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第38話 呪いの炎
「ちょっと待って……それ……。まさか、あなた、禁を侵してはいないわよね」
楓は答えない。女の足音がずかずかと迫り、立ったままの楓に手が伸ばされる。手荒な手がぐい、と楓の襟元を開くのを見て、陽向は息を飲んだ。
「これは……なに?」
黒い衣の下、白い首筋に刻まれた赤い印に女の顔がはっきりと歪んだ。
「あなた、まさかこの悪鬼と……。禁忌を侵した、と言うの……?」
「禁忌」
くすり、と楓の肩が揺れる。彼は女の手を払い、元通り襟元を正しながら吐き捨てた。
「ええ、侵しましたよ。彼は私の希望を叶えてくれるから」
「希望?! 命を削られることが希望?!」
悲鳴のような声を女が上げる。女の手が楓の胸元を掴んで揺さぶった。
「わかってるの? 黒鳥である私たちがこいつらと一度でも契りを交わしたならその体に呪いの炎をもらう。その炎は私たち黒鳥の寿命を食い荒らし、本来生きられるはずの命数を全うすることなく、死ぬことになるのよ?!」
「だから?」
平然と返し、楓は女の手を乱暴に振り解いた。
「私たちの力こそ呪いのようなものです。この力を求めて只人同士が争っている。地上を元に戻せる唯一の力だから、と。結局、争いしか生まない力なんですよ。この力のせいで里全体も危険にさらされていると言っても過言ではない。そんな呪い、命ごと燃やし尽くしてしまってなにが悪いのですか」
「悪いに決まっているでしょう! あなたには里を守る義務があるはず! なのに」
「でしたら、柏さま。あなたがおやりになればいい」
吐き捨てるように楓が告げた言葉に女がたじろぐ。楓は冷ややかに笑んで言葉を重ねた。
「私はもう疲れました。私のこの力が人の争いの種になり続けることも。拭っても拭っても清浄にはできない地上での毒消しも。ただただ無力な自分を思い知らされるだけ。柏さまが代わっていただけるのなら私も禁忌を侵したことを悔やむこともできるでしょう。けれど」
楓の目がすうっとこちらを向く。目を開けている陽向に驚いたのか、ふっと小さく目を見張ってから彼はささやかな声で言った。
「もしもそれが叶わないなら、生きていなければならない時間を私は短くしたい。彼は私のその思いを叶えてくれた。鬼どころか神の使いです」
「かえ、で」
声を絞り出したとたん、女がひっと言って後ずさった。
「起きてるじゃない! 楓、あなた、手加減したわね! だから嫌だったのよ! どうして力があるからってこんな恐ろしいもののお守りをしないといけないのよ!」
大声で叫びながら女が部屋を駆けだしていく。騒音を立てて石戸が滑り閉ざされる。荒々しい足音が完全に遠ざかってから、ふうっと楓がこちらを見た。
ゆっくりと腰をかがめ、陽向の前に膝をつく。
「ごめん。少し、加減を間違えてしまったかもしれない。気分、悪いだろう」
言いながら陽向の手首を戒めていた綱を解く。相変わらず冷たい指先が陽向の手首にかすかに触れた。
「とっさに毒を使ってしまったから。耐性がないときついのに」
そう言って立ち上がり、楓はランプが置かれた机の方へ歩いていく。
ここは独房なのだろうか。女が飛び出していった石戸には格子状になっており、楓の隠れ家よりもずっと狭い部屋には机くらいしか置かれていなかった。
「少し水を飲んだ方がいい」
戻って来た彼の手には水が満たされた陶器の器があった。
「飲める?」
彼の手がふうっと陽向の手を取り、器が手渡される、と思った瞬間、陽向はとっさに飛びのいていた。
かしゃん、と音を立てて器が床に落ち、砕ける。
「うそ、だよな」
喉がしゃがれている。咳き込む陽向の背に彼が手を触れようとする。それを振り払って陽向は問いを繰り返した。
「嘘、だろ?」
目の前のこの人は言った。
生きていなければならない時間を短くしたい、と。
そしてそれを陽向が叶えてくれた、と。
…………こいつらと一度でも契りを交わしたら。
…………呪いの炎をもらう。
…………寿命が。
食い荒らされる。
「あんたは……死なないでいてくれる人、だよな? あんたのことを俺は殺さないでいられ……」
そこまで言って陽向は言葉を飲み込んだ。
「天敵って、あれって……本当にそういう、意味だったのか……? 俺たちがあんたたちの寿命を…………」
だから地下投獄は行われた。
闇人の命を摘み取る力を炎の一族は持っていたから。だから。
でもそんなこと信じられるだろうか。一度でも交わったら相手の寿命を削ってしまうなんて。そんなことがあるだろうか。
もしあるのなら確かに彼らにとって自分達は天敵だ。
そしてその天敵を彼は助けた。助けて。そして。
「あんたは、だから、俺を助けた……?」
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