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第7話

 翌朝ベッドで目覚めた時、フィルは何かと添い寝していることに気づく。それは人間ではなく、頭の中に居座る邪悪な痛み――つまりは二日酔いだと知る。  額をシーツに押しつけながら呻き、ようやく痛みを振り払って上体を起こした。そこで自分が寝間着ではなく、普段着のままであることに気づく。眼鏡なしの霞んだ視界で周囲を見回すと、カーテンの隙間から差し込む昼の光が、ベッド横のナイトテーブルまで伸びているのが見えた。テーブルには眼鏡とスマホを重しにして、スケッチブックの切れ端が一枚残されていた。フィルは眼鏡をかけ、紙片を持ち上げた。 『挨拶もなしに帰ってすみません。あなたはぐっすり眠り込んでいましたし、俺が眠るべき場所は徒歩数十秒のところにありますので。スケッチブックも持って帰りました。あと、煙草でフローリングをちょっと焦がしてしまって、すみませんでした』  そう走り書きしてある。これを書いてすぐ、オギーは部屋を出て行ったに違いない。  彼は昨夜のことをどう受け止めたのだろう。後悔するかと尋ねた時、彼は「わからない」と答えた。さらに四十過ぎの男が(しかも酔っ払い!)目の前で喘いで射精して――フィルの胸に不安の暗雲が垂れ込める。ふと紙片をくるりと裏返してみた。 『後悔はしていません。オギーより』  フィルは目を見開いた。己の飲酒史上、二日酔いの朝に蘇る記憶はたいてい悪いものだったが、この真昼の怠惰な光の中で蘇る記憶は、最悪の二日酔いによく効く。フィルは身体を小さく縮込ませると、置き手紙を握り締めたまま声もなく笑った。 「後悔してません、だってさ! ていうか、こういう時は電話番号も書いてよね」  若者のように浮かれているという自覚はあった。頭痛がして、顔が熱くて、でも心地良くて、身体のどこかを動かさずにはいられない。しかし、テーブルのスマホ画面が光り出した時、その発信者を見たフィルは元の四十八歳に逆戻りさせられた。補聴器を耳にはめ込むと、スマホを取り上げる。 『俺だ』低い声が脳にまで響いてきた。 「ネッド」腹の底が冷たく沈んだが、それが気取られぬよう、フィルは咳払いをして続けた。「どうしたの? 今日はお休み?」 『いいや。近くへ行く用ができた。通報があってな。夜はそっちへ行く』 「今夜?」  フィルは壁掛け時計を見上げる。頭痛も顔の火照りも身体の疼きも消え去った。 『都合悪いのか』 「ううん、そんなことないよ。じゃあ夕食の準備するから――」 『必要ない。俺は外で食べて行く』 「わ、わかった。じゃあ、また夕方に」  通話がぶつりと切れた瞬間、フィルはスマホを投げ出して溜息をついた。 「急がないと」  置き手紙をテーブルの引き出しに隠し、ベッドから抜け出す。まずは片づけだと意気込んでキッチンへ入ると、シンクの水切り籠には、皿が二枚と空になったサラダボウル、ワイングラスが一つが逆さまになって置かれていた。驚いてシンクに近づき、スポンジを掴んでみた。まだ微かに濡れている。 「あらら」  フィルは昨夜の痕跡を辿るように、ソファへ歩み寄った。置き手紙にあったフローリングの焦げは、わずかに痕はあるもののほとんど消されていた。オギーがここで四つん這いになって焦げ痕と戦っていたのだと想像すると、思わず笑みが零れた。フィルは何の気なしにソファの方へ視線を向ける。 「あ」 ソファのクッションに小さな染み――乾いた精液の痕だった。 「詰めが甘いぞ、オギーめ。ははは……見つかったらネッドに殺されるな……」  何気なく呟いたつもりだった。