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第35話 紅

 足元気をつけて、と彼が言う。右手にランプを左手に陽向の手を引きながら。  いつも通りの彼の声。淡々とした揺れも乱れもない声を聞きながら陽向は唇を噛み続けていた。  腕も胸ももうそれほど痛まない。だが痛みのなさはそのまま、この手を失う日はすぐそこまで迫ってきていることを陽向に知らしめるものでしかなかった。  陽向の葛藤を楓はどう思っているのだろう。無言の陽向に声をかけることはなく、ただ歩を進め続けている。  痛みを押さえようと自身の胸に手を押し当てたときだった。  ふっと彼が足を止めた。そして小さな声で言った。 「かね」 「かね?」  問い返すと、彼は陽向の手から手を離し、掌で囲うようにして耳を澄ます。数秒そうしてからはっと顔を道の先へと向けた。 「里で鐘が鳴っている。非常事態が起きたときしか鳴らないのに」  言いざま、彼は陽向の手にランプを押し付けると走り始めた。その彼の後について走り出した陽向に彼は振り向きながら叫んだ。 「危ないからそこにいて。後から必ず迎えにくるから」 「だけど」 「君は見つかったら殺される。だから一緒に来ちゃだめだ」  叱咤され、足が止まる。だが、暗闇の中、黒い衣が遠ざかるのを見送っているうち、ふつふつと怒りを感じ始めた。  なにもできず彼に守られるしかない自分に対しての強い怒りだった。  自分が駆けつけたところでどうにかなるわけじゃない。でもこのまま守られ続けるのは我慢ならなかった。  暗闇に紛れて消えてしまいそうな背中を必死に追いかけ、道を走る。足元は滑りやすく、病み上がりの体にはきつかったがそれでも止まれなかった。  どれほど走っただろうか。小高い丘の上に飛び出したところで陽向は足を止めた。  眼下に村が見えた。山と山の合間、盆地となった部分を利用して作られた村らしく、天井は高い。ここにも岩壁に光石が含まれているのか、村全体がほのかに青白く光っているほか、かがり火が通り沿いに焚かれ、石造りの建物がひしめく村を照らしている。  だがそれともう一つ、光源として設けられたもの。中空に浮かぶ球体を認めた陽向は、目を疑った。  それは陽向の里にも存在する疑似太陽だった。光の宮だけが生み出せると言われていた小さな太陽が輝いていた。  これはどういうことなのか。あれは炎の一族の中でも唯一光の宮だけが生み出せるとされていたものだったのに。  だが、呆然としていられたのはそこまでだった。どおん、と轟いた轟音と振動に陽向はふらつきそうになって足を踏みしめた。  村の端。陽向が佇む丘の右手、石造りの壁に黒い影が体当たりするのが見えた。  長物、大蛇だった。  長さにしてどれくらいあるだろう。一つの建物と同じくらいの大きさがあるかもしれない。先ほどの轟音はその大蛇が門をくぐろうとする男に食らいつこうとして岩壁にぶち当たった音だった。 「こんな……」  確かに長物を見たことはあった。けれどこれほど大きなものは今まで見たことがない。ぞっと身を震わせた陽向の視界に、男が転ぶ様子が映った。そのもとに駆けつける人の姿も。  砂埃の中、男を抱え上げ、長物に対峙したのは楓だった。  逃げろ、というように楓が男を村へと押しやる。転がるような足取りで門をくぐり村へと男が去るのを見送った彼は、機敏に立ち上がると懐に手を入れ懐剣を取り出し、鞘を乱暴に抜き放った。  その傍ら、岩壁に突っ込んでいた長物が緩慢な仕草でめり込んでいた体を引きずり出す。ぬらぬらと光った酸漿色の目と、二股に分かれたぬらりとした舌が口から覗いているのが遠目にもわかった。  このままでは楓がやられてしまう。  気がついたら丘を一気に駆け下りていた。  楓と大蛇の間は幾ばくも距離はない。楓、と思わず叫ぶ陽向の前で、大蛇が地面を振動させながら楓へととびかかった。  彼が無造作に黒い袖を上げ、手にした懐剣を腕に当てるのが見えた。  やめろ、と叫びそうになった、その陽向の目の前で、白い肌の上、赤い血の花が咲いた。  血にまみれた腕に興奮したように大蛇がなおもとびかかってくる。大きく口を開けて迫って来る大蛇に向かい、彼は腕をよこなぎに揮った。そのとたん。  赤い雫が空気中にくっきりと蝶のような印を刻んだ。  続いて響いたのは、じゅっ、となにかが焼けこげるような音。  大蛇の牙に食らいつかれそうになりながらも、楓は微動だにせずに大蛇を見つめ佇んでいた。  その楓の前で大蛇が動きを止めた。  青鼠色の硬質な鱗に覆われていた大蛇の頭部から鱗がでろり、と溶け落ち、じりじりと赤黒くただれていく。爛々と光っていた目玉も片方が溶け崩れ、黒ずんだ血があふれ出す。  その段になり、大蛇は絶叫した。  砂煙の中、横倒しになる大蛇を楓はただ見下ろしていた。  白い腕を、指を赤い色に染めながら。  目の前で起こったことの意味がわからず呆然と立ち尽くす陽向の前で、ゆらり、と彼が動いた。その間にもぽたり、ぽたりと地面に落ちる血の雫に硬直していた体がたまらず動いた。 「楓、それ!」  飛びつくようにして彼の腕に手を伸ばしたのと同時だった。

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