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第5話
とうとうこの日が来た。時刻は午後七時に差しかかろうとしている。四〇二号室の扉の前に立つオギーは、今さらながら、己の異様な姿に不安になっていた。
片手にワインボトル、もう片手にはスケッチブック。しばらく着ていなかったせいで固くなったスーツの生地は胸を圧迫し、緊張をほぐすための深呼吸を邪魔している。頑張って笑顔を作ってみたが、両頬が引き攣り、痛みに耐えているような顔が出来上がるだけだった。
今夜は何百年振りとも思われるまともな邂逅だ。相手は気のいい向かいの住人、人畜無害な一般人、笑顔の素敵な男――彼に悪い印象を与えたくない。失敗は許されない。
「あぁ、くそ……誰かと会うためにスーツなんて着ないのに……」
腕時計がいよいよ午後七時を指した。オギーは覚悟を決め、扉をこつこつとノックした。すると、まるでずっと扉の前で待機していたかのように、間髪入れずに扉が開かれた。
「やぁ、オギー! よく来たね――」
ベージュのセーターに、ピンクのエプロンを着たフィルが現れた。肩にかかったビーズストラップは、今夜は捻れても絡まってもいなかった。彼は最初、満面の笑みでオギーを出迎えたが、次第に驚きの表情へと変わっていく。
その変貌を見た途端、オギーは顔がぼっと熱くなった。今すぐ回れ右をして帰りたいという衝動に襲われる。取り敢えず、事前に準備していたスピーチ――もとい言い訳――を披露することにした。
「ええと、よく考えたら俺、今まで誰かにこういうのに誘われたことなくて……だから何を着たらいいかもわからなくて、これで……」
両腕を上げて降参ポーズをし、その場でぎこちなく回って見せる。恥ずかしさと気まずさに耐えて一周回り、次にフィルと目が合った瞬間、彼はぶはっと吹き出した。
「そんなに緊張しなくったっていいのに!」
フィルは眼鏡越しに優しい青の瞳を向けてきた。彼の弾けるような笑いにつられて、オギーも苦笑した。やがて笑いがさざ波ほどに治まると、フィルはわずかに背伸びをし、内緒話をするように顔を寄せてきた。
「ここだけの話、シェフは今夜、何を作ろうかと何時間も迷ったあげく、時間がなくなっちゃって、今日はパスタとサラダしかないんだって。だからカジュアルな服装でいいって」
「なら、どこのブランドかわからない、スクリューキャップのワインでも大丈夫ですかね?」
「シェフはどんなワインでも大好きだから、大丈夫!」
戯けたフィルの口調に、オギーは自然と微笑んでいた。この一週間、ずっと笑顔の練習していた自分が馬鹿みたいだ。
フィルが扉を大きく開け、招き入れてくれる。廊下に足を踏み入れた瞬間、トマトソースの匂いがオギーの鼻腔をくすぐった。キッチンの方から香ってきている。匂いがする方向をぼんやりと見ていると、ふいにフィルがネクタイの先を指先で摘まみ上げてきた。
「ねぇ、君のスーツは素敵だし、ネクタイを締めるのにもきっと苦労したんだろうけど、きっと三〇秒後には脱いじゃってるよ。ネクタイは外してズボンのポケットに突っ込む。それとシャツは胸元まで開けちゃう」
「それってどういう……」オギーはどぎまぎした。
「だから、もっとリラックスしなきゃ。僕の料理のチープさが浮き彫りになっちゃうでしょ」
「いや……でも本当にそうしたら、俺を行儀が悪い若者だって思ったりしません?」
「ははは、君を試したりなんかしないよ」
フィルはワインボトルを受け取ると、それを顔の高さで掲げた。
「今日は嬉しい日だよ。無礼講だ。だけど僕がこれをしこたま飲んで、べろべろに酔っ払ったら、君は僕を面倒なゲイの四十路だなって思う?」
オギーは首を横に振った。むしろ酔っ払うところを見てみたい――とは言わなかったが。
こちらの返事を確認したフィルは、満足げに頷いた。
「よし! じゃあ、そのスーツを寄越しなさい。ほらほら……あ! スケッチブックも持ってきてくれたんだ! それも預かってもいい? それとバスルームで手を洗っておいで」
スーツから解放されたオギーは、彼の予想通りネクタイを外し、シャツのボタンを二つ三つ外していた。フィルに案内されたバスルームで手洗いとうがいを済ませた時、オギーはふと、目の前の鏡に視線を向ける。額に大きな痣があることに気づき、前髪を引っ張って隠した。ほっとしたのも束の間、今度は顎髭を剃り忘れていることに気づいた。一瞬狼狽えたが、先程のフィルの様子を思い出して我に返る。
