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第3話

 暗闇から意識を引き上げた時、まず見えたのは闇だった。カーテンを閉め切った暗い部屋。 (今日はどれくらい寝てたんだろ……)  フィルは床に這いつくばったまま腕を這わせ、眼鏡がすぐ近くに落ちていたことにほっとする。かけると、剥ぎ取られた自分の服が床に落ちているのが見えた。全裸だ。尻と腰、とにかく身体の奥がずきずきと痛くて堪らない。 「おぇ……」  呼吸しようとして口を開きかけ、顔をしかめた。口の中に居座っていたネッドの精液が粘度を増している。フィルはバスルームへ向かおうと思い、首や尻の痛みを受け入れて上体を起こす。  その時、玄関のチャイムが鳴った。 「ネッド?」  反射的に、フィルは開けっ放しの寝室の扉を見つめる。ブーツがごつごつと床を叩く音と共に、そこからネッドが現れるのを待ったが、彼は現れなかった。玄関扉が開く音すらしない。ただ、躊躇いがちなテンポで繰り返されるチャイムだけが続いている。 「どなた?」と尋ねようとしたが、枯れた声は玄関まで届かない。  フィルは慌てて服を掻き集めて着ると、顔や口元に乾いて貼りついていた精液を服の袖でごしごし拭く。玄関の手前にあるバスルームへ駆け込むと洗面台へ唾と、ねばついた精液を吐き出す。水でうがいをし、仕上げに咳払いをして応急処置は完了。 「は、はーい、どなた?」  ドアノブに手をかけたフィルは、どうか――ネッドでなければ――相手がこの部屋の匂いに気づきませんようにと願った。今日は血の匂いがしないだけまだましだが、生暖かく、青臭い匂いが立ち籠めている気がする。ゆっくり慎重に扉を開けると、蝶番がぎぎぎと鳴った。 「……どなた?」 「あ、その」 「あ! 君は!」  フィルは驚き、扉を大きく開いた。  そこに立っていたのは、向かいの部屋の住人――今朝、手を振り返してくれた彼だった。黒いニット帽を被っていて、くるくるした黒髪がおでこと顔の両サイドからはみ出している。その髪の間から、やや鋭い双眸がこちらを覗いていた。  フィルは呆然としていたが、やがて男の方が慌てた口調で言い始めた。 「ええと、その、窓辺の金魚鉢、もう一時間も出しっ放しですよ。このままじゃ水が茹だって魚が死んじゃうかも知れないと思って……」 「ドクター!」  彼の言葉に、頭を殴られたような衝撃を受けた。身体の痛みも忘れて寝室へと駆け出し、扉を乱暴に開けて窓辺のカーテンへと飛びつく。引き千切る勢いで引き開けた時、フィルは鋭く息を吸った。 「あぁ、ドクター!」  茹だった水の中、彼は明らかにぐったりとしていた。輝きを失った身体は生々しく、彼が鱗と皮膚と骨、内臓でできた魚であるということを浮き彫りにさせた。 「ドクター! ごめん、ごめんよ、ドクター!」  慌てて金魚鉢を持ち上げた時、長時間朝日に晒されたガラスの熱がフィルの手を焼く。庇護欲が人間の危機回避の本能に負けた瞬間、金魚鉢はフィルの手から離れた。壮大な音と共に、床にガラスと水の大輪が咲く。ついさっきまで、ネッドに犯されていた場所に。  フィルは呆然とその光景を見下ろしていた。床で跳ねるドクターの力が弱っていく。 (死んじゃう……)  咄嗟にフィルは床に跪き、大量のガラスの破片へと手を伸ばした。 「触ったら駄目です!」  聞き慣れない声が飛び込んで来たのと同時に、背後から誰かに片手を掴まれた。反射的に振り解いてしまったが、振り返るとそこにいたのは彼だった。ネッドではない。彼はやや狼狽えたようだが、やがて床にそっと膝をついた。 「危ないですから、その金魚だけ救助してください。俺、ガラス片付けるんで」 「……ドクターが、死んじゃう」 「まだ間に合います。しっかりしてください」  彼はそう言ってフィルの肩を軽く叩くと、床に散らばったガラス片を慎重に集め始めた。  