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第1話

 フィリップ・ライトはベッドで目を覚まし、固く身体を抱き締めていた自身の腕を解く。  シーツの中、下着だけの身体で身をよじるとベッドが微かに軋んだ。ナイトテーブルの方へ手を伸ばし、スマホの隣に置いていた眼鏡を手繰り寄せる。 「はぁ、もう夜は明けたよね……」  眼鏡レンズ越しの明瞭な視界の中、フィルはカーテンの閉まった窓の方を見やる。窓台には金魚鉢が鎮座しており、カーテンのわずかな隙間から溢れた朝日が、鉢の中で泳ぐオレンジ色の金魚を照らしている。 「おはよう、ドクター」  フィルは同居人の金魚に挨拶し、短い金髪の頭を掻きながらベッドから降りる。顎先の髭をざらざらと撫で、裸足でドクターの方へ向かった。金魚鉢の中で元気に泳ぐその姿に思わず笑みが零れる。ガラスの鉢の側面を指先でつうと撫でた。 「また真夜中に何度か起きちゃった。でも、いつもより眠れた気がするんだ。四十路も半分過ぎたけど、何だかここ最近、不思議なことに気分がめちゃくちゃいいんだよね」  フィルがそう話すと、ドクターは口をぱくぱくさせて餌の催促をしてきた。 「わかってるよ、待っててね。僕はまだパンツ一枚なんだから」  踵を返した時、ナイトテーブル上のスマホの画面が光ったことに気づいた。フィルはそちらへ歩み寄ると、テーブルの引き出しから補聴器を取り出す。ねじれまくったビーズストラップは気にせず、とりあえず両耳にはめ込む。途端に、取り上げたスマホのコール音のやかましさに気づいた。 「もしもし?」 『お早う、フィオナ! もう起きてたかしら?』  ハイテンションな男の声。フィルは相手の顔を思い浮かべて、思わずふっと笑った。 「お早う、サーシャ。僕の源氏名、覚えてたんだね。もう十年近く使ってないのに」 『うちの稼ぎ頭だった名前を、あたしが忘れるわけないでしょ』 「僕は引退したよ、ボス。で、久々に連絡してきたのはどうして?」  フィルはスマホを肩に挟みながら、クローゼットの扉を開けて服を引き出す。青のジーンズと、ベージュのセーター。いつもの服装。これでオーケー。セーターに引っ掛かったビーズストラップを何とかほどき、ズボンは片足を上げて上手くバランスを取りながら足を通していく。  電話の向こうで、興奮した自身を落ち着かせようとするサーシャの深呼吸が聞こえた。 『なんとめでたいことに、うちの店がそろそろ十周年を迎えるのよ。そのお祝いパーティを計画中なんだけど、是非ともあんたも参加して欲しくて連絡したの』 「うーん、どうかなぁ……」  フィルは苦笑いしながら部屋を横切り、再びドクターの前に来ていた。心がざわついているのがわかる。じっと黙っていると、見かねたのか、サーシャは明るい声音で返してきた。 『まぁ、すぐに返事はしなくてもいいわ。こっちで何か決まったら、また連絡するから』 「わかった、ありがとう。じゃあ――」 『それと話は変わるけど』  ぎくりとしたフィルの手が宙で止まる。 『あんた、まだあの男に付き合ってるの?』  サーシャの声音には有無を言わせない響きがあったが、その中には心配の影も混じっていた。申し訳ないという気持ちはあったが、フィルはその影につけ込むことにする。 「僕は大丈夫。いい返事ができるようにしておくから。じゃあね」 『ちょっと! フィオ――』  フィルは素早く通話を切り、スマホをベッドに放った。耳から補聴器を取り出して、それも一緒にベッドへと放る。ビーズストラップがまた絡まった。世界に濁った沈黙が戻ってくると窓辺へと近づき、半ばやけくそのような力加減でカーテンを引き開けた。刺すような朝日を浴びながら、道路を挟んで向かい側にある水色のアパート――ここから真正面にある部屋へと期待を込めた視線を送る。 「あ……」  彼がいる。心のざわつきがじんわりと薄まっていくのを感じた。  ニューヨーク、春の朝――フィルの午前八時の始まりだった。  オギー・ヘイスティングズはソファの縁で目を覚まし、目と頭の痛みに顔をしかめた。不機嫌に唸りながら寝返りを打った瞬間、世界から底がなくなった。脳に絡みついた眠気が消える前に、鈍い痛みが後頭部に炸裂する。 「いってぇ……」  ソファから落下したオギーは、もさもさした黒い癖っ毛越しに後頭部を押さえ、顔を床に押しつけながら悶えた。薄目を開けると、床にはひっくり返った灰皿と、煙草の吸い殻が散乱していた。よろめきながら身体を起こし、カーテンを開け放った窓から差し込む朝日に、思わずぎゅっと目を細めた。 「あぁ、くそ」  ひどく気分が悪い。立ち上がろうとすると眩暈が引き留めてきた――なんて魅力的な誘いだったか――が、オギーは吸い殻を踏みつけながら立ち上がる。顎先の髭にまで垂れていた涎を手の甲で拭い、次いで喉の渇きに咳き込んだ。唾も飲み込めない。 「……酒を飲んだのか?」  低い声で一人呟いて辺りを見渡すが、ビールの空き缶も空き瓶もない。そもそも自分は酒を飲まない。部屋の隅にはブルーシートと、その上にかつては椅子だった木の残骸と、細かい木くずの山がある。すんと鼻を鳴らすと、まだ木の香りが漂っているのがわかった。 「あぁ、あのくそ上司……」  木の残骸を見た途端、昨日の記憶と怒りが蘇ってくる。しかしオギーは咄嗟に目を閉じ、暗闇の中で六秒数えながら深呼吸する。もう終わったことだ。あいつに押しつけられた仕事は終わったし、やらかしたデータミスもカバー済み。セイウチと人間の合いの子みたいな上司の顔も、ノートパソコンの電源を落とすと同時に視界から消えた。 「椅子に八つ当たりしたけど、俺は修理も好きだから結果オーライ」  そう言い聞かせると、目を開けて溜息をつく。その時、尻ポケットのスマートフォンが震えだした。メールの発信者を確認した瞬間、オギーの眉間には先程消えたはずの皺がより深く現れた。 「ミセス・ブルーのアンガーマネジメント 怒りのその先へ行きましょうの会より」  オギーは内容を確認せずメールを消去する。そして再び目を閉じて深呼吸した。 (俺は大丈夫だ、あんなセラピーもう必要ない。発作も少なくなった、俺は大丈夫)  オギーはスマホをポケットに突っ込むと、ソファ前のローテーブルへと視線を落とした。閉じたままのスケッチブック――最初に買った時より随分と薄くなっていたーーがそこにある。 「苛ついた時に白紙の部分を破り捨てるとか……資源の無駄遣いにもほどがあるな」  それを取り上げてページをぺらぺらとめくり、まだ絵が生き残っているページを探し出す。それを持って窓辺に立ち、向かいの青い外壁のアパートへと期待の視線を向けた。 「あ……」  あの人がいる。瞬間、足元に纏わり付いていた眩暈の影が、さっと引き下がっていくように感じた。  ニューヨーク、春の朝――オギーの午前八時の始まりだった。

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