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第9話
私たちの境界線は、日々曖昧に溶けていく。それはまるで、よく濡れたキャンバスへ落とした絵の具のように。
それがいいことなのか、悪いことなのか。人はなんとでも言うだろうし、どうとでも感想は持つだろう。しかし、それはその人の見た、私たちだ。そして、ふたりの間にはそれぞれが見た、私たちの関係が有る。
それは正しくないだろうし、同時にどうしようもないほど正しい。私たちがそう感じる限りにおいては。
私の家の玄関には、段ボールが並んでいる。6箱も、ともいえるし、たった6箱ともいえるそれを前にして、私は目を丸くしていた。
「……シノさん、本当に荷物はこれだけなんですか?」
「はい。これだけですよ」
シノさんがあっけなく頷いたものだから、私はもう一度段ボールを数える。確かに、6個だ。
「……引っ越しの荷物が……段ボール6箱……」
引っ越しの時、業者に「本当に1人暮らしなんですか? 本当に?」と尋ねられた私とは大違いだ。シノさんの段ボールには、「衣類」「本」「その他」としか書かれていない。事前に少ないとは聞いていたけれど、これほどとは思っていなかったのだ。
「色んな部屋を転々としたので、すっかり身軽になってしまって」
「そう、ですか……あの、家具は……」
「部屋に備え付けだったので。便利ですよ、いちいち買ったり運んだりしなくていいですから」
「寝具は……?」
「大した値段ではなかったので、処分しました。今日にでも新しい物が届く予定です」
「……ですか……」
私は納得せざるを得ず、それ以上の質問は諦めて、シノさんの荷物を空き部屋まで運んでいくことにした。
私たちはこれから、一緒に暮らす。
それは私からのお願いに対して、シノさんが出してきた提案だった。
シノさんの職場から私の家は、それほど離れていない。私は「自立する」という目標を掲げたけれど、人はそれほどすぐに変われるものではない。当面のお金を稼げるまでシノさんは私の家へ移り住むことにしたのだ。
理由は様々ある。もちろんふたりが離れがたい関係となったのもあるけれど、私に社会へ出る方法をレクチャーしてくれるとのことだった。なにしろ、シノさんのほうは保険会社の営業をしているらしいし、人との付き合い方や社会のマナーには心得がある。気合いだけでなんとかなるのは、若くて前向きな人ばかりだ。私のような人種は、とにかく質のいい準備こそが身を助ける、とはシノさんの弁。
それにあたって母へ、彼の素性を隠して相談をしたけれど、「いいじゃない」と二つ返事を頂いた。
「どうせ部屋は余っているのだし、人と共同生活をするのも勉強になりますよ。それに私もタヅマさんがちゃんと生活をしているか、見守ってくれる人がいるなら助かります」
母はそう言っていた。ちゃんとそのお友達を大事にするのですよ、と言われ、身が引き締まる思いがする。
そんなわけで、私たちは新しい暮らしを始めることになったのだ。
「こんなに良い部屋を頂いて、本当にいいんですか?」
シノさんの部屋は、私の向かいにあり、これまでは特に使っていなかった場所だ。8畳ほどで、既にカーペットが敷き詰められ、クローゼットが壁に埋め込まれている。南向きの大きな窓もあり、そこからバルコニーへと出られた。
シノさんがこれまで暮らしていた、どんな部屋よりも豪華らしい。彼はその広い部屋に、たった6つの段ボールを運びこんだ。家具の無い部屋に、私たちの声は妙に響き渡った。
「もちろん、シノさんの好きにしてください。ここは、あなたにとって安心して過ごせる場所になるのでしょうから。本棚や机も用意しましょう、私が使っていない物もありますし」
シノさんが私に振り向いて微笑む。
「ではお言葉に甘えて」
実際のところ、シノさんの荷物を運ぶことより、家の中の使っていない家具を部屋に持って行くほうが重労働だった。画材を運ぶから私のほうが少しだけ腕力が強かったものの、しょせんふたりともインドア派であり、いくつか運び込んだだけですっかり疲れてしまったのだ。
物自体が少ないのだから、新しい家具を持ち込むのにもそう苦労はしない。我々は今日中に部屋を完璧にすることは早々に諦め、本棚へ本を、コートハンガーに服を、それにいくつかのカラーボックスに私物をしまい込むことで仕事を終わりにした。
一仕事終えた後には、お腹が減るものだ。時計も昼時を刺しており、私が「カレーができてますよ」とシノさんへ言うと、彼は何故だか困った表情をする。
「それは嬉しいです、でも……。いつもこんなことばかり言って、とても申し訳ない限りなのですが……」
「なんでしょう……?」
「その……」
聞き返しても、すぐには返事が無かった。シノさんは少しの時間をおいて、私の顔を上目遣いに覗いて言った。
「久しぶりに、……あなたのベッドへ入れてはもらえませんか?」
「…………それというのは、つまり……」
口にしてから、理解が追い付いてくる。私は頬が熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。
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