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第4話

 何かを成し遂げたい時、まずは簡単にクリアできる試練を自分に課してみるといいと、どこかで聞いたが、ありふれた言葉になったせいで今では擦り切れて聞こえる。  月曜日の午前。オギーは、社員達が映るパソコンの画面を見つめていた。気分を落ち着かせるためにいつものニット帽を被ると、表情を引き締めた。しかし会議が始まって数十分後、画面の真ん中に陣取っていたボスが怪訝な顔をした。 「なぁ、オギー。具合でも悪いのか?」 「いいえ、ボス。どうしてです?」 「顔が引き攣ってるぞ」  上司は相変わらずカメラとの距離が近すぎ、首回りのマフラーのような贅肉がよく見える。彼はグロテスクなものを見るかのような目でこちらを見ていた。ボスの言葉で、他の社員も視線もこちらに集まった――それぞれの視線は別の方向を見ていたが。  オギーは、無理矢理引き上げた口の両端が震え始めるのを感じた。 「いいえ、ボス。笑ってるんです」 「今すぐやめろ。気味が悪い」 「俺に笑顔が足りないとか言ったのはボスですよ」カメラの死角にある膝が揺れ始め、その上で固く握った拳が震え出す。顎にも徐々に力が入り、オギーは半ば歯を食いしばりながら話していた。「精一杯やっているんですが」 「なら新しい助言をやろう。職場の雰囲気を良好に保つためだ。その顔をやめろ」 「わかりました、ボス」 「大体お前はな――」  前科者のオギーは苦労して就職したが、そんな苦労も、社員達の経歴を把握している上司の前では無意味なものに思えた。彼は自分の威厳のためにも、保身のためにも、狂犬を飼い慣らしておきたかったらしい。圧力をかけ、細かい指摘をねちねちと繰り返す。もしその犬が刃向かって問題を起こしても、その後ろには再逮捕という深淵が待っているだけだからだ。 「ちょっと、エミリ! マイク! 二人とも勝手なことしないで!」  突然叫び声が耳をつんざき、オギーは驚いて笑顔を崩した。画面を見ると、女性社員が一人、慌ててマイクをオフにしていた。彼女は怒りに塗れた横顔をこちらに見せ、画面外のどこかに向かって怒鳴っていた。原因は子ども達だろう。四歳くらいの男の子と女の子が時折、画面の後ろにちらちら登場するのを見たことがある。  上司は彼女の叫びを無視し、オギーに新たな助言をのたまうことに夢中だった。  オギーはテンポの合わない頷きを繰り返しつつ、視線を動かして、画面端に表示された時刻を確認する。いつしか時刻はすでに午後十二時を過ぎていた。子ども達が騒ぐのも無理はない。 「教育係のジョシュに頼んで、もう一度笑顔の研修を受けてこい」 「別にその必要は――」 「あぁ、もうこんな時間だ。さぁ、皆、一旦休憩しよう。一時間後にまた」  最初に上司が会議を退室したことに、オギーは心底ほっとした。強張った身体が爆発する前に画面端の「退室」のボタンをクリックし、溜息をつきながら手で顔を撫でて俯く。やがて顔を上げた時、暗くなった画面に映る自分の顔を見てぞっとする。 「あんたの言う通りだよ」  ひどい顔だった。この顔は笑顔を作るには適していない。笑顔を作るための筋肉が存在していないのかも、とオギーは思った。痛む口元を揉んでいると、ふいにスマホが鳴った。 「何だよ、ジョシュ」 『泣く子も黙る笑顔の持ち主に、事情を聞きたくてな。何があったんだ?』 「たいした理由はない」  オギーはジョシュの、歯磨き粉のコマーシャルに抜擢されそうな白い歯列を思い出す。こんな職場にはもったいない、完璧な存在だった。しかしジョシュがオギーの過去を知っているのと同様に、オギーもまた彼の内情を知っていた。 『何か話があるなら聞くぜ。