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第6話

 オギーは気づかなかった。咥えていた煙草がぽろりと口から落ち、フローリングの床へと転がっていったことに。  全身がかっとなることはよくあるが、これは体験したことのない熱だった。怒りよりも気分は穏やかだが、熱量はこちらの方が遥かに強い。頭の奥がじんと痺れ、身体はしっとりと汗をかき始める。  オギーはフィルの横顔を見つめ、彼の言葉の真意を探ろうとした。しかし、その顔の赤味の原因に一パーセントでも、ワインという忌まわしい飲み物が含まれている限り、下手な判断はできないと思った。自分は全てを察せられるほど大人ではない。 「フィル」  どうしても確認したい。 「フィリップ、俺を見てください」  しかしフィルは――まるで初めて恋をしたティーンエイジャーだ――身体を強張らせていて、全く動こうとしない。指の一本だって動かせないように見える。  躊躇いつつも、オギーは手を伸ばし、彼の頬にそっと触れた。慎重にこちらへ向かせてみると、眼鏡越しの青い目と視線が合った。瞳は熱っぽく潤んでおり、今にも泣き出しそうな表情にオギーは確信した。 「頼むから、それが酔っ払いの戯れ言なんて言わないでください」 「でもやっぱり、君の言う通りだ。はは、酔ってるんだ。だから――」 「言わないでください」  オギーは自分にもフィルにも、躊躇う時間を与えたくなかった。衝動のままフィルの顔に自分の顔を近づける。首を傾げて目を閉じた時――唇が重なる瞬間――フィルが小さく呻いたのが聞こえた。オギーはそれを飲み込み、噎せ返るようなアルコールの匂いと、ブドウの酸っぱい香りを受け入れる。案外悪くない香りだと思い、その香りを追いかけて身を乗り出すと、身体の下でフィルがびくりと震えた。驚いて唇を離すと、舌先にワインの渋い味が残った。 「オギー……」  ソファに押し倒された彼の呼び声は、先程の彼のものとは思えないほど扇情的だった。  オギーは慌てて膝立ちになる。フィルの眼鏡の位置がずれ、そこから熱に浮かされた目が覗いている。上下する彼の胸辺りにはワインの小さな染みができ、捲れ上がったセーターの裾から腹筋の浮き出た腹と、ねじれた細い腰が見えていた。 「あ……俺は、その、何やってんだ……」 「ねぇ、オギー」  フィルはグラスをテーブルへ避難させると、身体を起こし、オギーと向かい合うように膝立ちになった。彼の赤い顔に青い瞳は映えていたが、何かに取り憑かれたように半開きになっている双眸では、その青も黒々として見える。彼の手が頬に触れてきた。 「無理しないでいいよ。このままじゃ、後悔しそう?」 「わからない……」  オギーは絞り出すように答えた。後悔など、ほとんどの若者にとっては無意味な言葉だ。それは走る車を追いかける犬と同じ――追いついた後、轢かれて死ぬなんて考えていない。オギーの場合、怒りに任せて父親を殴った過去の後悔が、衝動を抑える役目を果たしているが――今だけは犬に成り下がってもいいと思った。後悔など微塵も考えない駄犬がいい。それは勇気のある犬だ。  オギーは恐る恐る、頬に触れていた彼の手に顔を擦り寄せてみた。するとその手に導かれるまま上向かされ、驚いて目を見開いた瞬間、彼と唇が重なった。びくりと身体が跳ねる。  最初は唇を食む程度だったが、だんだんと激しさを増していく。いつしかオギーも夢中になっていて、互いの顔を掴み合い、引き寄せ合って額をぶつけていた。ふぅという荒い吐息が交錯する。鼻先が触れ合い、唇は唾液で濡れ、ふと口内で舌先が触れ合った瞬間、オギーは反射的に歯を閉じてしまう。どうにかフィルの舌は噛まずに済んだのは、彼が上手いタイミングで舌を引っ込めたからだ。 「すいません……」オギーは唇を離すと、未熟な自分に苛々してそこを噛みしめた。 