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第8話

 父がいなくなってから、僕の生活はずいぶんと様変わりした。  専業主婦だった母はシングルマザーとなり、僕に構っている暇が無くなった。父は死亡保険をかけていたけれど、そのお金だけでは僕たちの暮らしは守れなかったのだ。  母は働きに出るようになり、しばらくして家に男を連れ帰った。「あなたの新しいお父さん」と紹介された男は、髪を茶色く染めた軽薄そうな自営業主だった。  母が望むなら、僕は彼を父と呼ぼう。そう決めたけれど、すぐにその必要も無くなった。彼らの間に、新しい命ができたのだ。 「シノはこっちの部屋で過ごそうか。赤ちゃんが泣いてると、お勉強に集中できないものね」  母は笑顔で、家の片隅の部屋を僕に与えた。元は物置だった部屋だ。母が望むなら、僕はその部屋に住もう。それだけを思った。  弟ができると、僕の生活はますます変化した。母や義父、弟は仲良く家族の団欒を過ごしており、僕にはあまりものやインスタント食品が与えられるようになった。中学生という多感な時期を迎える頃には、僕はその異常さに気付いていた。  しかし、それもまた仕方ないのだろう。僕は部屋いっぱいの本の中に、答えを見つける。サルは群れで一番強いサル、通称ボスザルだけがメスと交尾して子供を作る。そして新しいボスザルが現れたときには、前のボスザルの子を殺すのだ。自分の遺伝子だけを残すために。そう考えれば、僕の命が取られなかっただけマシだろう。  なんにせよ、僕はただの厄介者だった。誰にも愛されず、誰も愛さない。そんな、ひとりぼっちの存在だ。  僕はその頃、死んだような目で毎日を送っていたと思う。学校でも一人離れていた。時折教師は僕を気にかけたけれど、その度とびきりの笑顔で応対すれば、もう僕を心配することもなかった。  それでいい。これで。  そう、納得していたはずだったのだ。 「あ……」  僕が、再び魂を揺さぶられたのは、偶然通りかかった絵画コンクールの展示会に、彼の絵を見つけたときだ。 「飯田、タヅマ……」  それが彼の絵だと、見た瞬間にわかった。荒々しい筆遣いは、何への怒りで震えているのだろう。そう、僕はその絵を見た瞬間、彼は怒っているのだと感じた。  くしくもそれは以前と同じ、交通安全をテーマにしたコンクールであり、彼の絵は荒々しく凄惨な事故を――恐らく、表現しているのだと思う。波打つ黒を基調とした絵の中に、狂おしい感情の昂りを感じる。彼がこのテーマについて激しく心を震わせているのことを。  そういえば。  父さんに選ばれて、守られて生き延びたこの子は。この特別な子は、あの事故をどう思って、今どんなふうに生きているのだろう。  最初は、純粋な興味だったのだ。 「僕はまず、あなたという人を知ることから始めました。学校名も名前も書いてあったので、僕は折を見てあなたを探しに行ったんです。悪い子でしたよ、学校には病欠と連絡してあなたの中学校まで行きました。何度か繰り返して、ある時ご学友からあなたのことを教えてもらえましたよ。それで、後をつけました」 「後をつけたって……」 「はい。はっきり言って、僕はストーカー行為を始めました」  微笑んで告げると、タマさんはさすがに驚いた様子だった。当然だろう。タマさんにしてみれば、好意を持っていた相手に、古くから……10年前後、ストーカー行為をされていたのだから。 「……では、ずっと私を……知っていたと。私の家も……私がどのように過ごしていたのかも」 「そうでもあるとも、そうではないとも言えます。僕は確かにあなたの通う学校や、絵画教室、周りからの評判を知っていました。けれど、核心部分――あなたが、あの事故以来どのような気持ちで過ごし、どんな感情をこめて絵を描いたのか。つまりあなたの心まではわからなかったんです」 「……それでは、まるで……」 「そうなんです! タマさんったら、僕とまるで同じことをしているんですから……おかしくっておかしくって……」  そう。僕はタマさんに近づかなかった。話したことだって、あの個展まで一度も無かったのだ。  まるで絵を眺めるように。飯田タヅマという人を、眺めて見つめて、感じることだけを続けた。