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第2話

「ねぇ、どう思う? ドクター」  煙草を指にはさんだフィルは、窓辺の壁にもたれて外を見ていた。彼に問われたドクターはついさっき食事を終えたところで、尾ひれのゆったりした動きを返した。  フィルは煙草を一吸いし、控えめに煙を吐く。 「向かいのアパートの住人さん、この時間になるといつもこっち見てるよね」  向かいにある水色の外壁のアパート。四階の西側から四番目の部屋。窓のカーテンは開いている。生来視力の悪い己の目では頼りないが、男が一人、窓辺のソファに座ってこちらを見ている気がする。 「でも時々目を反らして、何かしてるんだよね……盗撮とか? でも手が動いてるし……」  まさか僕をオカズにマスをかいているのかも――とは、口に出さなかった。フィルは少しだけ顔を窓に近づけた。朝日に目が眩んでぱちぱちと瞬きをした時、向かい側の男と目が合った気がした。はっと顔を引っ込めたが、またそろそろと覗いてみる。そこで男が何かを持っているのに気づいた。 「あれって……スケッチブック?」  その白さは遠くからでも確認できた。男はフィルの方をさっと見た後、すぐにスケッチブックへと視線を落としている。しきりに動いている手はペニスではなく、ペンか鉛筆を握っているようだった。フィルは一瞬ぽかんとした後、吹き出した。 「あー、まったく! 僕ってほんとに!」  乾いた声でひとしきり笑った後、フィルは再び窓から顔を覗かせた。そしてスケッチブック男がこちらを見たタイミングを見計い、手を振ってみる。 「あっ」  思わず声を上げた。男は小さく手を上げ、こちらの挨拶に応えていた。  どくんと、古い心臓が跳び跳ねた。フィルは窓を開けようと――彼との隔たりを消し去ろうと――半ば夢中になって窓の取っ手に手を伸ばす。 「おい、フィル」  突然肩を掴まれ、思わずその場で飛び上がった。慌てて振り返った途端、頭のてっぺんから爪先までさっと冷えていくのを感じる。 「さっきからチャイム鳴らしたのに出てこねぇから、どうしたのかと思ったぞ」 「あぁ、ごめん、ネッド」  フィルはドクターを窓台に残したまま、カーテンをしゃっと閉めた。陽光を浴びて暖かかったはずの身体が、どんどん冷えていく。「その、補聴器をつけるのを忘れてて、だから音が聞こえなかったんだ、ごめんね」 「あぁ、そうか」  ネッド・スファンスは、フィルよりずっと図体がでかい。短く刈った黒髪と黒いジャケットが、彼から垂れ流れてくる威圧感をさらに助長させていた。フィルより三つほど若いが、警官である彼から放たれる威圧感には、年齢という隔たりは意味を持たなかった。 「あれはお前の身体の一部だろう。それなのに、よく忘れられたな」 「ネッド、ごめん、その」  脳と心臓に不穏な冷たさが染み込んでくる。片手に持ったままの煙草が、身体の震えに合わせて細い煙を繰り出していた。フィルはネッドの動きを目で注意深く追っていた。  するとネッドは一度フィルから離れ、ベッドの上のスマホと補聴器の方へ歩いて行く。銀のリングをはめた太い指でビーズストラップを摘まみ上げると、またずんずんと戻ってきた。 「いいか。これは俺が買ってやったものだ。あの事故でお前の耳が聞こえなくなったから、俺はその世話をしてやってるんだぞ。なのに、お前は一人窓辺でぼーっとしてるんだな?」 「いや、違うよ、ネッド」  目の前に補聴器を突きつけられ、無意識に身体を反らしてしまう。部屋中の空気と重力がネッドの支配下にあって、彼が近づく度にそれらに身体が押し潰されていくようだった。 「つけろ。今すぐ」 「うん、うん、ごめんね……」  フィルは精一杯笑顔を作ると、震える手で補聴器を受け取った。それを耳につけていると、ふいにネッドの手が伸びてきて、煙草を奪われた。 「あっ」 「俺の許可なく煙草を吸うなと言っただろ」 「ごめーー」  言い終わる前にネッドに片手を掴まれ、煙草の火種を左の掌に押し付けられた。