「いいよ、びっくりしたんでしょ……あと、そこ……そこは、噛まないで」  フィルが顔を寄せてキスを再開させる。彼は腕を背中に回してシャツを掴んできた。  その性急な仕草に、オギーは体温が二度ほど上昇したように感じた。堪らず自分も彼の背中に手を回し、本能のままセーターの生地を掴む。一瞬ビーズストラップに指先が引っ掛かり、慌てて手を引っ込めた。フィルは気にした様子はなかった。  キスの間に聞こえる彼の小さな呻き声を聞き、知らない唾液の味を覚え、その舌の熱さと柔らかさを覚える。息を吸うと、ワインの霧の向こうから彼の心地良い体臭を感じ、その匂いに酔いしれた。しかし、下肢に違和感を覚えた時、その酔いはわずかに薄まった。いつしか己の股間はずんと張り詰めており、その膨らみを夢中でフィルの股間に押しつけていたのだ。  オギーははっとし、フィルの身体を押しのける。 「あ……おっと」  後ろへよろめいた時、フィルはバランスを取ろうとして少し足を開いた。そうして露わになった彼の股間もまた、ズボンを押し上げるように膨らんでいる。フィルはそれで耳まで赤くし、ぼうっとした表情でこちらを見ていた。  そこでオギーはふいに、服役中に同部屋だった囚人のことを思い出す。消灯後、自分の息子を慰めて欲しいと言ってきたあの男。最初は断ろうとも思ったが、やったところで自分がどうにかなるわけでないと考え直し、頼まれる度に彼の息子を握っていた。笑える話だが、あんなことでも誰かの役に立っていると感じると、オギーは自然と気分が良くなった。 「触りたい」  そう口にしていた。今は、自分がそれを望んでいる。  するとフィルはそっと身を起こし、再びオギーの前で膝立ちになった。その目には興奮と焦燥、そしてわずかな疑念と不安が窮屈そうに同居している。  その熱い視線に渇きを覚え、オギーは喉を鳴らして唾を飲み込んだ。フィルをそっと抱き寄せると、彼の腰に手を這わせ、下に滑らせていき、細い腰とズボンの隙間に差し入れる。少し汗ばんだ下着の中で、彼の臀部の見事な丸みに触れてみる。 「んん……は、オギー……」  フィルはひくっと腰を逸らせ、オギーのシャツを掴んできた。 「ん?」 「そっちはまた今度……今は、前、触ろう?」  暗い欲に塗れた彼の囁きに、オギーの腰はじんと痺れて熱を増した。今や駄犬は涎をぼたぼたと垂らしながら走り回っている。オギーは彼の尻から手を離し、二人の身体の間にわずかな隙間を作った。  フィルは紅潮した顔で俯き、ズボンのファスナーを下ろしていく。ファスナーが下りていくのに比例して、彼の足は大きく開いていった。いやらしく開かれた股の間で、フィルの欲望は、下着の存在を排除せんばかりに布地を押し上げていた。  それを目の当たりにしたオギーは、ほとんど衝動的に自分のベルトを引き抜き、ソファの下へ投げ捨てる。ファスナーを下ろして前をくつろげると、すぐにフィルの手が伸びてきた。彼の手が下着の上から熱を擦る。ぞくりとした電流が腰から背中へと駆け上がっていき、オギーはたまらず喉の奥で呻き声を上げる。 「誰かとこういうこと、したことある?」  フィルが尋ねてきた。 「さぁ……」刑務所のことは口が裂けても言えない。「たぶん、ない」 「そっか……」  フィルの手が下着の中に忍び込む。指はオギーのペニスに絡まり、触感を堪能するように側面を軽く擦っていた。「ちゃんと気持ちいい?」  オギーは頷きつつ、誤って暴発しないよう、一度だけ上司とジョシュのことを考えた。そして余裕を得ると、息を大きく吐き出し、ようやくフィルのものに触れる。下着の生地越しにでも熱が伝わり、指先が触れるとぴくんと跳ねて押し返してきた。 「あっ……はは、すぐ達っちゃいそう……かも」 「達ってくださいよ……見たいから……」  オギーは思い切ってフィルのペニスを下着から引きずり出した。己のペニスも抜き出すと、すかさずフィルの欲望に沿わせる。