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第19話 どうして

 ふっと彼の顔が近づき、顔の前に影が差す。あの、と言いかけた言葉はしかし続けられぬまま、消えた。  重ねられた彼の唇と自分の唇の間で柔らかく潰され、空気中に解けて消えた。  自分に何が起こっているのか、陽向にはわからなかった。ただ消えた言葉を繰り返すように、どうして、だけが頭の中を支配していた。  どうして彼は天敵と言いながらも、自分を助けたのか。  どうして彼は看病をし続けてくれるのか。  どうして、彼はこんなことをするのか。  どうして。どうして。  まるでわからない。やはり闇人は自分達とは根本的に何かが違うのかもしれない。自分などが測り知ることのできるようなそんな簡単な存在ではないのかもしれない。  けれど思ってしまうのだ。  どうして、を抱えてなお、唇に触れるこの体温がどうしようもなく心地よいと。  一族の誰とも違うその温度。  少し冷たくて。でもほのかに熱を放つ独特の感触。  これが、自分が壊さずにいられた初めての人。  わからない。この感情がなんなのか。出会ったばかりで、しかも自分たち一族にとっては仇敵で。会話らしい会話もまだそれほどできてもいないのに。  なのになぜかこの体温をずっと感じていたいと思ってしまう。  唇を合わせたまま、陽向は無事な手を伸ばして彼の肩に手を回して引き寄せる。ふっと彼が体を震わせる。そうされて躊躇ったけれど陽向は腕を離さずにいた。  ただ、この体温をもっと感じていたかった。  冷たいばかりだった唇が徐々にぬくもっていく。自分の熱が彼に移っていく。そう感じたとき、すうっと唇は離された。  ゆらり、と細い手が上がり、陽向の腕を解く。そのまま何事もなかったかのように再び粥の入った器を取り上げた彼に、さすがに疑問をさしはさもうとする。が、先に言葉を発したのは彼だった。 「どうしてってもう聞かないでくれる?」  零れた言葉に目を瞬かせると、彼は器を持って立ち上がり、陽向に背を向けながら言った。 「間違っていることをしていると思い知らされて、辛くなる」  どうして、とやはり聞きたかった。  なぜ辛くなる、などと言うんだ? と。  けれど陽向は聞けなかった。  彼とは出会ったばかりで彼のことをなにも知りはしない。けれどその彼が抱える痛みがくっきりとその細い背中から滲んで見え、問いを投げつけることをためらわせたからだった。  楓はふっと軽く肩で息をしてから首を捻じ曲げるようにしてこちらを振り返ると、ほのかに笑った。 「冷めてしまった。温め直してくるから。少し待っていて」  衣擦れの音を立て、彼が去っていく。その華奢な背中を見送りながら、陽向はゆるゆると手を伸ばし、唇に触れた。  どうしてと聞かないでくれ、と彼は言った。きっと理由があるのだとは思う。  けれどやはりどうして、と陽向は問わずにいられない。彼にだけではなく、自分に対しても。  青い光の中、ゆっくりと唇をなぞる。少しかさついた唇の感触を指先に感じたとたん、急激な頬の熱さを感じ陽向は俯いた。  馴染んだ自分の体温だけがあるはずのそこに、ほのかな熱がある。自分より温度の低い彼の熱。もうそこにないのに、確かに唇が覚えているその熱を思い出すだけで、動悸がして仕方ない。  どうして、こうなったのだろう。 「なんで、こんな」  答える者もない部屋の中、陽向は呻きながら頭を抱え続けていた。

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