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第32話 愛していると言ってくれるのなら

 陽向に両手を捕まえられたまま、彼はくぐもった声で言う。前髪に隠れて表情は見えない。ただ落ちていく雫が青い花に降りかかり砕ける様だけが見えた。  その雫の透明な光が陽向の頭の中からわずかばかりに残っていた冷静さを奪い去った。 「ずっと、言いたかったよ! 本当はずっと……。だってあんた、ずっと苦しそうだった。ずっと辛そうで。ずっと聞こえていた気がしてた。遠くへ行ってしまいたいってあんたの声」 「違う」  激しく彼が頭を振る。その彼の両手を引き寄せ陽向は怒鳴った。 「違わない。だってそうじゃなきゃ説明がつかない。あんたが俺を助けた理由。それは全部、あんたの心が限界だったからだ。そのあんたの心を埋めるのに俺は都合が良かったんだろ。俺はここの人間じゃない。あんたが守らなきゃいけない人間じゃない。あんたが長の仮面を外しても俺だけはわからない」 「そんなわけ、ない。君は悪鬼だ。そもそも君たちさえいなければ僕は苦労していない。君は憎い敵なんだよ」 「だったらその顔を貫けばよかったろ! 個は個だなんて言う必要なんてない。でもあんたは言わずにいられなかったんだよな。あんた自身があんたでいたかったんだから」  ずっと違和感を覚えていた。この人の持つ二つの顔に。  あまりにも違うそれらは彼自身の心の揺れゆえだったのか。  禍々しい闇人の長としての顔をしてみせながらも、彼はいつだって陽向の身を案じてくれていた。  親身になって食事を作り、生活に不自由のないよう気を配ってくれていた。  そして陽向の前でだけは本心を覗かせてくれた。  …………花弁に埋もれて全部全部消えてしまうなら、それはもしかしたらとても幸せなことかもしれないから。  なにもかもを捨ててしまいたいと思う心さえも。 「どんなだっていいんだよ。利用したいと言うならすればいい。それがあんたの望みなら。……前、あんた言ってくれたよな。俺が痛い顔しているの見たくないって」  彼の手を掴んだまま言うが彼はこちらを見ない。その彼の手を自分の方に引き寄せながら陽向は叫んだ。 「俺だってそうだよ。俺だって同じように嫌だ。だって俺は」  俯いたままの彼の手から手を離し、陽向は彼の頬を両手で挟んだ。そのまま強引に顔を上げさせる。  それでも頭を振って手を振りほどこうとする彼の鼻先で陽向は怒鳴った。 「あんたを愛している」  ふっと彼が動きを止める。ゆるゆると目を上げた彼の目の中を覗き込み陽向は繰り返した。 「愛してるんだ。楓」  黒い瞳がゆうらりと揺れる。無言で見つめ合った後、すうっと彼の手が上がった。自分の頬を包む陽向の手を引き離す。力強い手の力に拒絶を感じ、ぴしり、と亀裂が刻まれる音が胸から響く。それでも陽向がさらに言葉を重ねようとしたのと同時だった。  空気のような声で彼が言った。 「僕は行けない」 「そんなことない。一緒なら」 「そんなことは僕にはできない」  声を平板に保とうとしながら言う彼の言葉を、陽向は必死に否定しようとする。その陽向に向かって楓が笑った。足元で揺れる夜毎草のような儚い笑みだった。 「できないけれど、それでも嬉しかった。とても」 「だめだ、それじゃ、楓は」  一歩歩を詰めた陽向に彼はその笑顔のまま首を振った。 「僕は大丈夫」  瞳は揺れている。けれどそれとは裏腹に彼の声は静けさに満ちていた。いつも通りの感情の揺らぎのない、全部わかった大人の声に戻り、彼は言った。 「ずっとやってきた。これからもやっていける」 「でも!」  詰め寄る陽向の胸を押しとどめるように彼が片手を上げる。 「愛していると思ってくれるなら、頼みがある」  陽向の胸に触れていた手を離し、自身の胸元に手を当てた楓が、かすかな声で乞うた。 「いつか君が僕にしようとしたことを、してくれないだろうか」

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