彼の手と一緒に握り込んで上下に動かすと、脈打つような、中毒を引き起こしかねない快楽が全身を駆け巡った。 「あ、あっ、オ、オギー……待って、ほんとに、これじゃすぐ……」 「俺だってもう、やばいです」 「ほ、本当に? 本当?」 「えぇ……だってほら、今、手の中にあるのは?」 「ええと……」 「言って」 「オ、オギーと、それと、ぼ、僕の……」  とろけた表情で律儀に答えるフィルは、あまりにもエロかった。(そう、最高にエロい!)刺激に悶える度に腰をくねらせ、背中を反らせ、吐き出す息には震えた声を混じらせる。  オギーは再び暴発を防ぐため、禁忌を破り、自らの唇に強く歯を立てた。  二人の手の動きは徐々に激しくなり、互いの先走りが潤滑油となって淫らな水音を立て始めていた。もうすぐ限界だと感じた時、オギーは、フィルの片手がまるで何かに操られているかのように、彼のセーターの胸元へ入り込んでいくのを見た。オギーは手の動きを止める。 「何してるんです?」 「あっ……ええと……ごめん」  フィルはさっと胸から手を引き抜き、いたずらを咎められた子どものように視線を泳がせた。じっと黙っていたが、こちらが辛抱強く見つめ続けていると渋々白状した。 「僕はその、ここが、ええと――」 「好きなんですね」 「ん、そう、好き……」  フィルが顔を真っ赤にして頷くのを見ると、オギーは止めていた手の動きを再開させ、もう片手を彼のセーターの下へと滑り込ませた。戸惑うフィルが身じろぎする中、指先が凝り固まった乳首を発見する。触れ方など知らなかったが、指の腹で擦ったり、時折きゅうと摘まんでみたりすると、無知への不安はすぐに消えた。 「う、んんっ、オギー……オギー……ッ」  フィルは震えながらオギーの身体に縋り、泣きそうな声で何度も名前を呼んできた。オギーの手の中で彼のペニスは固さを増し、微かな脈すら感じられるようになってくる。  オギーももう限界だった。乱暴な手つきで二人ぶんのペニスを扱き、快楽の階段を一気に駆け上がっていく。駄犬はもう舌を出して、はぁはぁと喘ぎながら走っていた。 「あっ、くそ――」  腹の底から熱いものが込み上げてきて、身体の中心で爆発が起こったように感じた。オギーは顔をフィルの首元に埋めて絶頂を迎える。腹筋がひくひくと痙攣し、それと同じリズムで断続的に吐き出した精液は二人の手を濡らし、白く汚した。痺れるような余韻の中、オギーはフィルを宙ぶらりんのままにしていることを思い出す。 「はぁ、フィル、達って」  必死に精力を掻き集め、再び手を上下に動かす。 「あっ、う、うん、もう出る、出るから――」  セーターの中で彼の乳首をさっと撫でた時、フィルの腰がびくびくと引き攣り、彼の身体は強張った。瞬間、オギーは手に彼の精液の熱さを感じた。自分より量は少ないようだ。  フィルは身体を反らし、胸を張るような体勢で震えていた。倒れまいとオギーのシャツをより強い力で掴みつつ、唇の隙間から「んっ、んっ」と断続的な喘ぎを漏らしている。  やがて二人で脱力し、互いにもたれるようにして抱き合った。嵐のような興奮の足跡から、オギーはどうしようもない愛おしさを見つけ出していた。 「ごめん、オギー。こんな、こんな僕でごめん……」  しかし突然、フィルが震えながら泣き出し た。 「どうしたんです?」  オギーは驚き、慌てて彼を見た。顔を真っ赤にして涙を流している。 「嫌だったでしょ、だってこんな……こんな、おじさんがさ、こんなふうに――」  オギーは堪らなくなって、フィルが言い終わるより先に彼を抱き締める。そのままソファへと倒れ込むと、自分と彼の呼吸リズムが一定になるまで、しばらくそうしておいた。  テレビではちょうど番組が途切れ、コマーシャルに入ったところだった。

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