しかし、フィルはその言葉が孕む真実味に驚いて立ち尽くす。無意識に耳に、補聴器に触れた。 「あ、痛てて……」  脳を細い針で刺すような耳鳴りが始まった。ハウリングではない。フィルは補聴器の電源を切った。周囲の音が一気にくぐもり、水の中にいるような気分になる。あの夜から――この両耳の鼓膜が破れた瞬間から、フィルはずっと水中にいるかのように上手く身動きが取れずにいた。 「本当に、殺されるかもしれない」  耳鳴りが治まると、フィルは踵を返して寝室へと戻った。ベッドのそばに跪いて下へ手を差し入れ、隠していた小ぶりな段ボール箱を引っ張り出す。蓋を開け、梱包材に包まれた二台の小型カメラを取り上げた。一辺が五センチの立方体で、埋め込まれたレンズが黒々と輝いていた。 「一個は寝室に……」  フィルはカメラの二つのうち、一つはクローゼットの上に置いた。カメラが剥き出しにならないよう、適当な荷物や空箱を置いてみる。カメラは隠れたが、後で確認して位置調整しなければならないだろう。 「もう一個はどこの部屋に――」  そう呟いて寝室のドアへ向かいかけた時、ふいにぽちゃんという音がした。音のした方を振り返ると、窓際の金魚鉢でドクターが泳いでいた。彼が跳ねたのだろう。 「そうだね、ドクター。ごめん、もうお昼だもんね。すぐにご飯持ってくるから」  すると、その語尾を掻き消すようにドクターはまた跳ねた。 「うわ、どうしたの?」  また一歩近づいた時、フィルはドクターが床にこぼした水を踏みつけ、反射的に下を見た。窓から差し込む昼の光が、先日拭き取ったはずの染みを浮き上がらせていた。それは誰の血か、誰の汗か、誰の精液か――そこはネッドに犯された場所だ。 「君にもずいぶん、見苦しいものを見せてきたもんね」  フィルはそう言うと、持っていた小型カメラの電源を入れた。小さな赤ランプが点灯し、掌にわずかな暖かみを感じ始める。カメラを片手で持つと、腕をやや上げて角度を調節する。 「はーい、僕はフィリップ・ライト……」  フィルはそこまで言ってさっとカメラを下ろし、一旦電源を切ってからまたつけた。 「ええと、僕はフィリップ・ライトです。このビデオは僕とネッド・スファンスの関係を映したものです。今まで僕達は、とても不健康な関係を続けていました。僕の補聴器――」  フィルは顔を左右に向け、補聴器をレンズに映す。 「これは彼の暴力によって、つけざるを得なくなったものです」  事件――ネッドは事故だと言う――が、脳裏にフラッシュバックした。気道がきゅっと狭くなるのを感じたが、深呼吸してから話し出す。 「十年以上前、僕はネッドをかんかんに怒らせました。仕事の帰りだったと思います……雨が降る寒い夜で、店のネオンサインの光が水溜まりに反射していました。僕達は傘を差して歩道にいました。ネッドは僕の首根っこを何時も掴んでいるので、僕が傘からはみ出して濡れるということは滅多にありませんでした。傘の中で、ネッドは僕のショーパブでの仕事を辞めろと言ってきました。自分か稼ぐから仕事をするなと。おそらく、経済的に僕を支配したかったのでしょう。当時の僕はネッドのことを愛していましたが、テキサスの家を飛び出して、ようやく見つけた居場所を奪われたくはなくて……それで……」  フィルはそこで咳払いをし、乾いた唇を舐めてから続けた。 「断ると、ネッドは怒りました。すごくすごく怒りました。髪は逆立ち、真っ赤になった顔に青筋をくっきりと浮かび上がらせていました。彼は傘を放りだし、腕を振り上げ――しかし、拳の軌道がぶれて、拳は僕の耳へと飛んできた。脳みそのすぐ近くで爆発が起きたと思いました……次いでもう片耳も殴られて倒れて……以来、僕は彼に怯えながら生きてきました。