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第37話 鬼

…………耳に当ててごらん。  如月に渡されたそれは巻き貝と言うものだそうだ。海にいる生物の抜け殻なのだ、と如月は教えてくれた。 …………耳に、当てる?  首を傾げた自分に如月は、陽向の手にあった巻き貝を取り上げ、自身の耳に当ててみせてから、陽向の手に貝を戻す。  目で促され、陽向は恐る恐る貝を耳に当ててみた。  貝からは、音が聞こえた。さああっとなにかが遠くで滑るような不思議な音がした。 ……………それが、海の音。潮の囁きだよ。 ……………君らが満ち潮ならば、僕らは引き潮のようなもの。  如月の声に声が重なる。 ……………個は個でしかない。一族がどうであれ君は君だ。  涼やかな声が陽向を包む。  暗がりで響くその声が誰の声なのか陽向はふっと思い出す。  これは、自分の大切な人の声だ。 「どうして殺してしまわなかったの」  甘やかな気持ちに満ちていた世界にふいに飛び込んできた尖った声に陽向はふっと我に返った。  暗がりにじりじりと光が戻る。張り付きたがる瞼を必死に引き開けた陽向の目に黒い衣をまとった後姿が見えた。 「大繩を倒した濃度のまま与えていれば簡単に殺せたものを」  先ほどの女の声が吐き捨てる。目の前に見えた黒い衣の背中がすうっと滑り、横を向く。霞む視界に映るのは楓の整った横顔だった。 「言ったはずです。殺してしまったが最後、悪鬼の怒りを買い、里はさらに窮地に陥る。そんな事態は絶対避けなければなりません」  飛び起きようとしたがそこで自分の手が後ろ手に縛られていることに気づき、陽向は動揺した。  縛られていることではなく、生きているらしいことに。 「だとしてもこの里にこのまま悪鬼を置いておくなど冗談ではない! こんな凶悪な鬼を野放しにしたら穢れが移る!」 「戒めてあります。彼はなにもできない。そもそも穢れなどありませんよ。細菌でもあるまいし空気感染などしません」 「穢れがないですって?」  甲高い女の声と共に衣擦れの音が響く。萌黄色の地に大輪の深紅の花と思しき柄が描かれた衣に、朱色の帯を締めた女は、結い上げた髪を揺らして怒鳴り散らした。 「馬鹿も休み休みに言いなさい。この鬼は里を亡ぼす。呪いの塊です」 「鬼と言うなら私たちだってさほど変わらないでしょう」  楓の気だるげな声に女は機嫌を損ねたらしい。細かいしわに覆われた顔を歪めながらどん、と片足で床を踏み鳴らした。 「こんなのと一緒にしないで。こいつらは呪いをふりまくだけのもの。私たちは違う。誇り高き黒鳥なのだから」 「と言っても、力を持っているのももう私とあなた、それと榊さまだけ。もはや滅びたも同然ではないですか。里人のほとんどは力がない」 「滅びてなどいない! 事実、只人の里は私たちの力を頼みにしているじゃないの。種族としては私たちが上。私たちこそ生き残るべきなのよ。その私たちを脅かす悪鬼など、生きている意味がありますか」 「でも私たちがいなくなれば黒鳥はもはや只人の里となります。それならその方がいっそ幸せだと思いませんか。事実、只人の里に移り住んだ者も多い。私たちの髪の色。これも只人と交わった結果です。もはや我々と只人の間に差などそれほどない。他の里と交わって生きていけるならその方がずっと自然なことです。力などないならない方が自由でいられるのだから」 「なにを言っているの! あなたはこの里始まって以来の力の保持者なのよ? そのあなたが力を軽んじるようなそんな」  投げ捨てるように言う彼の声に女が感情的に詰め寄る。が、そこでふっと女は口を閉ざした。

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