なんなら前みたいに、一緒にごみ置き場で暴れてもいい』 「もうあそこには行っていない。今後も行くつもりはない」 『何だって?』ジョシュは素っ頓狂な声を上げた。『ほんとにどうしちまったんだよ』  仲間を失ったジョシュ。ルックスの良さから勝手に完璧な存在という座を押しつけられたジョシュ。そのストレスから、郊外にあるごみ置き場で大暴れすることを人生の喜びにしたジョシュ。彼の焦った息遣いが聞こえる。 『きっと限界が来るぞ』ジョシュは低い声で言った。『実の父親を半殺しにして逮捕されたお前じゃ、いつか戻りたくなるぞ』 「……言ってろよ」 『会社でお前を見かけた時、俺はすぐにわかったぜ。どうしようもないもんを抱えてるってな。だからあのゴミ捨て場を紹介したんだ。真夜中に忍び込んで暴れてさ、あの時のお前は生き生きしてたぜ』 「黙れって」頭が熱く重たい。血が上ってきているのがわかる。 『そこで話してくれたよな。通報者は母親で、そのせいでお前は逮捕されてムショ暮らし。暴力を振るう父親から守ってやったのに、こんな仕打ちあんまりだよなぁ。同情するよ。その後で裁判所から、セラピーへ行くように命令されたんだ』  嘘や噂よりも、事実を言い当てられる方がよっぽど腹立たしい。もう意味を持つ言葉を発するのも辛くなってきたが、オギーは自身に言い聞かせる。俺は怒らない。自分は怪物をコントロールできる。コントロールしなくてはならない。  貧乏揺すりを繰り返す足が、床の板をきりきりと小さく鳴らしていた。 『お前はまともにはなれないさ。だから、それなりに生きていくしかないんだよ』 「……もう切るぞ。せっかくの休憩時間だ。二度とかけてくるな」  スマホの電源を切り、沈黙したパソコンの隣に置く。長い溜息をつく。ふと一人の時間が訪れた途端、腹の底で煮える怒りが浮き彫りになる。他に何か考えることを探さなければと、オギーは焦る。取り敢えずデスクから離れた。新しいものを買う金はない。  キッチンへ移動して水を飲んだ時、ふと、部屋の隅の作りかけの椅子に目が行った。水は口から喉、食道を通って胃の中へと落ちたが、怒りの熱はもっと身体の奥深くにある。そもそも水道水で冷めるような熱ではない。 (だめだ。だめだ。あいつの言いなりになるつもりか)  椅子から視線を逸らし、目をぎゅっと閉じたが、そのせいでより心の声が大きく聞こえる。壊しちまえ、壊れたらまた直せばいいじゃないか。修理は好きだし、怒りも発散できる。一石二鳥だろう。午前中まであんたはよくやったよ、さぁ、ぶっ壊せ、我慢は苦しいだろう? 元より、不格好な椅子だったんだ。 「あぁ、くそ!」  オギーは椅子に近づき、背もたれを掴むと床に思い切り叩きつけた。破裂音にも似た音が部屋中に響き渡り、脚の一部が吹っ飛んで床をからからと転がった。一度噴火した怒りはしばらく治まらず、今度は足を高く上げて壊れた椅子を踏みつける。ばきんと音がし、木片が飛び散って、割れた木の断面から独特な匂いが漂ってきた。 「おい、うっせぇぞ! 何してるんだ!」  突然、壁の向こうから中年男の怒号が飛び込んできた。オギーは一瞬はっとなったが、身体の中に住む怪物は、他人の怒りすら自らのエネルギーに変える。  オギーは無言で、壁に額を叩きつけた。 それが隣人への威嚇だったのか、自身の怪物を黙らせるためだったのかはわからない。ニット帽は脱げて床に落ち、オギーは痛みと眩暈で床に座り込んだ。目の前がちかちかし、フラッシュバックの兆候を見た。 「はぁ、はぁ、くそ、だめだ、しっかりしろ」  過去の亡霊を払うため、オギーは目を閉じた。何か考えなければ。怒りから最も遠いものを! ――そして、咄嗟にフィルのことを思い浮かべた。金魚を愛でる美しい笑顔の男。明るさの中に妖艶さも持ち合わせる男。オギーはその幻影にしがみつきつつ、震える手でズボンのポケットから煙草を取り出す。