一方フィルは床に座り込んだまま、未だにぼんやりと彼の手元を見ていた。 「ほら、早く連れて行って!」  彼は呪縛を解くような声でそう言った。  ようやくフィルは頷くと、ぱくぱくと喘ぐドクターを拾い上げてキッチンへと走った。   「あの、大丈夫ですか?」  オギーがテーブル越しに尋ねると、彼はワイングラスの中の金魚を眺めながら頷いた。すっかり疲れきっているようだった。 「……うん、水道水に中性剤を入れたからね。今はちょっと狭いだろうけど、すぐにでも新しい水槽を買ってあげるつもり。それまではここで我慢してもらうしか……」 「そうじゃなくて、あなたは?」 「え?」  彼は驚いたようにこちらを見返してきた。そこでオギーは、見開いた目の中にある彼の瞳がブルーであることに気づく。オギーはその瞳を見つめて、もう一度言った。 「あなたは大丈夫ですかって聞いたんですけど」 「あぁ、うん、もう大丈夫。ごめんね、びっくりさせちゃったよね」 「いえ、別に……」 「本当にありがとう。君のおかげで助かった」  彼はワイングラスのつるつるした側面を撫で、心底ほっとした様子で微笑んだ。 「ドクターでしたっけ?」オギーは尋ねた。 「うん。本名はドクター・ライト二世っていうんだ。一世は僕が子どもの時に飼ってたやつでね……あ!」 「どうしました?」  突然彼が叫ぶので、オギーはびくりとした。 「僕達人間同士の自己紹介がまだだった!」  彼は照れたような笑顔でそう言うと、こちらにさっと右手を差し出してきた。 「僕、フィリップ・ライト。改めてよろしく、お向かいさん」 「……オギー・ヘイスティングです。どうも、ミスターライト」 「フィル。フィルでいいよ。君のこと、オギーって呼んでもいい?」 「えぇ」  彼の笑顔と勢いにどぎまぎしつつ、オギーは握手を返そうと手を伸ばす。しかしふと、フィリップの視線が自分の掌に向けられていることに気づいた。その視線を追うと、自分の掌に爪が食い込んでできた傷跡があり、血が乾いてそこが海老茶色になっているのが見えた。  オギーは慌てて手を引っ込めようとした。 「すいません。大したことじゃなくて――」 「待って。さっきのガラス片で切っちゃったのかも」  隠しかけた手を、フィルがそっと掴んで引っ張ってきた。彼は掌に顔を近づけて、じっと傷の具合を見ている。オギーは緊張し、初めて己の手が傷跡だらけであることを後悔した。昔の古傷もあれば、ここ最近にできた傷もある。治安のいい手だとは言えない。彼がこれを見てどう思っているのか探ろうと、フィルの伏せたまぶたに並ぶ、金色の長い睫毛の動きを監視する。  すると、ふいにフィルが顔を上げた。 「痛そうだけど、これなら絆創膏で大丈夫だね。バスルームにあるからちょっと待ってて」 「あ、いや、別に大丈夫――」 「いいから、いいから。助けてもらってばっかりな僕に、せめて何かさせてよ」 「はぁ」  彼の手が離れていく。笑顔でバスルームへ向かうフィルを見送った後、オギーは内心胸を撫で下ろした。椅子の上で身体をよじり、辺りを見回す。部屋の構造は自分のアパートとあまり変わらない。玄関を入ってすぐ横の扉がバスルーム、それを過ぎるとキッチンと狭いリビングがあり、さらに別の部屋が寝室。ガラス片も床に広がった水も片付いた今、寝室の扉は閉め切られている。バルルームの方から、くぐもった水の流れる音が聞こえる。  オギーは寝室の扉を見つめたまま、すんと鼻を鳴らした。あの部屋で咄嗟にフィルの腕を掴んだ時、振り解かれ、やがて向けられた彼の目が忘れられなかった。あの様子はまるで―― 「どうしたの?」  声に驚いて振り向くと、絆創膏の箱を持ったフィルが立っていた。彼はにこりとした。 「お待たせ。もっと早く怪我に気づけなくてごめんね」 「いえ……それは自分で貼ります」 「はい、どうぞ」  オギーは絆創膏を受け取った。