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一体なんで、こんなことになってしまったのだろう。よりにもよってあんな下衆に写真を撮られてしまっていただなんて。
あの日、何が何でも無理やり帰ればよかった。欲望に負けて周りが見えなくなってしまっていた自分が情けない。
あの写真には自分だけではなく蓮も映っていた。という事は蓮も自分と同じように本田に脅されるのか?
――いや、アイツに限って多分それは無いだろう。それに、アイツを心配してやる義理なんて無い。
フラフラと歩いていると夜風が身体を冷やしていった。昼間はまだまだ残暑が厳しい日々が続いているが、夜になるとコオロギや鈴虫の大合唱が響いて来て、秋めいてきたことを実感させられる。
理人は足を止めて空を見上げた。都会の光に照らされて星は見えないが、それでも雲一つない澄んだ空気が穢れた心と体を浄化してくれるような気がした。
「――お兄さん!」
「え?」
聞き慣れた声がして反射的に顔を上げる。気が付けばいつもの公園に来てしまっていた。薄暗い闇の中から見覚えのあるシルエットがこちらに駆け寄って来る。
「……秀一……」
「良かった。もう、会えないかと思った」
安堵の表情を浮かべながら、秀一は申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「この間はごめんね。僕、楽しみにしてたんだけど……姉さんが、怒っちゃって……」
「気にするな。また今度連れて行ってやるし。そんな事より……」
「ん?」
あの日、理人たちが接触したことで、秀一は何か酷い事をされたりしていないだろうか?
それだけが心配だった。見た感じ、怪我をしている様子などは見受けられない。
「いや、いい」
だが、直接本人に聞くのは躊躇われた。もしも傷ついていたりしたら、どうしたら良いかわからない。
理人は首を横に振った。その様子を見て、秀一は何かを察したのだろう、苦笑しながらふわりと微笑んだ。
「大丈夫だよお兄さん。お兄さんが思ってるような事は何もないから。ただ……」
そこまで言うと、秀一は少しだけ悲しげな顔をして俯いてしまった。どうしたというのだろう。
不思議に思いながらも、続きを促すように黙って秀一の言葉を待つ。
「あのね、僕の両親……やっと離婚が決まったんだ」
「……そう、か」
あまりにも唐突に告げられた内容に、理人は戸惑いを隠せなかった。
だが、秀一が置かれていた状況を考えれば、良かったと言うべきだろうか?
複雑な心境になりながら、理人は静かに相槌を打った。
「うん。それで……神奈川に引っ越すことになっちゃって」
「神奈川……」
同じ関東圏内ではあるが、かなり距離がある。気軽に会いに行くことは難しそうだ。
今までのように、気が付いたら側に居てタコの遊具の下に隠れて密やかな逢瀬を楽しむことも出来なくなるのだと思うとなんだか寂しさを覚えた。
まさか、こんな形で秀一と離れることになるなんて思わなかった。
「いつ行くんだ?」
「……明日の早朝。……だから最後にどうしてもお兄さんに会いたかったんだ。 本当に会えるとは思って無かったんだけど。……良かった。今日会えて」
秀一は寂しそうに笑って、理人に抱きついて来た。別れを惜しむように、強く抱きしめられる。
「お、おい」
「僕、お兄さんの事……好きだよ。絶対に、忘れないから」
今にも消え入りそうな声で、だがはっきりと理人の耳に届いた。少し触れたら泣き出してしまいそうな切ない声色に胸が締め付けられる。
そろりと背に腕を回すと益々強い力で抱き締め返された。
「たく、苦しいっての……」
苦笑しつつ腰を屈めて目線を合わせる。本当に綺麗な顔をしている。何処に行ってもきっと彼はモテるだろう。
「元気でな」
言いたい事は多々あった。けれど、どれも違う気がして、口に出せたのはこの一言だけだった。
「うん。大きくなったら、絶対にお兄さんに会いに行くから!」
「あぁ。楽しみにしてる」
「だから……、負けちゃだめだよ」
その言葉の意味をすぐに理解する事は出来なかった。
だが、真っ直ぐに見つめてくる真剣な眼差しに、理人はしっかりと首肯した。
その後、何時ものように迎えに来た姉に連れられて秀一は戻って行った。
「神奈川……か……少し、遠いな」
小さくなっていく後姿を見送りながらポツリと呟く。
出来る事なら、転校した先で彼が辛い目に遭わないように――。そう、願わずにはいられなかった。
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