大なため息を吐いて、理人はゆっくりと顔を上げた。時計を見るともうすぐ5時だった。放課後の教室には理人意外誰も残っていない。もう一度溜息を吐くと、開いていた教科書をパタンと閉じた。 今日も、生徒指導室に来るようにと本田に呼び出されている。そろそろ行かなくては……。 あの日以降、暇さえあれば本田に呼び出され口で奉仕することを要求されることが増えた。屈辱的で仕方がない行為でも、身体を明け渡すよりはましだと何とか堪え続けている。 そう言えば、以前も似たような事があったなと理人の口元に自嘲的な笑みが浮かぶ。 あの時自分を呼び出していた相手は蓮だった。どうしてこの学校にはクズしかいないんだろう。 理人は鞄を手に取ると、重い足取りで指定された場所へと向かった。 教室を出て渡り廊下を歩いていると、資料を抱えた蓮とばったり出くわした。 驚いたのと、気まずいのとで、一瞬言葉に詰まる。 蓮も同じような気持ちなのだろう。目が合うとバツが悪そうな表情を浮かべて互いの姿を凝視する。 「久しぶりだな。元気そうじゃないか」 蓮は狼狽えながらもそう尋ねてきた。良くもぬけぬけとそんな事が言える。 散々人を弄んでおいて突然一カ月も音沙汰なしだなんて、一体どういうつもりなのか。 言いたいことは沢山あったが、そのどれもが言葉にならず、僅かに空気が洩れる音が響くのみ。 「……なんで、連絡寄越さなかったんだ」 結局、口から零れたのはそんな質問だった。 本当は、もっと他に聞きたいことがあったはずなのに、何故だか上手く舌が回らない。 「別に約束はしていなかっただろう？」 「それは……っ、そう、だが……」 「それとも、俺に抱かれるの期待してたのか？」 揶揄するような声にカッと顔が熱くなる。別に期待をしていたわけでは無いが一人で慰めていた事実を見透かされてしまったような気がして恥ずかしくなったのだ。 「……そんなんじゃねぇよ」 「本当か？」 ククッと喉の奥で笑われ、ますます羞恥心が込み上げてくる。 「……ケンジに、謝罪に行ったって聞いたけど……今更どういうつもりだ？」 ケンジの名前を出した途端、蓮の顔が引きつったのがわかった。 どうやら触れられたくない話題だったらしい。 だが、理人はあえて踏み込むことにした。 「なんで、アイツには謝罪に行ったのに俺には連絡一つ寄越さなかった？　俺なら放置しても問題ないとでも思ったのか？」 問い詰めるようなきつい言い方になってしまったが、気を遣ってやる余裕も必要性も感じない。 「それは……っ」 「それは？　なんだよ」 こんな所でするべき話では無いと、頭ではわかっていた。けれど、今ここで聞いておかなければもう二度と話す機会が無いような気がして一気に蓮との距離を詰めて蓮の顔を覗き込む。 「――怖く、なったんだ」 「あ？　怖いって、何が……」 「夏休みにバイトを始めて、自分のやりたいことが見つかった……。スーツアクターの仕事が思いの外楽しくて、それで今まで漠然としていた将来のヴィジョンがはっきり見えてきたんだ」 蓮は理人の方を見ようとはしなかった。話している言葉に嘘や偽りは無いのだろうが、視線は気まずげに床に落ちたままだった。 「……つまり、夢を叶える為に今までして来たことが足枷になることを恐れたって事か……」 「……」 蓮は肯定も否定もしなかったが、沈黙は即ち肯定を意味する。 「チッ、ほんと最低な野郎だなお前……。結局自分の事しか考えてない。ケンジはそれで納得したのかもしれないけどな……じゃぁ俺は？　なんで俺には何も言いに来ない！？　俺なら、あの写真がある限り言いなりだからフェイドアウトして何もなかったことにすればそれでいいって？　それとも……俺には言う価値もないって、事か」 「違う！！　そうじゃない！」 ようやくこちらを見たかと思えば、今度は必死の形相で理人の肩を掴む。その勢いに思わずたじろいだが、すぐに我に返り、理人は掴まれた手を振り払った。 「じゃぁなんだ！　何が違う？」 「……何度も、君に連絡しようとした。……でも、正直に話そうと思うと、指が震えて、どうしても出来なかったんだ」 蓮は振り払われた手をじっと見つめながら力なく項垂れてそう言った。その声は酷く弱々しく、まるで叱られた子供のような悲壮感を漂わせている。 「――なんでだよ。なんでケンジには言えて、俺には話せないんだ！」 「それは俺が君を――……っ！」 そこで言葉を区切り、蓮はハッとした様子で口をつぐんだ。そのタイミングで反対側の廊下から蓮を呼ぶ声が掛かり、理人との会話は中断された。 「ごめん。本当にすまないと思っている……。あの写真もデータは消す。……君も俺の連絡先も全て消してくれて構わない」 蓮はそれだけ言い残し、逃げ去るようにして去って行った。 「くそ……っ、意味わかんねぇ……。なんなんだよ、一体……」 取り残された理人は一人苛立ちを募らせながらその場に立ち尽くした。　本田からの呼び出し時刻は容赦なく迫っていた。