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第5話 翡翠の谷

如月に引き続き調査を頼んだ翌日、陽向は長老に呼び出され、翡翠の谷へと向かうよう命じられた。 「鉱物採取ですか」  ここから十里ほど離れた場所に翡翠の谷はある。ここは翡翠を始め、琥珀など鉱物を切り出せるようになっており、里の生活用品としてそれらの鉱物は利用されていた。 「お前は足も速いしあの辺りの地理にも明るいからな。頼めるか」  たっぷりとした白いひげをしごきながら軽い口調で言われ、陽向は内心顔をしかめた。  確かに十八となって一人前の大人として扱われるようになってから、陽向にあてがわれた仕事は里の外の警備や鉱石類の採取などが主だ。だから翡翠の谷の場所も当然わかる。わかるが、そこまでの道の険しさをこの老人はまるでわかっていない。人を顎で使うことに慣れた人間はこれだから困る。  地下世界は里の中は光を絶やさないようになっており、生活するうえで十分な明かりは確保されている。だが、里を一歩出るととたんに暗黒に閉ざされる。遠出する際は、里の最高位者、光の巫女より疑似太陽の一部を分け与えられ、その光をランプに灯して進むことになるが、里の外はほとんど道の整備がされていない。正直、暗がりでの夜目が効くという長所もあってこの職務を任されることが多い陽向にとっても、翡翠の谷までの道は決して楽なものではなかった。  行く前からげんなりしたが、陽向の働きによって里の皆が助かるのも確かなのだ。断るわけにもいかない。  不承不承頷いた陽向は、翌朝、少しの食糧と水、鉱物採取用のノミや麻袋など一式を背に、翡翠の谷へと向かった。  翡翠の谷は相変わらず遠かった。道なんてないも動線だし、太陽のかけらによって数歩先しか照らされない暗黒の世界が延々と続くことで心も滅入る。しかし立ち止まって闇に飲まれるのも恐ろしく、陽向は道なき道をを進み続けた。  歩くというより山登り、岩登りと表する方が正しいような、まっすぐ歩ける場所のほうがまれな道を歩き続け、谷にたどり着いたのは里から出発して十時間以上経ってからだった。  陽向はランプを前方に向けてかざす。切り立った崖があり、闇よりもなお濃い黒がぬらりと崖下に向かって横たわっていた。  翡翠の谷は、この崖下。  陽向は、岩壁に杭を差し込み、縄で体を支えながら谷底を目指して下り始めた。腰に結んだランプから、太陽のかけらがわずかな明かりとなって陽向の足元を照らしている。  無音の中、自分の呼吸音と岩肌に杭を穿つ音だけが耳を打つ。  里からも遠く離れたこの場所には人の気配などない。生物の気配も。  世界には自分だけがいる。そんな感覚に陥る。  そのときだった。  からん、となにかの音が耳を打った。なんだろう。小石が靴先に当たり、谷底へと転がり落ちた音のような。  まさか誰かが上にいるのだろうか。  そんなわけはない、と思いつつ、陽向が動きを止めたときだった。  今下って来たばかりの崖の上からまた音が響いた。ぎりぎり、となにかが擦れるような音だ。とっさに片手で杭を掴み、腰につるしたランプを残った手で持ち上げて頭上を照らす。  その陽向の目に黒い人影が映った。容姿はわからない。ただ真っ黒い人影が崖の端に膝をつき、こちらを見下ろしているのがわかる。 「誰だ!」  声を上げたとたんだった。ふっと体が宙に浮いた。そのときになって陽向は悟った。  ぎりぎり、というあの音。あれがなにを意味していたのかを。  崖の上の岩にくくりつけてきた、陽向の体を支える命綱を刃物で切り落とそうとする音だったのだ。  気づいたときには遅かった。陽向の体はまっさかさまに谷底へと落ちていった。

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