バスルームから出て、芳しい匂いを頼りにダイニングルームへと向かった。そこには赤と白のギンガムチェック柄のクロスが敷かれたテーブルがあり、フィルがオギーの席へ瓶入りコーラを置いていた。向かいにあるフィルの席には、包みから解放されたワインボトルが鎮座している。スケッチブックもそこにあった。
フィルは部屋に入ってきたオギーに気づくと、うんうん頷きながら微笑んだ。
「やっぱりそっちの方がいい。さぁ座って」
「失礼します」
オギーが席に着くと、フィルはキッチンへ移動し、パスタを盛った皿を持って戻ってきた。赤いソースが湯気を立てながらつやつや輝き、大ぶりのミートボールも入っている。この夕食のためにーーそして緊張のせいでーー昼食を食べていなかったオギーの腹は低く唸ったが、いざ皿が目の前に置かれた時、オギーはぎょっと目を見開いた。皿に盛られた量といったら、まるで小山だ。
「君が来るから、すごくわくわくしちゃってね」
フィルはテーブルの中央にサラダボウルを置くと、エプロンを外し、向かいの席に座った。
「すっかり浮かれちゃったんだ。張り切ると料理をたくさん作り過ぎちゃうんだよ」
「今日は昼食を食べ損ねていたから、ちょうどよかったです」
「そうなの? 仕事が忙しいとか?」
ワインの蓋を開けながらフィルが問う。その手際の良さに感心しながら、オギーは答えた。
「えぇ。自宅でテレワーク中です。会社に行く労力が省けていいですよ」
「そう。でも気が休まらないんじゃない?」
「まぁ、ちょっとだけ」
「駄目だよ。それでもちゃんと食べなきゃ」
「えぇ、すいません」
オギーはテーブルに置かれた栓抜きを持って、コーラ瓶の蓋を開けにかかった。テレワークのおかげで外に出なくてよくなったが、そのぶん、部屋のものをぶち壊してしまう機会が倍増している気がする。修理代の方が高くつくし、修理に必要な材料も、中々店まで買いに出かけられない。ビン入りのコーラなんていつぶりだろうか……そう考えていると、ぽんと音がして蓋が開いた。
「瓶から直接飲んでも?」オギーは尋ねた。
「いいよ」
フィルは頷きつつ、自分のグラスにワインを注いでいた。
それを見たオギーは、はっと先日のことを思い出し、口に運びかけていた瓶を下ろす。
「あの金魚……ドクターはどうなったんです? 水槽は? まさかまだワイングラスの中?」
「まさか」フィルは首を横に振った。「あの子は無事だよ。今の住居は透明なサラダボウル。今は夜だから寝室の窓辺にいるんだ。新しい水槽は通販で注文中だし、他にも買うものがあったからちょうどよかったよ」
「あぁ、それならよかった」
オギーはほっとして椅子の背にもたれた。するとフィルは少し驚いたような、不思議そうな表情でこちらを見つめてきた。
「あの子のことを心配してくれてたの?」
「それもありますけど、何より、彼を失った時のあなたが心配だったんです」初めて部屋を訪れた理由もそれだった。「あなたはひどく傷ついてしまいそうだから」
「そうだね。もし彼が死んだら、僕は有り金を全部使って葬式を挙げるかも」
フィルは戯けたように笑っているが、オギーはそれが冗談に聞こえなかった。
「君のおかげだよ。ドクターが助かったのも、僕が正気を保っていられるのも」
やがてフィルはグラス半分までワインを入れると、それを持ち上げて高らかに言った。
「じゃあ、ドクター・ライト二世の無事と、僕達の邂逅に!」
「えぇ」オギーもコーラ瓶を掲げる。
二つのガラスが触れ合ってかちんと鳴った。
オギーは瓶を口に咥えてあおると、口の中で甘みが弾け、炭酸の刺激と甘い匂いが鼻を駆け抜けていくのを感じた。炭酸のせいか目がじんわりと痺れる。
ふと、フィルがワイングラスを片手にこちらを眺めているのに気づいた。
「何です?」
「ううん、いい飲みっぷりだなぁと思って」彼はそう言って微笑んだ。
「どうも甘いものは久し振りで。生き返った気分です」
「ははは、大袈裟だね! ただの市販のコーラなのに」
「あなたと飲んでいるから」とは言わなかった。彼の笑顔がすぐ目の前にある。その気になれば手を伸ばして触れることもできる。いつも道路を一本挟んだ距離にいて、こちらはその輝きを紙に描き留めることしかできなかったというのに。