もう二十年近くになるでしょうか」  そこでフィルはカメラを床に向けた。 「ここが最近、彼に犯された場所です。床に染みが見えるでしょう、あれが誰の血なのか、あるいは汗か精液なのかはわかりません。僕は彼に犯されて気を失ったので……だから……この状態がまさに、僕と彼との関係でした」  フィルは撮影を続けた。寝室だけでなく、他の部屋中を歩き回った。覚えている限り全ての屈辱、恐怖、痛み、虚しさを思い起こしながら、その現場を練り歩いていく。  いよいよ吐き気を感じ始めていた頃、フィルはキッチンへ来ていた。ふとシンクへ目をやると、乾き始めた皿やグラスが視界に入る。吐き気が少しだけ遠退いた気がした。 「僕は彼を訴えます。これはそのためのビデオです」  撮影開始からすでに一時間が経過していた。 「どうすればいいんだ……」  一晩中部屋の中を歩き回ったあげく、最終的にオギーは、バスルームの便器の上に落ち着いた。蓋の上にしばらく座っていて、ふと思い立つと洗面台の前に移動し、鏡で己の顔をじっと見つめる。それを朝まで繰り返していると、だんだんと鏡の向こうにいる自分が、まるで世紀の大事件を起こした他人のように見えてきた。 「どうすればいいんだ……」  何度鏡に問いかけても、答えが返ってくるはずがない。オギーは髪を掻きむしると、バスルームから出てリビングへ向かった。シャツとスラックスを脱いでソファへ投げる。そのまま部屋を横切って寝室へ入ると、引き出しから黒いパーカーと、履き慣れたジーンズを取り出して身につける。その間も頭がひどく痛んでいたし、どうしようもなく苛々していた。  リビングに戻ってから窓へ目をやると、最後に見た時にあったはずの星のない夜空が、今では昼の光に変わっていた。差し込む光が、テーブルのスケッチブックを照らしている。忌々しいほど神々しかった。  オギーは顔がぼうっと熱くなった。俺はフィルとキスをし、抱き締め、触り合い、そして一緒にやった――そしてさっと血の気が引く。これからどうすればいい? 「あああ、くそっ」  やけくそに唸った時、スケッチブックの隣に放っておいたスマホが震えだした。 「何だよ!」かっ攫うようにして取り上げ、勢いそのままに電話に出る。 『おいおい、落ち着けよ。俺だよ、グレッグ!』  戦いたようなグレッグの口調に、オギーははっと我に返った。 「あ、あぁ、悪い、グレッグ」 『何かあったのか?』 「いや、いいんだ。どうした?」 『あぁ、まぁ、大したことじゃないんだ。オンラインセラピーが一週間くらい停止するって報告だけ。ドクターの身内が病気で倒れたんだってよ』 「そりゃ気の毒に……」  オギーはソファに座り、初めて身体の力を抜いた。足を伸ばすと光の帯が膝に掛かる。 『お前、やっぱり戻らないのか?』 「そう言っただろ……」しかし、一抹の不安が胸をよぎった。「今のところはな」 『やっぱり何かあったんだろ。話してみろよ』 「言ったところで……」 『ここはセラピーじゃねぇよ。ただ俺は友達として話を聞きたいだけだ』  グレッグの声音は力強かった。  オギーはしばらく渋っていたが、やがて頭を抱えてソファに横たわると口を開いた。 「その、お前はさ、誰かを好きになったら、その時どうしてた?」  しばしの沈黙が流れる。 『……おいおいおい、オギー坊!』  グレッグの大声に、オギーの耳はびりびりと震える。堪らずスマホを耳から遠ざけたが、それでも彼の声ははっきりと聞こえてきた。 『たまげたな! まさかお前が人を好くとはな! あぁ、悪い意味で捉えないでくれよ。良い意味で驚いてるんだから! なぁ、そりゃどんな人だ? いい女か?』 