すぐさま咥え、目を開けて火をつけるとまた目を閉じる。煙を大きく吸って吐き出した。  すると、驚くほどに気分が楽になった。  恐る恐る目を開けて壁掛け時計を見ると、休憩時間は残り十分になっていた。  ぐらぐらと煮える鍋の前で、鼻唄を歌っていたフィルははっと我に返った。見ると鍋の中はパスタだらけで、白く濁っていたはずの湯が黄色っぽいパスタのせいで見えない。湯が鍋から噴き出して、ステンレスの側面を濡らしていた。 「あああ、やっちゃった!」  フィルは慌てて火を止め、溜息をついた。もう何十分も鍋の前に突っ立っていたらしく、セーターの下はしっとり汗をかいている。鍋の中のパスタは揺らめきながら底へと沈んでいき、重なり合って動かなくなった。 「調子に乗って大量に作っちゃう癖、やっぱり抜けてなかったかぁ」  フィルは自嘲気味に笑った。 「彼との約束は土曜日のはずなのにさ」  そう呟いた時、唇からさっと笑みが消えた。自分は調子に乗っている? 誰のせいで? 彼のせいだ。ネッドのために料理を作る時はこんなことはなかったのに。そもそもネッドは偏食で、自分が作った料理をあまり食べることはなかった。目の前で捨てられたことだってある。  フィルは急に落ち着かなくなって、狭いキッチン内をぐるぐると歩き回り始めた。 「オギーはただのお向かいさんで、つい最近知り合ったばかりの友達」  年齢差は二十以上。ゲイかストレートかはまだ審議中。年齢の割に大人っぽく見えるし対応もそれっぽいけど、きっと若い故に不器用で一生懸命で……。 「ちょっと待って、ちょっと待って。ゲイかどうかは問題じゃないよ」  フィルは額に手をやって立ち止まる。妄想の快い余韻と、戸惑いの不快さが入り混じって目が回りそうになる。苦労して頭の中を整理し、やがて導き出された真実を思い切って口に出してみた。 「四十八のおじさんが、二十五の子に恋してるってこと?」  または、彼に救いを見出しているのかも。 「そっちだよ、きっと」  フィルは急いでキッチンを離れ、スマホを置いている寝室へと歩いて行った。窓台に置いた透明なボウルの中で、ドクターが泳いでいた。ワイングラスよりは広い部屋をもらえて、ようやく機嫌を直したように見える。  ナイトテーブルからスマホを取り上げ、電話をかけた。数回のコールの後、こちらがまだ何も言っていないのに、すでに深刻そうな声が聞こえてきた。 『フィオナ? どうしたの? 何かあったの?』 「あった。大変なことになった」  フィルはサーシャに、オギーとの出会いについて簡潔に話した。ただ、自分が彼のことをどう思っているのかは伏せた。まだわからないし、期待のしすぎは良くない。 「彼とは友達でいたい。いい人そうだし、一緒にいると何だか楽しいし。だけど――」 『ネッドのことに巻き込みたくないってわけね』サーシャの口調は重々しかった。『オギーって子とあんたが一緒にいると知ったら、彼、何をしでかすかわからないわよ』 「わかってる。だから……彼とは別れる」  そう言った時、その言葉を吐いたことを後悔するかのように唇が震えた。同時に胸の奥がざわついて冷たくなり、フィルはそれを抑えるため、一度深呼吸をしなければならなかった。唇を舌で舐めた後、改めてはっきりと口にする。 「ちゃんと別れる」 『あぁ、よかった! そう言ってくれる時を待ってたのよ! さっそく警察に――あぁ!』 「そう。彼は警官だから、下手なことはできない」 『そうだったわ……ちくしょう!』彼女がテーブルか壁か、どこかを叩く音が聞こえてきた。『あいつ、毛皮の代わりに制服を着たケダモノじゃない! ショーパブの仕事だって、あいつが無理矢理やめさせたんでしょ!』 