そこでオギーは、テーブル端に置かれたスケッチブックを指差した。
「よかったらそれ、見てみますか?」
「うん、楽しみだったんだ」
フィルは口に含んでいたワインを素早く飲み込むと、グラスをテーブルの端に追いやってから表紙を捲った。彼の目が、眼鏡の奥で大きく見開かれる。オギーの胃の辺りにはずっしりとした不安がやってきた。しばらくダイニングでは、紙が捲れて擦れるしゃっしゃという音だけが静かに響いていた。
ふいに、フィルの唇が微かに動いた。
「え?」
彼の囁くような声が上手く聞き取れず、オギーが慌てて聞き返す。しかしフィルは、何でもないよというふうに首を横に振った。そして顔を上げ、こちらを見つめてきた。
「嬉しいよ、オギー。ドクターもちゃんと描いてくれてるし、僕もこんなに綺麗に描いてくれてる! あぁ、もっと早くに君とちゃんと出会っておきたかったなぁ。そうしたら君は画家で、僕は君の専属モデルになってたかも、なんてね!」
「そんなに……よかったんですか?」
予想外の反応に、オギーはただ当惑していた。本気で描いていたのではなく、自分の気持ちを落ち着けるため――そして彼の笑顔に惹かれていたが故――に描いていたものだ。
フィルはにっこりと笑って、スケッチブックを差し出してきた。
「モデルがこんなに喜んでるんだから。自信持っていいよ」
「ありがとう、ございます……」
オギーは照れくさいような、泣きたくなるような、何とも言えない複雑な気分だったが、悪いものではないと思った。
フィルがくすくす笑い出し、彼はまた口元に手を当てて顔を近づけてきた。
「最初に君を見つけた時、僕をオカズにマスを掻いてたんじゃないかって思ってたんだ」
「まさか!」
オギーが叫び、直後、ダイニングルームでは笑いの渦が巻き起こった。
気づけば、ボトルの中身は半分以下になっていた。
フィルはワインをあおりながら、パスタの出来は上々だと内心呟いた。数日前、パスタの茹ですぎ事件を起こしてからは、ぼんやりせずに料理へ取り組むようになった。トマトソースの酸味も塩加減もよかったし、ミートボールも形が崩れたりしなかった。なにより、それを目の前でもりもり食べるオギーを眺めていると、何もかもが上手くいっているように感じられた。
膨らんだ彼の両頬が愛おしい。嚥下の音すら聞き惚れてしまう。パスタの小山は、今や全てオギーの胃の中。皿は空っぽ。その隣には空になったコーラの瓶が一つあり、二本目もほとんど残っていなかった。
「美味しかった?」フィルはオギーに尋ねた。
「最高でした。誰かが作ってくれた料理を食べるなんて何年ぶりか……」
オギーはふぅと息を吐くと、コーラの壜を持ち上げ、ソースで赤く濡れた唇に押しつけた。上下する彼の喉仏を見つめていたフィルは、ワインの熱が体内を駆け巡っているのを感じ、酔いかけていることを悟る。それでもまた一口、ワインを流し込んだ。
「僕もさ……自分以外のために料理を作るなんて……」その上、それを最高だなんて言ってもらえるなんて。「一体、何年ぶりになるかな?」
オギーは不思議そうにこちらを見ていたが、ふいにげっぷが込み上げてきたのか、慌てて口元に拳を押しつける。しかし押し殺しきれず、彼は咳払いをして誤魔化そうとしていた。
フィルはにやりと笑い、グラスに残っていたワインを一気に飲み干すと、これ見よがしにげっぷをしてやる。それを見たオギーは口の端を吊り上げて笑った。
「酒は強いんですか?」
「楽しむ程度から記憶がぶっ飛ぶまで。どのレベルでも楽しめちゃうよ、僕は」
「俺は普段飲まないからよくわからないんですが、でも、すごいペースで飲まれてる気がしますよ」
「そう?」フィルは瞬きをし、少しでも頭からワインの熱を遠ざけようと努めた。しかし、それすら億劫に感じてしまう。「確かに、いつもよりは多く飲んじゃったかも。今何時?」
「午後八時二十分です」
オギーが腕時計を見下ろした。
「そっか。なら今、テレビであの番組やってるよ……ほら、ええと、何だっけ……」
椅子から立ち上がった時、驚くほど足に力が入らないことに気づいた。アルコールで元気になれたのは午後七時四〇分頃までで、あとはただひたすら下っていくだけのようだった。
「しっかりしてください。危ないですよ」
気づくとオギーがすぐそばにいて、傾いた身体を支えてくれていた。