正面に座ったフィルに見守られる中、慎重に傷口を塞いでいく。何となく緊張しながらちまちまと貼っていると、ふいに声をかけられた。 「今朝さ、窓から僕のこと見てた? もしかして描いてたりする?」 「う!」  驚いた拍子に、絆創膏の粘着部分がぐにゃりと曲がって貼りついてしまった。この慌てた反応を肯定と見たのか、フィルは目を見開いて声を上げる。 「やっぱり!」 「……許可もなく、勝手にやってすみません。もし嫌だったら、すぐに処分します」 「もうほんと! 勝手に描かれちゃ困るよ!」  フィルが頬を膨らませた時、オギーは心臓を錆びついた槍でぐさりと刺されたような気がした。しかしその不安とは裏腹に、フィルはぱっとからかい混じりの笑顔を浮かべた。 「だって言ってくれれば、お洒落してポーズだってとってあげるのに!」 「……例えば、どんな?」  一瞬迷ったが、そんなことを聞いてみた。すると、フィルは椅子から立ち上がった。 「そうだね……こんなのはいかが?」  彼はやや背中をそらして片手を腰に当てる。腰から尻へのラインを強調するポーズだ。セーターが邪魔して見えないが、彼の腰は美しく湾曲しているだろう。ジーンズに包まれた脚を伸ばし、つま先はヒールを履いたように伸ばしている。 「どう?」  フィルの妖艶な表情の中、ブルーの瞳には暗い誘惑の影がある。オギーは彼をまじまじと見つめながら、その変貌っぷりと色香に言葉を失っていた。しばらく呆然として見ていると、突然フィルがポーズをやめ、恥ずかしそうに身をよじりながら椅子へ座り直した。 「まぁ、僕は歌ってばっかりだったからね。ポーズを取るのはそんなに得意じゃないんだ」 「あ、いや、気に入らなかったとかじゃなくて、その、雰囲気が変わったから驚いて……」 「あはは。でも、さっきのは描かないでね。恥ずかしいからさ」  オギーは「はい」と言いたくなくて、眉だけをわずかに上げて返事を濁した。 「ところで、歌ってばっかりだったって……もしかして仕事で?」 「もう引退したけどね。ショーパブで働いてたんだ。ゲイの」  フィルは人畜無害な微笑みを浮かべ、こちらを見つめてきた。「君がどう思おうとが僕は構わないよ」と顔には書いてあるが、眼鏡の奥の瞳は、オギーの表情のちょっとした変化も見逃がすまいとしているようだった。  オギーはしばしその瞳と対峙した後、ズボンのポケットに手を突っ込み、潰れてしまった煙草の箱を取り出す。そこから苦労して一本引き抜くと、彼に差し出した。 「残念です。もう少し早く生まれてくれば、俺も見られたのに」 「あはは、ありがとう」  フィルはショーへの賛辞と、ねじ曲がった煙草一本への礼に柔らかく微笑んだ。  彼の警戒が解けたようで、オギーはほっとした。彼がそっちだというのは何となくわかっていたし、むしろ彼がパブの怪しいスポットライトを浴びて、舞台で歌っている姿を想像して身体が熱くなった。 「あ、ライターがないや」  煙草を咥えたフィルが、ズボンのポケットを探りながら言った。  オギーもとっさに自身のポケットに手を突っ込んだが、あるのは潰れた箱だけだった。 「すいません、渡すだけ渡して火がないなんて」 「いいよ、ほんとは禁煙しなきゃいけないからさ。四十過ぎたら肺は大事にしないと」  フィルは自分の胸をとんとんと叩き、煙草をワイングラスのそばに転がした。グラスの中のドクターは窮屈そうだったが、それでも美しいひれを動かして泳いでいた。 「いつ引退されたんです?」煙草を指に挟んだまま、オギーは尋ねた。 「十年前になるかなぁ。僕は今年で四十八のおじさんだよ」 「もったいない。あなたならまだまだいけますよ」  フィルは一瞬ぽかんとした後、声を上げて笑い出した。「冗談やめてよ」の笑いだろう。  一方オギーは反論せず、ただ彼の笑い声が聞けたことに言いようのない高揚感を覚えていた。