フィルは唇を噛み締め、黙って灰皿役に徹した。しかしそれが気に入らなかったのか、ネッドは片手で顎を掴んできた。咄嗟に彼の腕へ両手を掛けたが、瞬間、まずいことをしたなと気づく。 「抵抗するのか? いい度胸だ」  ネッドの笑みは暗い興奮に塗れている。 「ごめん、ネッド、お願い、やめて」顎を掴まれたままふるふると顔を横に振る。「煙草はやめる。補聴器もちゃんとつける。チャイムの音にも気づくから。だからもうこんなことーー」 「お前がルールを破るからだ。だから俺は、毎回こんなことしなくちゃならない」  彼の手にぐっと力が籠ったと思うと、フィルは顔から床へと引き倒された。床に倒れた時、すぐに上体を起こそうとしたが、ネッドがのしかかってくる。彼は慣れた手つきでフィルのズボンを引き下ろすと、縮み上がったフィルのそれを乱暴に掴む。 「ううっ」 「じっとしてろ。でないと、この役立たずを根っこから引き抜いてやるからな。これ以上、不便な身体にはなりたくないだろ?」  ネッドの指先が、補聴器を嵌めたフィルの耳に触れた。その瞬間、数年前のあの激痛がフラッシュバックする。耐えきれず目をつむると、目元で涙が弾けたのがわかった。フィルは何もせず、無抵抗であることをアピールすることしかできない。  ネッドはしばらくこちらの反応を眺めていたようだったが、やがて彼の手は離れていった。今度はベルトを外すがちゃがちゃという音が聞こえてきた。 「ネッド……」 「あぁ?」 「手洗いうがい、した?」 「黙ってろ!」  身体を乱暴にひっくり返されると、首の後ろを掴まれて動きを封じられる。ぐっと息が止まったのと同時に、ネッドのそれが無理矢理身体の中へ押し入ってくるのを感じた。 (痛いのは嫌だな)  フィルは身体の力を抜こうと深呼吸を試みたが、喉からはひゅうと濁った音が出てきただけだった。 「あ、いねぇ」  ふと顔を上げた時、オギーは鉛筆を持っていた手を止めた。いつしか向かいの窓にあの男の姿はなく、カーテンの閉まった窓台に金魚鉢が置かれたままになっている。彼が戻ってこないかとオギーはしばらく窓を見つめていたが、やがて視線を外し、ソファに身体を預けた。 「まぁ、あのままじゃ、いずれ魚が茹だって死んじまうだろうし……」  彼はきっと、そんなこと許さない。  オギーはポケットから潰れた煙草の箱を引き抜き、そこから曲がった一本を取り出して咥える。火をつけて一吸いしてから、スケッチブックを掲げた。鉛筆でがりがり描いた、名前も知らない男の笑顔――子どものように屈託なく笑いながら、オレンジ色の金魚を愛でる男。直接会ったことも、話したこともない男。彼の存在に気づいてまだ数週間だが、すでにスケッチブックにはこの男が何人もいた。 「……まだか」  一時間ほどスケッチブックにがりがりと落書きをし、その最中も何度か窓へ視線を向けたが、やはり彼は戻ってこない。オギーは火のついていない煙草を唇の上で転がした。すると、またスマホが震え始めた。モデルの不在で暇を持て余していたオギーは、何も考えずにすぐさま電話に出てみた。 「はい?」 『あぁ、オギー坊! 何だよ、ちゃんと生きてるじゃねぇか!』 「グレッグか」  オギーは眉間の皺に被った髪を掻き上げ、ソファにごろりと横たわった。五十代の太った男の姿が頭に浮かび上がる。セラピーに参加した時からかなり馴れ馴れしかったが、何日も声を聞いていないとなんだか懐かしさすら感じる。 「そっちじゃ俺の死亡説が流れてんのか?」 『このグループセラピーがオンラインになるより前から、お前は姿を現わさなくなったからな。どうしたんだよ、先生からのメールは来てるはずだぜ。無視してんのか?』 「着信音が煩わしくて、全部ミュートにしてる。わかるだろ」 『あぁ、わかるよ、苛々しちまうよな。でも、メールが来てるのは知ってるんだな』  オギーは溜息とも唸り声ともつかない声で返事をした。グレッグは続ける。 『なぁ、オギー坊。トラブル起こして逮捕されて、裁判所からアンガーマネジメントを受けるように言われたのはお前だけじゃない。