「ごめんごめん、大丈夫だから」笑顔で説得させた後、自らの足で立ち上がり、リビングの方を見た。「ソファへ行こう……君もよければ」
「いいですよ。明日は休みですし」
オギーの声が少し上ずって聞こえたが、きっと気のせいだ。フィルはオギーに煙草を勧め、彼が受け取ったのを見届けると、自分はグラスにワインをなみなみと注いだ。それを片手に、リビングのソファへと移動する。オギーも後ろからついてきた。
二人用のソファだが、フィルはいつもそこに一人で座っているし、それ以外では時々ネッドがどっかと座っているかだ。ソファ前に据えたテレビも、大抵は一人で観ている。
今夜はここに、二人が並んで座っていた。
自分の左側がやや傾いていることに、フィルは心地良い違和感を覚える。リモコンでテレビの電源を入れ、適当にチャンネルを変えていく。すると煌びやかな舞台の真ん中に、白いドレスを着た女性と、その後ろにバンドマン達が控えているのが見えた。
画面の中で司会者が声を上げる。
『続いての登場は、今話題の天才歌手! 元孤児の彼女が今夜、新たな家族と育んだその愛と歌声で、あなたの心をも溶かすでしょう! ニューシングルで「F&F」!』
会場の歓声が膨らみ、バンドマン達がイントロを流し始める。天井からのスポットライトが女性のスリムな影を映し出し、彼女はドレスの裾を揺らした。
「フレンズ、とファミリーでF&Fか……」
オギーは煙草に火をつけて咥えると、一吸いし、遠慮がちに煙を吐き出した。
「フィルのF&Fはどうです?」
「僕の?」
フィルは持ち上げかけていたグラスを下ろす。楽しさの余韻が消えぬうちに――酔いで脳がぐずぐずにならないうちに――それらの良い記憶だけを掻き集めて模範解答を作る。
「そうだね……前のボスは連絡をよくくれるし、この間も、店の記念パーティに来ないかって言われたよ。でも、友達は少ないかな」
そこまで言って、渋い味のする唾液をごくんと飲み込む。ネッドの独占欲とそれに起因する暗躍により、自分から友人が消えていったことは知っていた。
「家族とはもう何年も疎遠なんだ。まぁ、あの時代と当時の僕のことを考えると、自然なことなのかもね。父とは……カミングアウトするまでは仲良しだったよ。僕はテキサスの家を追い出され……ううん、僕が飛び出していったんだっけ?」
ニューヨークへ亡命。ショーパブで働き始めたが、まだ周りを信頼できるほどの余裕がなかった当時、ネッドの存在はまさに絶対的だった。地味だった自分に目を留めた彼。彼がいればなんでも上手くいくと信じていた――若さを言い訳にできないほどの愚かな行為だ、と今は思う。フィルは額を押さえた。何を思い出すにもネッドの影がつきまとってくる。
ふと、オギーが黙り込んでいることに気づいて、慌てて額から手を離した。
「ええと、オギーはどうなの? 友達とか、家族とかは!」
「友達を数えるなら片手で事足ります。それと家族は……」
オギーはしばし視線を泳がせていたが、咥えていた煙草を指に挟むと、肩をすくめた。
「親父にちょっと問題があって……今は州の北部にある介護施設にいます」
フィルは黙っていた。オギーの視線は自分でもなくテレビでもなく、彼自身の爪先へと落ちていた。彼はぽつりと続ける。
「一人になると時々、考えるんです。俺もいつかは親父みたいになるんじゃないか……問題を抑えきれなくなるんじゃないかって……」
「でも、今夜の君は一人じゃないよ」
そう言うと、オギーは驚いたようにこちらを見た。フィルはふっと微笑んで続けた。
「だってさ、問題のある人がわざわざ金魚一匹救うために、向かいのアパートまで駆けつける?」
オギーはぽかんとしていたが、やがてぷっと吹き出した。それにつられてフィルも笑ったが、彼の笑みが喜びというよりも、自嘲や自虐に近いものに見えて仕方なかった。彼を実年齢以上に見せている原因はこれだろう。
その時、テレビから流れてくる音楽が変わった。女性が歌い終わったのだろう。我に返ったフィルとオギーは、揃ってテレビの方へ視線を戻す。そして間髪入れず流れてきた曲に、フィルは「あっ」と声を上げて立ち上がった。
「どうしました?」
「この曲、すごく好きなんだよね。昔、仕事で歌ったこともあって」
元々はミュージカル用に作られた、ポップジャズの一曲。重々しく、物悲しさすら感じる曲調とは裏腹に、その希望と期待に満ちあふれた歌詞がフィルは好きだった。フィルはグラスをサイドテーブルに置くと、オギーの腕をぐいと引っ張って立たせた。
