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第31話 どうして、言うかな

「あ、ああ。大丈夫」  頷く陽向の手を彼は引く。慣れない道で足元は危うかったけれど、彼に手を引かれているために不安はまるでなかった。  ここは闇に閉ざされた地下であり、光は彼が手にしたランプの炎だけだったというのに、握られた手の冷たさこそが陽向を導く灯に思えた。  進むうちに前方が明るくなってくる。青白い光に照らされ彼の黒い衣の肩がじわりと滲む。段差あるから気をつけて、と注意を受け、足をもたげて一段高い岩に足をかけた陽向は目の前に広がった風景に呼吸を忘れた。  一面に花が咲いていた。蒼く発光する花がだだっ広い平地に波打つように咲き誇っていた。  わずかな空気の流れでふわりと香る清しい香りに陽向ははっとする。 「あれ、この香り」 「夜毎草。この花には鎮静作用があって、薬用として里でも使っているんだ。少しの痛みや吐き気なら十分収めてくれる」  彼が淹れてくれるお茶や、吐き気を催したときに渡してくれた布に焚き染められていた香りはこれだったのかと納得する。香りを胸いっぱいに吸い込むと体が浄化されるような気すらした。 「地下でもこうやって生きているものはたくさんいる」  炎をふっと吹き消し、明かりの消えたランプを近場の岩場に置きながらかすかな声で彼が言う。地下のはずなのに、ほのかな風を感じる。その風が足元の花々の花弁をさらりと撫でて通り過ぎていく。 「どこだろうと生きようとしたらそこが生きる場所であるべきで。なのに人は違う。もっと、と求める。だから思ってしまう」  取り巻く空間すべてを包む清浄な香りの中、彼の声が震えて聞こえた。 「人に意味なんてあるのかと。いつも迷ってしまう」  さらり、と黒髪が揺れる。乱れた前髪を細い指先でかきあげながら彼は囁いた。 「人もこの花のように与えられた場所でただ咲いていられたらいいのにね」  過った面影はどこかへ出かけた翌日の彼の姿。陽向に向けられた彼の青ざめた顔だった。大丈夫、こうしていれば、とそう言って陽向にもたれかかる彼の体。重みなんてわずかもないような華奢なその。  たまらなかった。この人の抱えているもののすべてを自分は知らないのに。ただたまらなかった。 「一緒に逃げよう」  祈るように吐き出した言葉に彼は反応しない。黙ったまま横に佇む彼の肩に手を置き、陽向は必死に口を動かした。 「俺の里じゃなくてもいい。あんたが言う通りどこでだって暮らそうと思えば暮らせる。だから俺とここを」  言いかけて陽向は言葉を途切れさせた。こちらを見ていた彼がすっと陽向から顔を背けた。  後ろ頭を向け押し黙る彼に焦り、彼の肩を掴む手に力を込めようとして陽向は気づいた。  楓の肩がかすかに震えていた。  耐え切れずこちらに彼の体を向けさせた陽向の目を、白い頬を滑り落ちた雫が射た。  青白い光に照らされ、顎の先から大地へ落ちた水滴の輝きに陽向は息を止めた。  零れた涙を陽向の目にさらすのを厭うように彼が片手を上げて手の甲で両目を押さえる。  その手を陽向は引き剥がす。それでも隠そうと反対の手が上がる。その手も捉えると、もう、と声を漏らし彼は俯いた。 「どうして、言うかな……」

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