彼の暮らしぶりは豊かで、僕とは正反対のように思えた。  けれど、その表情はいつも物憂げだ。 「僕はね、僕の……正直に言ってどうしようもない現実が、あなたの幸せとの引き換えだったのなら、納得できるような気がしていたんです」 「引き換え……ですか?」 「はい。……父を失った僕が、なにも得られない暮らしをしているのは。父に救われたあなたに、全てが与えられるからだと。……あなたが幸せに暮らしているのなら、それでいいような、気がしたんです。もしかしたら……心のどこかで、諦めきれてはいなかったのかもしれないですね。自分のおかれた境遇を」 「…………だって、シノさんの、その……暮らしは……」  タマさんは言い淀んでいる。彼の言おうとしていることはわかっていたから、僕は首を振った。 「終わったことですよ。僕は「母の家族」と決別しました。手を尽くして縁を切った。タマさんが美大付属の高校へ進学した頃、僕は全寮制の高校に入り、あなたが美大に通っている頃、僕はアルバイトをしながら大学へ行きました。そして僕はようやく自由な暮らしを、ひとりの時間を手に入れたんです。晴れ晴れした気持ちでした」 「……」 「それなのに、困ったことが起こりました。タマさんは、まだ暗い顔で過ごしていたんです」  僕はそれを、ずっと見ていた。高校生の時も、大学生の時もタマさんには評価がついて回っていたけれど、彼自身はそれを少しも喜んでいないように思えたのだ。  陰鬱な色使いと、何か思いのたけをぶつけるような筆遣いに、僕は惹かれていた。コンテストの結果発表の場や、大学の卒業展示会にも足を運んだものだ。けれどいつでも、タマさんは浮かない顔をしていた。  それが、気がかりだったのだ。 「僕はしがらみから解放されました。なのに、タマさんは何かに囚われたままのように思えた。先日の個展の話を知り、僕はあなたに会うことを決めた。あなたと言葉を交わせば、何かわかるのではないかと思って」 「ですが、シノさんは……私に多くを語らず、求めませんでした。私に名乗りもしなかった……」 「お恥ずかしい限りですが、その通りです。……その必要が無くなってしまったんですよ」 「そ、それは、その。どういう……?」  タマさんが不安そうな上目遣いで尋ねてくる。僕は思わず目を細めた。 「だって……僕はあなたの絵が、好きでしたから」 「え……?」 「久しぶりにタマさんの作品を見ていたら、自分が何者かなんてどうでもよくなっちゃって。ただ、絵を見たくなったんです」 「……は、……はあ……」  なんともいえない表情で、タマさんは困惑した。 「そ、そんな……どうでもよくなったりするものですか?」 「まあ……正確に言えば少し違いますけどね。個展へ入ってきた僕に全然気付かないものだから、先に絵を見ていたんです。その時は、気付いた時に名乗ればいいと思っていました。でも、あなたの絵を見ていたら、気が変わって」  コンクールや卒業展示会、といった「課題」で描かれたわけではない、タマさんの自由な絵。画題や時間に括られず、タマさんが、恐らく描きたくて描いた絵は、それまで見てきた物とは少し、違って感じられたのだ。 「荒々しい筆遣いは落ち着いて、夜の海みたいに静かな色が、優しい筆遣いで描かれていたんです。僕は不思議に思って。タマさんに、どんな心境の変化があったのか知りたくて、まずは感じ取ろうとしました。それで、あなたの絵をたくさん見たかった。色々眺めている間に、僕なりの答えは出ました。だから今度は、……答え合わせというわけでもないですが、あなたと話したくなって」 「その、シノさんなりの答えというのは、教えてもらえませんか?」 「それは少し、恥ずかしいので。でも、後のことはタマさんもよく知っているとおり。あなたの絵を、ひいてはあなたのことをもっと知りたくて、接近しました。それだけですよ、僕があなたに接触した理由は」  僕に、大した理由など無かった。いや、もしかしたら十分すぎるほどに「事情」はあったかもしれない。けれど、僕は純粋に、タマさんのことをもっと知りたかったのだ。そこに自分の境遇や過去は関係無かった。少なくとも、僕の意識には登っていなかったのだ。

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