「来て」
彼の手を取ると、片手は自分と繋いで、もう片手は腰へと回し、スローダンスの時の構えを取らせる。煙草を咥えたままだったオギーは驚きの表情は見せたものの、拒否はしなかった。
フィルはオギーが吐く煙を吸い込み、久し振りの煙草の味に酔いしれた。
「ショーパブで働いていた時の血が騒ぐの」
「ちょっと。酔ってるって認めてくださいよ」
「やだね、認めない。証明してあげるよ、僕は完璧に君をリードできるから」
するとオギーはにやりと笑みで応えてきた。
フィルのリードに合わせて、二人はソファを離れて少し広い場所へ移動する。しばらくはゆらゆらと身体を揺らすだけだったが、フィルはオギーがダンスにも、ディナーに呼ばれるのと同じくらい経験がないことだと気づいた。彼は足がもつれる度に、笑って誤魔化そうとしている。
「いつも酔っ払ってこんな感じに?」
「そんなことないよ。あ、もしかして君がダンスできない理由を、僕が酔っ払っているせいにするつもり?」
「今、酔ってるって認めましたね。あなただってふらふらだ」
「違うってば」フィルは笑いながら首を横に振った。「これはそう……今楽しいせいだから」
「わかります。俺もこんなに――楽しいですっ!」
突然オギーがフィルの腰へ手を回してきた。フィルは彼の方へぐいと引き寄せられ、その上へオギーが身体をぐっと前へ乗り出してくる。フィルの身体は大きく仰け反り、補聴器のビーズストラップが肩から滑り落ちていった。
「うわっはは! オギー! 君も酔ってるんだな!」
「飲んでないから酔ってないですよ。だからあなたを落とさないでいられる」
煙が細くたなびくのが見える。オギーは、フィルの腰を支えて元の体勢に戻そうとした。
しかし、彼の思い通りにはさせてやるものかと、フィルはにやりと笑った。腹筋と背中の筋肉で自ら身を起こし、今度はオギーの腰へと手を回す。勢いよく身体を前へ倒し、彼をさっきの自分と同じ体勢にさせた。ただ、彼の身体は思ったほど仰け反らなかった。背中も腰も凝り固まっている。
「うおお!」オギーは悲鳴を上げたが、煙草だけは上手く歯で挟んでいた。
「この僕をリードするなんて百年早いんだから!」
「わかった、わかりましたから! 降参です!」
フィルはオギーを解放し、ソファへと突き飛ばした。背中からそこへ倒れた彼は、額を手で押さえながらくつくつと笑う。フィルも笑い、テーブルのグラスを取り上げると、オギーの隣へと腰を下ろした。傾いた眼鏡を元の位置に戻してテレビに視線を向けた時、曲が最後のサビに入り、終わりに向かい始めていることに気づいた。
フィルははっとした。
これでディナーは終わり、ダンスも終わり、そして今夜が終わる。身体を駆け巡る焦燥感が喉元に様々な言葉を運んできたが、それを口にするかは迷った。
(焦っちゃだめだ。こんなこと言ったって、この時間が永遠になるわけじゃないし、下手をすれば最悪の時間に変わってそのまま終わる。だって彼はまだ友達。まだ最高の友達。まだこれ以上の関係は望まない方がいい。だって……)
夕食はまだ全部片付けられてない……だけど、デザートの誘惑はあまりに強すぎる。あぁ、でもこれは生易しいご褒美なんかじゃない。暗闇の中に差した希望の光みたいだった。
フィルは残っていたワインをぐいと飲み干す。
「ねぇ、オギー」
「はい?」
「やっぱり、僕、めちゃくちゃ酔ってるみたい」
「そうですよ。ようやく認めました?」
隣でオギーがむくりと起き上がる。彼がすぐ近くに腰を落ち着けたのがわかる。しかしフィルは彼の方は見ず、瞬きもせず、じっとテレビだけを見ていた。
「そう、今の僕はどうしようもない酔っ払いだよ。だからさ、これから僕が言うことは全部、酔っ払い四十路ゲイの戯れ言だと思って聞いて欲しいんだ」
「はは、いいですよ、何です?」
オギーがさらにこちらへ身を寄せてくる。煙草の香りがぐっと濃くなる。
フィルはグラスをぎゅっと握り締めた。そしてすっかり乾いてしまった喉で声を絞り出す。
「……僕、君のことが好きかもしんない……」
とうとう曲が終わり、テレビからは割れんばかりの拍手と歓声が聞こえてきた。
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