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第33話 青い花

 彼の言う意味がわからず首を傾げた陽向の前で、楓は胸元で小さく拳を握ると、そっと陽向から視線を外した。恥じらうようなその視線の逸らし方で陽向にも彼の言葉の意味がわかった。 「楓……どうして」  必死に声を絞り出す陽向の前で彼は頬を染めたまま、目を伏せる。そして言った。 「忘れないために」  さらり、と風が彼の髪を揺らす。細い指先で前髪を所在なげに直し彼は俯いた。 「体が覚えていてくれたらこれからもきっと大丈夫だと、思うから」  なにが大丈夫だと言うのだろう。  彼の日常は続いていく。彼としてではなくこの村の長としての彼の日常も。その日常は彼の身を削っていく。彼の瞳の虚無は深くなり彼を蝕んでいく。  それのどこが大丈夫なのだ。 「楓」  彼の肩を掴み、さらに説得を試みようとしたとき、彼がやおら伸び上った。目を見張った陽向の唇に触れたのは彼の馴染んだ唇の感触だった。  冷たい唇が陽向の口をこじ開けていく。陽向より温度の低い舌に舌をからめとられ、気が遠くなる。細い腕が陽向の肩を包み、緩やかに抱きしめた。  力の限りではない、傷が痛まないか気遣いながらの彼らしい抱擁に愛しさが急激に胸を押し潰した。かき口説こうとする言葉より先に体が動くのを止められなかった。  細い背中をきつく抱きしめ、自分の口の中を荒らす彼の舌を逆に激しく吸うと彼の体が傾いだ。  間近く見える彼の黒い瞳がふっと和んだ。  彼は、決めている、とその目の色を見て思った。  彼のいるべき場所で彼の役目を全うして進むことを彼は、覚悟していると。  その意志は固く、決して揺るがない。けれどそのうえで望んでいる。今、ここで陽向と抱き合うことを。  どうしようもなく、望んでいる、と。  胸が軋んだ。そんなこと許せないとも思った。けれど一方で彼の望みを叶えたいと強く願う自分もいた。  楓が願うならどんなことも叶えてあげたかった。  ふらつく彼の体を支えながら唇を解く。彼の顔はうっすら上気しており、かすかに息が上がっていた。その頬を陽向はゆっくりと慈しむように指先でなぞった。  触れたい、と思う気持ちの奧に、もっと熱い気持ちがある。その気持ちのまま、陽向は指を滑らせ、白い首筋に触れる。そしてその指先の軌跡を追うように唇を這わせた。優しくそっと。その陽向の頭を抱きしめた彼が、陽向の髪を撫でている。その感触に愛しさが募り、這わせていた唇でふいに強く首筋を吸い上げると、短く息を飲むとともにかくりと彼の膝が砕けた。ずるすると座り込む彼の背中に手を添えながら、陽向はそのままその体を地面に押し倒した。  熱を孕んだ目が陽向を見上げる。その彼の唇に口づけを落としながら、陽向は衣の合わせからするりと手を差し入れた。皮膚の冷たさが指先をひやりと包んだ。  この人の肌はいつも冷たい。まるで水の膜に覆われてでもいるかのように彼の皮膚は陽向の手を、唇を冷やす。人とは少し違うその温度をずっと心地いいと思っていた。でも、今は違う。    この冷たさに彼の心までもが凍りついて息を止めてしまいそうな気がして怖くてたまらなかった。  止められない衝動のまま、陽向は彼の帯を解き、彼の衣の前を開きながら自身の服を脱ぐ。わずかに手間取ると横たわった彼が腕を伸ばし引っかかった袖をするりと抜きとった。潤んだ目が下からこちらを見上げる。  誘いかけるような瞳の色にこらえきれず彼の細い体に覆いかぶさると、ひやりとした滑らかな感触が陽向の皮膚を包んだ。  青い花が揺れる。ぼんやりと周囲に満ちた光に照らされ、しっとりと光るその肌に陽向は必死にしがみついた。自分の熱が彼の中の熱を呼び起こしてくれるように、その肌に指を、唇を触れた。  そうして触れれば触れるほど、徐々に彼の呼吸が乱れていく。吐息の合間に漏れたかすかな喘ぎ声に陽向の体が熱くなる。それに呼応するように冷たかった彼の体もぬくもっていく。  等しくなった温度が愛おしい。触れた胸から伝わる鼓動の速さに恍惚としたとき、陽向の耳に彼の掠れた声が滑り込んだ。 「ひなた……」  名を呼ばれただけだけれど彼がなにを望んだのか、わかった。それでも確かめるように見下ろすと、彼はなにも言わずただ陽向の腕に手をかけ、きゅっとその手に力を込めた。  そこだけほのかに赤い唇がなにかを待つようにかすかに開いた。  その瞬間、すべてのためらいが消えた。はっきりと自分自身も彼がほしいと思った。  彼の体の両端に手を突き、陽向は彼の中にじわりと自分を沈めた。そのとたん、細い体が大きくわななく。陽向の腕を掴んでいた彼の手にぎゅっと力がこめられた。  不安に駆られ彼の顔を見つめると、彼の震える唇が、大丈夫、と動いた。空気のようなかすかな彼の声はしかし、陽向が徐々に体を進め深く深く彼の中にもぐると、こらえきれなくなったように色を帯びたものとなって楓の唇から漏れた。それはこれまで一度も聞いたことのない濡れた声で一瞬にして陽向の脳を熱く溶かした。  我慢できず彼の腰を引き寄せ揺さぶると、再び声が漏れた。唇を噛みしめても止められず溢れだしてしまう声を押さえようと楓が指の節を噛む。 「ごめ、ん」  止められなくて、と声を止められないことを恥じらい彼が謝ったが、切れ切れなその謝罪の声さえ陽向の中の情欲をかきたてた。  もっと聞きたかった。抱きしめても抱きしめても足りないと思った。  冷たい皮膚に覆われているくせに、彼の奧は熱かった。すべてを飲み込もうとするかのようなその熱さに、眩暈がする。お互いの境界が曖昧になるほど繋がっていく感覚に、二人の吐息は絡まり合いながら熱さを増し、汗に濡れたお互いの肌を彩った。  ずっとこうしていたい、そう思ったときだった。 「このまま、ずっとこうしていられたら、いいのに」  熱に浮かされたような声で彼が囁くのが聞こえた。通じ合った心が嬉しくてますます楓の中に自分を擦りつけると、彼は大きく体をのけぞらせた。  本当にずっとこうしていたかった。けれど訪れた終わりの瞬間、楓は汗に湿った陽向の髪に手を差し入れて、ありがとう、と囁いた。  青い花に溶けていきそうな透き通った声だった。

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