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第34話 星を、太陽を君に
「楓って良い名前だとずっと思ってた」
水底に沈んだかのような光に満たされた世界で、陽向は腕の中にいる彼に囁いた。
「秋の植物だろ? 赤くてとても綺麗な。あんたに良く似合うって思ってた」
彼は答えずただひっそりと笑い、掛布代わりに自分たちの上に広げた自身の黒い衣をむき出しになった陽向の肩の上まで引っ張り上げた。
「陽向の方が良い名前だと思う」
ささやかな声で言い、彼はそうっと目を伏せる。なにかを思い浮かべるように。
「太陽に向かう。前向きでまっすぐで君らしい」
「太陽、か」
呟いてから、陽向は少し笑って言った。
「俺さ、星名陽向っていうんだ。星の名前で星名」
唐突な陽向の名乗りに楓が目を開いて問い返すように見つめてくる。その彼に陽向は照れくささを感じながら続けた。
「苗字、言ってなかったから。まあ……苗字なんてさ、集団で生きなければ必要もないものだと思うけど」
「星名」
陽向の苗字を楓はそっと繰り返す。
「やっぱり君らしい」
綻んだ口元につられて陽向も笑みを浮かべ尋ねた。
「楓は? 苗字、ある?」
問いかけに彼は小さく頷いてからぽつり、と答えた。
「氷見。氷を見ると書いて、氷見」
氷見。
美しい響きの苗字だと思った。けれど同時にとても寂しいとも感じた。
孤高の空気をはらむその名は、あまりにもこの人に似つかわしいと思ってしまったから。
硬質な光を放つ透明な氷と、鮮やかに散りゆく、楓の紅。
「やっぱり綺麗な名前だ」
内心の痛みをこらえてそう言うと、楓はやっぱり少しだけ笑んで目を閉じた。
「星も太陽も、地上にまだ取り戻せていないんだ」
閉じた瞼の裏に空を思い浮かべるような声で楓が囁く。
「少しずつ除染しているけれど、本当にわずかな面積しか解毒できていない。この三百年、黒鳥の力がある者で取り組んできたのに、解放できたのは本当にわずかな土地。まだ大気には有害物質が折り重なっていて、太陽の光も星の光も地表からは望めない。でも」
すうっと瞼を持ち上げ、楓は静かに言葉を紡いだ。
「数度、見たことがある。どちらも地下にはあり得ないくらいとても美しい光だった」
だからいつか、と言って、楓はゆらりと瞳に笑みをたゆたわせる。
「陽向にも見せられるようにできたら、と思う」
いらない、と思った。
なにもいらない、と。
今、自分の目の前にいるあなた以外いらない、と思った。
だってこの人が見せたいというその景色はこの人という犠牲の元に開かれるものだと思えて仕方なかったから。
けれど肌を合わせた今、陽向には彼の気持ちがわかってしまっていた。
彼は、陽向に星を、太陽を見せることを心の底から望んでいる。
陽向の腕を欲したのと同じ重みでそうしたいと思っている。
自らの責務のためにここに残ろうと思っていたはずの彼の心に、陽向に星を、太陽を見せるということがほのかな希望として灯っている。
いらないのに。ほしいのはただ、あなただけなのに。
逃げよう。もう一度そう言いたかった。でも彼が頷かないことが痛いほどわかって陽向は唇を噛んだ。
どうして自分は彼と同じ種族として生まれなかったのだろう。もしも生まれていたら彼の傍にともにあれたのに。
彼のその華奢な体を支えて隣に立ち続けられたのに。
どうして。
「陽向?」
気づかわし気な声と共に自分より温度の低い手が腕に触れる。
泣き出しそうだった。でも泣けなかった。陽向は必死に瞳の奥に力を入れ湧き出してきそうな涙を押しとどめながら彼の体を引き寄せた。
「いつか、見られたら、いいな」
一緒に、見られたら。
言わなかった言葉は伝わっただろうか。
彼はなにも言わずただ、陽向の背中に腕を回し、その冷たい体温を陽向の体温に溶け込ませ続けていた。
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