずにいられなかった。
「他にもたくさん怪我をした人がいて。突っ込んできた車は、ご高齢のおじいさんが運転していましてね。今でも覚えています、真っ青になって、泣きながら地面に額を押し付けて……」
「……悲しい、事故ですね、それは……」
「ええ……それで、私は骨折の治療と心のケアで、恩人である井土さんの葬式にも行くことができなくて……。それ以来両親が、特に母は過保護になりましてね。来る日も来る日も治療をされたおかげで、私の心も安定はしましたが……どうにも。元の気質も有るのでしょう、忘れることはできません。毎年命日には墓参りに行っているんですが……それでも、あの人が帰ってくるわけではありませんから……」
「……それは、とても……お辛かったでしょうね……」
シノさんの言葉に、私は「いえ、いいえ」と咄嗟に首を振った。
「私の辛さなんて、自業自得のようなものなんです。だって……私があの時バスを降りたりしなければ、事故に巻き込まれることも……井土さんが死ぬことも、なかったんですから……」
それは私の中にずっとある思いだ。
私があの時。気まぐれにバスを降りたりして。迷子になって。井土さんに見つからなければ。
きっとあの時間、井土さんはバス停などにいなかった。仮に、車が事故を起こすことは変わらなくても。彼は死ななかった。
私が。私が、井土さんを死なせてしまったのだ。
「だって、そうでしょう。数秒でもズレていたら、あんなことにはならなかった。ましてや私があの場にいなければ、きっと彼は違う場所で仕事をしていたはずです。今も元気に、優しい警察官として生きていてくれたかも。私が巻き込んでしまった、そして死なせてしまったんです……」
「タマさん……」
「そうして人の命を奪ったのに……私は最低の人間です。あの人に頂いた命を大切に、人生を楽しめるわけでもなし、かといって詫びて死ぬこともできない。必死に生きるわけでもなく、親の金で生かされているばかりのろくでなしで……井土さんにも、その遺族のかたにも申し訳が立ちません……」
それが私の、どうしようもない真実だ。
「……いえ、頭ではわかっているんです、たくさんの人に言ってもらいましたから。もしを追及しても過去や今は変わらない。全てが私のせいではないし、そんなことがあって立ち直るのが困難なのもしかたないと。……わかっていて、やはりそれでも納得できない」
「納得できない、ですか……」
「はい、私は……私はあの人の命を奪ってしまったというのに、こんな風にのうのうと生きる資格は、ないと感じて……」
「…………」
シノさんが俯いてしまって、部屋には重苦しい沈黙が満ちた。私は自分で言い出したことなのに耐え難い心地になる。シノさんへ迷惑をかけているような気がして、「ご、ごめんなさい」と思わず謝罪した。
その時、シノさんの両手が、私の左手を包んだ。驚いて見ると、シノさんはどこか泣き出しそうなような、それでいて優しい微笑みを浮かべて私の瞳を見つめていた。
「謝らないでください、タマさん。僕は、聞けて嬉しいです。タマさんの辛い現実の一端を、教えてもらえて」
「い、いえ、ですから私は辛くなど」
「タマさん」
シノさんは優しい、けれどしっかりとした声で私に告げる。
「自分の辛さを、人と比較したり。隠そうとしたりしなくても、いいんですよ。ここには僕とタマさんしかいないんですから」
「……シノさん」
何故だろう、私はその言葉にドキリとした。胸がドクドクと、重く騒がしい。初めて、彼の次の言葉が怖いような気がした。
「これは、僕が初めて伝える言葉ではないかもしれない。タマさんもわかっているかもしれない。それでも、僕の思うことをお伝えしますね」
シノさんはゆっくりと、子どもの私に言って聞かせるように穏やかな声で、続ける。
「僕はね、あなたがとても優しい人なんだと思います」
「優しい、ですか……?」
「はい。あなたはきっと、死んでいった人や遺族、加害者となってしまった人、そして我が子が危険に晒された家族、みんなをとても大切に思っているんです。だからあなたは、懸命に生きなければ、乗り越えなければ、幸福にならなければと考える反面、その真逆のことも考えてしまうんじゃないでしょうか。きっと死んだ人は無念だった、遺族は生き残った自分を憎んでいる――そんな風に、板挟みになっているんです」
「ですが、実際そうだと思うんです。死んだ人の気持ちなどわかりようも無いですが、さぞかし無念でしょうし、遺族だって悲しむでしょう」
「そうですね。実際そうかもしれません。でも、確認のしようがないなら、そうではないかもしれないでしょう?」
「……それは……」
それは、そうだ。私が返事に窮していると、シノさんは私を責めるでもなく、叱るでもないように、極めて言葉を選んでいる様子でゆっくりと続けた。
「ねえ、タマさん。警察官というのは大なり小なり、社会の平和や治安を守りたくてなるんじゃないでしょうか。そしてあなたを助けた人は、その職務にあたっている最中でした。迷子のあなたに視線を合わせて声をかけ、雨の中バス停まで案内してくれるような、それは優しい人だったんでしょう」
「…………」
「そんな人が、あなた一人生き残ったことを恨むと思いますか? もちろん、死にたくはなかったでしょう。でも、あなたも死ねばよかったなんて考えると思うんですか?」
「そ、それは、……そんなことはないと、……思います……」
でなければ。あの時私を突き飛ばして庇ったりはしなかっただろう。自分が助かりたいのなら、私などおいてひとりで避ければよかった。見ず知らずの子どもなど捨て置けばよかったのだ。
けれど、彼はそうしなかった。それは恐らく、彼がそうしたかったから、だろう――。
「もちろん、先ほども言った通り、確認のしようはないです。それに……ご遺族のかたの考えも。でもね、タマさん。僕は部外者ですから、的外れなことを言ってしまうかもしれませんけど……」
シノさんは、ぎゅっと私の手を握る力を強くする。
「あなたが、その人を直接手にかけたならまだしも。そしてあなたが、立派な大人だったならまだしも。あなたはその時まだ、小さな子ども……誰かに守られてしかるべき年齢で。そしてあなたもまた、何か運命のようなもので不幸に見舞われた、被害者でもあるんです。そんな人を……僕がもし遺族なら、恨んだりなんてしません。僕はあなたが心配になるでしょうし、健やかに生きてくれることを願うと思います。死んでいった人の分まで、幸せになってほしいと……」
「シノさん……」
「だから、ね、タマさん」
シノさんが、目を閉じて。静かに、けれどはっきりと聞き取れる声で囁いた。
「あなたも、辛いと思ったって。悲しいと思ったって、いいんですよ。あなたの痛みは、あなたの悲しみ、苦しみはあなたのもの。誰とも比較することはないんです。この世界には、人の力ではどうしようもないことがたくさんあって、あなたはそれに巻き込まれてしまった。それでいいんです。だからね、タマさん」
あなただって、泣いてもいいんですよ――。
シノさんが涙を浮かべて告げた時、私の視界は濁ってしまった。
頬が、目頭がどうしようもなく熱い。やがてぽたりと太腿に雫が落ちたのを感じる。私はそれを確認することもできないまま、ボロボロと涙を溢れさせていた。
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