少しハスキーで乾いた笑い声。初めて聞いた彼の笑い声。目元に小さな皺が見えた。  笑いの発作が治まったフィルは、眼鏡のレンズを器用に避けて目元の涙を拭う。 「まだまだいける、か。面白いね」 「どうしてやめたんです?」 「歳だよ」  彼は無意識か、自身の耳に触れていた。「歳だからね」  見ると、そこには肉色の補聴器がはまっている。細いビーズストラップが付いていて綺麗だが、捻れたり絡まったりしている。オギーは妙な不安を覚えた。聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする――この胸のざわめきは、先程腕を振り解かれた時の感覚と似ている。フィルは、この心に住み着く怪物の存在を感じ取ったのかもしれない。だから怯えた表情を見せ、そのことを上手く隠そうとするのだろうか。悶々と考えていると、ふいにフィルが言った。 「ところで、オギーはどんな仕事してるの?」  オギーは会社員だと答えた。答えつつ、彼の、空気を変えるような話題の変換で確信する。やはりフィルは何かを感じ取っている。自分の中に住む怪物は瀕死に追いやっていたものの、まだ殺しきれてはいなかったようだ。 「へぇ、仕事は大変?」  彼の問いに、オギーは無理矢理笑ってみせた。 「いい職場ですよ。毎日、穏やかな気分です」    いつしか外はオレンジ色に染まっていた。もうすぐ夜がやって来るな、とフィルは思った。  オギーも夜の気配を感じ取ったらしく、もう迷惑になるからと言って椅子から立ち上がった。別れの挨拶もそこそこにそそくさと部屋から出て行った彼を、フィルはアパートの廊下まで追いかけてようやく引き留めた。 「待って、待って。せっかくだから、今日はうちで夕飯食べていかない?」 「あぁ、ありがとうございます。でも、今日はやめておきます。だけどまた誘ってください。その時は、あなたが好きな飲み物を持参します。ワインでしたっけ」 「そう。でも君はお酒飲まないんだよね」 「えぇ。その通りです」  オギーは口の端を上げて笑む。彼は自分より二十近く若い。大人びた――または少々くたびれたような――風貌からもっと年上かと思っていたが、会話の端々で若者らしい言葉遣いは聞こえてきた。それが可愛らしかった。 「じゃあさ、来週の土曜日、僕の部屋でディナーはどう?」 「いいんですか?」 「もちろん! 冷蔵庫にコーラを補充しておくよ」 「じゃあ、楽しみにしてます」  ようやくオギーが頷くと、フィルは念押しするように大きく頷いた。彼が背中を見せ、廊下を進んでいくのをじっと見守っていた。 「あっ、待って!」  フィルが声を上げると、オギーは驚いたようにこちらを振り返った。 「スケッチブック、よかったら今度持ってきてくれない?」 「いいですよ。じゃあ、また今度」  彼は小さく笑み、片手を上げてまた歩き出した。その姿が階段の方へ消えていっても、フィルは廊下に立ち尽くしたままだった。やがて足音が完全に聞こえなくなると、ようやく部屋へ戻る。後ろ手に扉を閉めると背中を押しつけ、健康的な鼓動を繰り返す心臓の上にそっと手をやる。 「はぁ……」  感嘆の溜息のはずだった。しかし、吐き出した息にあの男の匂いを感じた瞬間、猛烈な吐き気に襲われた。急いでバスルームへ入り、顔が水浸しになるほど何度も口の中をすすいだ。一度、水が気管に入って激しく咽せる。やがて咳の発作が治まって顔を上げると、目の前の鏡には、赤黒い顔をびっしょりと濡らした自分がいた。不健康な色だったが、そこに映える青い瞳には決心の色があるように見える。 「デザートは、夕食を全部片付けてから……」  傾いだ眼鏡を元に戻しながら、フィルは呟いた。

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