「でも最初は単に、パートナーをそういう場所にいさせるのが嫌だったと思う」  フィルはそう言い、ほとんど無意識に、補聴器の詰まった耳を触った。「できれば話し合いで終わらせたい。別れて欲しいだけで、彼をこてんぱんにしたいとは思ってないから」 『あぁ、フィオナ! フィオナ!』  その甲高い声音から、彼女が目をぐるりと回している様子が想像できた。 『あんたの悪いところよ! 優しいのはいいけど、今回は相手を選びなさい!』 「彼だって普通の状態じゃないんだよ」DVという単語をネットで検索したのは、一度だけではない。様々な記事を読みあさったフィルは、加害者側もまた問題を抱えていることを知っていた。「納得させていないまま突き放したら、それこそ彼がどんな行動を取るか」 『じゃあ、こう考えなさい』サーシャは有無を言わさぬ口調で言った。『今回の件で彼に裁きを下すことは、彼に更正のチャンスを与えることと同じだって』 「でも――」 『フィル』 「わかった」  この関係が自然消滅してくれたらどんなにいいか……フィルは一旦、その希望を頭から閉め出した。今はとにかく現実的にならなくてはならない。 「じゃあ、これからどうすればいい?」 『リックって覚えてる? あたしの知り合いの弁護士。彼曰く、とにかく証拠が必要だそうよ。誰もが納得できるような証拠をね。一番いいのは、警察に相談した経歴があることなんだけど……』 「それはわかってる」  フィルは寝室をぐるぐると歩き回った。決死の覚悟、痛みは承知の上。秘密裏にことを終わらせる――何だかかなり非日常で、自分の手に負えるような問題に思えなくなってきた。 『録音とか、録画も証拠の一つとして使えると思うの』 「え? 何?」ただでさえ不調な耳がさらに機能しなくなっている。 『だから録音とか、録画だって……あんた、小型のカメラなんか持ってる?』  サーシャは躊躇うような声で計画を話した。この部屋のどこかにカメラや録音機を仕掛け、そこにネッドの暴行している姿や音声を記録するというもの。  彼女の声音とは裏腹に、フィルは目の前の霧が晴れたような気分になった。 「それは名案だね! でもカメラはスマホ一台だけだから、これから買い足さないと――」 『フィオナ、あんた馬鹿?』サーシャは声を荒げた。『これ、あんたがもう一度ネッドから暴力を受けなきゃならないってことなのよ! しかもカメラの前で!』 「カメラ前でのパフォーマンスなら慣れてる」 『ショーパブじゃないのよ……』サーシャの深い溜息が聞こえてくる。ややあって、彼女は真剣な口調に戻って尋ねてきた。『でも、覚悟はあるようね』 「やらないといけない」  フィルは寝室を横切り、窓辺に立って向かいのアパートを眺めた。彼を巻き込むわけにはいかない。彼の理想を壊さないためにも。嫌われないためにも。 『ところで、とうとうあんたに決断をさせるなんて、オギーって子はそんなに素敵なの?』 「感じのいい人だよ。今度の土曜日、彼とディナーの約束してる」 『あらあら。あんたは張り切ると作り過ぎちゃうんだから、それだけ気をつけなさいよね』  フィルはさっきのことを思い出し、ぷっと吹き出した。笑いの合間にそのことを告白し、やがてサーシャと二人で笑い合った。少ししてからサーシャは言う。 『とにかく、何かあったら、絶対に連絡を寄越してちょうだい。きっと力になるから』 「ありがとう、サーシャ」 『ふふ、オギーと出会ってから、日常が一変したんじゃないかしら?』 「映画やドラマみたいな変化はないよ」  オギーの部屋の窓を見ると、仕事中だろうか、窓もブラインドも閉まっていた。フィルはリビングに戻ると、パソコンを置いたデスクに着く。 「ただ、いつもと違う一日があっただけ。それだけだよ」

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