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暗い雲の下、正午を少し過ぎた公園。いつもと変わらない景色、名も知らぬ人々が行き交う。そんな中で、私はベンチに腰かけている。
そこへシノさんが、ビニール袋を片手にやってきた。その左手首に、腕時計が輝いて見える。あの日、私が井土さんの腕に見たものと、よく似ていた。
イーゼルも何も持たず、ただ座っていた私を、シノさんはどう思ったのだろう。彼は隣に腰かけながら、「今日は気分転換ですか?」と尋ねてきた。
そういえば、この人は以前、私にGPS発信機をつけていると冗談を言った。しかし今では、本当にそれが冗談なのかわからない。
どうしてシノさんは、私の居場所を突き止め、受け入れるようなことをするのか。あまつさえ、私とセックスなどをして。私を許すなどと言い。それで彼は何がしたいのか。どうして、こんなことになったのか。
どうして、どうして、どうして。
私の頭の中はそれでいっぱいだった。
「……タマさん?」
どうかしましたか? 顔を覗き込んでくるシノさんが信じられず、末恐ろしい。
もしこの人が、井土さんの子どもだとしたら、素知らぬ顔で嘘をつける男なのだ。いや、嘘ではないかもしれない。とてつもなく大きな物を隠して、平気な顔ができるのだ。そんな人の何が信用できるのか、私にはわからない。わからなくなっていた。
ビニール袋の中身に手も付けず、シノさんは私を見つめている。頭の中を思いが駆け巡る。それを言葉にする頃には、いったい何分が経っていたかわからない。あるいは、シノさんにしてみれば一瞬のことだったかも。
なんにせよ、私がまず口にしたのは、「嫌がらせを受けているんです」という言葉だった。
「……嫌がらせ、ですか」
「定期的に、というより毎日、届くんです。その、内容は中傷だったり、私に死ぬよう促すものなんですが……」
「それは……どちらかに相談はしましたか? たとえば、弁護士や警察などには……」
「い、いえ。誰かに打ち明けるのは、今日が初めてで……」
私は震える手を握り締める。疑念を持ってしまえば、シノさんの全てが怪しく思えた。誰かに相談したのか、という問いは、きっと犯人だってするだろう。
思えば、シノさんは自分のことを殆ど語らなかった。私は彼のことを何も知らないのだ。身体ばかり繋げて、私の弱味ばかり見せて。シノさんは私に何も見せてはくれなかった。
「それで、先日、お話しましたよね。私を助けて亡くなってしまった、警察官の――井土さんの話を」
「ええ。タマさんにとっては、辛いお話でしたね……」
私にとっては。
まるで他人事のような口ぶりに、私は祈る思いだった。全てよくできた偶然ならいいのだ。そうであれば、私たちはこれまで通りの関係を続けられる。
――はたして、そうだろうか?
私の疑念は、シノさんが否定したところで晴れるものなのか? そして、一度でもこの優しい人を疑ってしまった自分を、私は許せるのだろうか?
「……井土さんには、子供がいました。一人息子だそうです。私と同い年で、今も欠かさず毎月墓掃除に来ていると聞きました」
「……はい」
「その人の名前は……シノ。井土シノというそうです……」
「………………はい」
シノさんは大きく表情を変えはしなかった。しかし、その視線が地面に落ちるのを見た。私はたまらなくなって、シノさんに問いかける。
「シノさん、あなたのその名前は本名なんですか? であれば、苗字なのか名前なのかを教えてください。いえ、教えてくれなくても構わない、あなたが井土シノさんなのかどうか、それだけでも教えてくれませんか」
「…………」
シノさんは私から目を逸らしたまま、しばらく何も答えなかった。その時間が、痛い。胸が苦しく、何も入っていない胃から何か出てきそうだ。シノさん、と名を呼んでも彼は口を開かず、私は畳みかけるより他無かった。
「もし。もしです。あなたが井土シノさんなのだとしたら、あなたと私の関係は根底から全て変わってしまうんです。あなたは恐らく、私の個展へ偶然訪れたわけじゃない、私だとわかっていて来た。全て知ったうえで私に話しかけ、私とこうして時間を共にし、……あまつさえ、……あまつさえ……」
そこから先は、こんな場所では言えなかった。曇り空の公園には、暑いながらも人の姿がまばらにあるのだから。過ごした日々の熱が、私に芽生えた甘い感情が、冷たく塗り替えられていくのを感じる。
全て、全てシノさんが、私を騙すためにしていたのだとしたら――。手が、震えた。
「……もし、そうだとしたら。私はあなたの何を信じていいのか、わからないんです。素性を偽ってまで、どうして今更私の前に現れたのか。あなたは全てを知っていた、知っていてどんな気持ちで私の言葉に耳を傾け、許すと言ったのか。そして――あの、嫌がらせのメッセージは、あなたが送ったものなのかどうか」
「…………」
「お願いです、教えてください、シノさん……!」
それでも、シノさんは何も言ってはくれない。それが答えのような気がして、私は彼の腕を掴んだ。
その左手首には、腕時計が光っている。まるであの日――井土さんが身に着けていたものと、同じような。
「この腕時計、知っているんです」
「……腕時計?」
「井土さんも、同じものをしていたはずです。そしてこの時計は止まっている。これは……あなたのお父さんが亡くなった時間、ですよね……?」
「…………」
「シノさん……!」
「……僕が答えられることは、2つだけです」
シノさんは、ようやく口を開いてくれた。しかし、その瞳は私を映さない。それは静かに、公園の土を見つめるばかりだ。
「僕の本名は、井土シノといいます。それで間違いありませんよ」
「……!」
予想していた答えだ。けれど、突き付けられたことの重さに、私は思わずシノさんの腕を離した。
本当に。シノさんが、井土さんの遺族だというのなら。
私たちの全てが、まるで変わってしまうのだから。
「……シノさん、では……」
「もうひとつ、お答えできるのは。……僕があなたに伝えたことが、全てです。それ以上、僕から言えることはありません」
「そ、それではわかりません。シノさん、私の質問に答えてください、お願いですから」
「タマさん」
シノさんは、ようやく私の顔を見た。その表情はいつもよりも寂しげで、冷たくも温かくも見える複雑なものだった。その瞳が、私を貫く。それで私は、何も言えなくなってしまった。
「あなたの感じたことが全て、ですよ。僕がどういうつもりであなたのそばにいたのか。僕が何をして、何をしていないか。説明したとしても、あなたが納得できるわけがない。あなたの感じたこと、それがあなたの全てなんですから」
「……シノさん、」
「でも、僕はそれでいいと思っています。あなたがそう思ったのなら、そうなんです。事実なんてどうでもいい。人間にはどうしようもないことが、この世界にはたくさんあるんですから」
シノさんはそう言って立ち上がる。私は彼に手を伸ばしたけれど、その手がシノさんに届くことは無かった。
「もう、二度とあなたに会ったりは、しませんから。あなたを騙したこと、本当にごめんなさい」
「シノさん」
「さようなら、タマさん。どうかお元気で」
そう言い捨て去って行くシノさんの背中を、呆然と見送ることしかできなかったのだ。
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