最初のセラピーでそれを知っただろ? 俺だって傷害事件を起こして、セラピーを受けるようになった。効果は確かにあるよ。今の俺達は更正への片道切符を持ってんだ。それを無駄にするのが惜しいとは思わねぇのか?』 「俺はもう大丈夫だ」壊れた椅子を一瞬見て、視線を逸らす。「完治しただろ」 『でも時々、起こらないか? 頭のてっぺんから爪先までかーっとなっちまうこと』 「ここ最近はない」  言いながら、また窓へと目をやった。彼は戻っておらず、日光が金魚鉢に照りつけている。オギーは窓を睨むように見た後、耳元のスマホを一旦顔の前にまで持ってきて、時間を確認した。 「もう一時間だ……」 『はぁ? 何だって?』 「遅すぎる」 『何のことだ? それってどういう――』 「あぁ……その、とにかく切るからな」オギーはソファから足を振り下ろす。 『あっ、待て、オギー! お前はいつこっちへ――』  通話を切ると、オギーはスマホをズボンのポケットへねじ込んだ。テーブルの灰皿で煙草を揉み消すとソファから立ち上がり、玄関へと続く廊下を進みんだ。途中、ラックに掛けていた黒いニット帽を取り上げて深くかぶる。  胸騒ぎがする。  あの人が金魚を放っておくはずがない。たった数週間ぶんの統計だが、忘れているとは考えにくい。だけど、もしこれで金魚が死んだら、もうあの笑顔は二度と―― 「それはごめんだ」  アパートを飛び出したオギーは道路を横切り、青い外壁の入り口へと向かっていく。辺りに人気はなかったが、アパート前の通りにごつい黒の車が一台停まっているのが目に入った。それを通り過ぎ、アパートの敷地内へと足を踏み入れる。中に入ると正面にエレベーターがあったが『点検中のため使用禁止』貼り紙があった。 「くそったれ!」  思わず悪態をつくと、オギーは右向け右をして階段の方へと駆けていく。しかし階段の手すりには「下り専用」という張り紙がぼろぼろの状態で貼られていた。 「ぐううう!」  いつぞやの流行病の影響だろう。オギーは両手をわなわなと動かして呻くと、貼り紙を引き剥がしてびりびりにしたいという抗いがたい衝動に耐えた。落ち着け、こんなことで癇癪を起こすな。やがて急いで引き返して「上り専用」の階段まで来た時、誰かが降りてくる足音が聞こえた。不機嫌そうな低い声も聞こえてくる。 「くそっ、すぐにトびやがって。死体を犯してるみたいだった。あの野郎、俺がそれで喜ぶとでも思ってんのか」  ぶつぶつと悪態をつく男は黒いジャケットを着ており、ベルトのバックルをがちゃがちゃ音を立てながら留めつつ、ごつごつと階段を降りてきた。  彼の横を黙って通り過ぎることもできただろうが、込み上げてくる言葉を止められなかった。オギーは降りてくる男を見上げながら声をかける。 「あんた、こっちは上り専用の階段だぞ。降りるなら東側の階段を使えって貼り紙が――」 「うるせぇ、どけ!」  男はわざとオギーにぶつかり、不意を突かれたオギーは壁に背中をどんと打った。瞬間、頭のてっぺんから爪先まで熱が広がっていく。全身に熱風を吹き込まれたようで、身体がひとまわり大きくなるような錯覚に陥る。熱風に押し出されるように目は大きく開いていき、顎には力がこもって歯がぎりりと鳴る。拳は二つの岩と化した。  その時、異変に気づいたらしい男が、出口近くでこちらを振り返った。 「何だよ、その目は」 「……何でもない」  オギーはさっと背を向けると、階段を上っていった。今は熱のせいで感覚がぼんやりしているが、爪が食い込んで出血した手からはいずれ痛みを感じるだろう。だが、どうだっていい。どうせ元より傷跡だらけの手だ。今さら一つや二つ増えたところで何も変わらない。  四階に辿り着いた時に踊り場から下を覗き見たが、あの男は追ってきていなかった。オギーはほっとして廊下を歩き出し、ようやく解けた拳で、四〇二号室のチャイムを鳴らした。

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