「誰も俺が恋したとは言ってない」  オギーは早口に言いながら、熱を持った頬を擦る。「ただちょっと、気になっただけだ」 『そうかそうか、悪いな。じじぃ一人がはしゃいじまって』 「別に。で、どうなんだ?」 『そうだな。昔はどうしようもない俺だったが、今では妻がいる。彼女は俺の過去を知って受け止めてくれた……ありがたいことだよ。昔の俺はとにかく他人に腹を立てて、それを制御できなかったが、自分が誰かに受け入れられているとわかった瞬間、少しずつ発作が治まり始めたんだ。だから、誰かを大切にする余裕も生まれてくる』 「今の奥さんを好きになった時、あんたはどうしたんだ?」  気の遠くなるような努力とか、怒りを必死に抑えるために何かしたとか、オギーはそんな答えを予想していた――おそらく武勇伝のように語ってくるだろうとも予想して。  しかし、グレッグの声は一段と小さくなり、それは耳に優しい音量にまで下がった。 『まず不安になった。とんでもない不安があった。いつか俺は、この人を傷つけてしまうかもしれないとな』 「じゃあ、その不安をなくしたのか?」 『不安はなくならないぞ、オギー坊。俺達の過去が消えないのと同じだ』 「じゃあ、何でも受け入れてくれる女神を探せってことか?」 『やけになるな、オギー坊』  この時グレッグは初めて、五十代の男らしい、重々しげな声で言った。その響きにオギーは黙り込み、大人しく彼の次の言葉を待つことにした。  やがて彼は続ける。 『俺達はな、自分の悲しみに気づかなきゃならないんだ』 「悲しみ?」 『そうさ。これは俺の持論だが……例えば、人に不当な扱いをされて腹が立ったっていうのは、別の言い方もできるんだ。不当な扱いをされて悲しくなった……つまり俺達は、感じた悲しみの上に怒りを乗せちまうもんだから、自分の感情の根っこが見えないんだよ』 「感情の根っこ……」  オギーはスマホを耳に当てたまま、ごろりと寝返りを打った。天井を見つめ、その言葉について少し考えてみる。怒りの奥底にある感情――そんなもの存在するのだろうか?  オギーが黙って考えている間、グレッグも同じく沈黙を守っていた。 「……俺はずっと悲しかったのか?」  そう呟いた時、その語尾に重なるように玄関のチャイムが金切り声を上げた。オギーははっと我に返り、ソファから身を起こした。彼かもしれない、という期待がそうさせていた。 「あぁ、悪い、グレッグ。来客だ」 『幸先いいな。じゃ、また連絡くれよ――あぁっ、待て! 一つだけ!』 「何だよ」 『お前が気になるっていう奴、どんな感じなんだ?』 「……すげぇ笑顔がいい。あと耳が悪いらしい」  再びチャイムが鳴った。  スマホの向こうで興奮するグレッグを無視し、オギーは通話を切ると、急いでスマホをポケットにねじ込んだ。玄関に向かう最中、一瞬だけバスルームの扉の前を横切ったが、そこで自分がまだシャワーを浴びていないことに気づく。歩みに躊躇いが生まれたが、立ち止まらせるほどではなかった。ドアノブに手をかけ、覗き穴から確認もせずに扉を引き開ける。  瞬間、オギーの心臓は止まりかけた。 「元気だったか? オギー・ヘイスティングズ」  オギーは驚きで何も言えずにいた。  警官の制服を着た大柄の来訪者は、その様子を鼻で笑い、胸元のバッジを指で叩いた。 「警官のネッド・スファンスだ。昨日、通報を受けたんだよ。騒音のことでね」 「何のことかさっぱり……」  昨日はフィルの部屋に行っていたのだ。そもそもオギーは、この男が警官だということが信じられずにいた。  するとネッドは大きく一歩踏み出し、オギーの部屋の廊下にごつんとブーツの音を大きく響かせた。強引に部屋に入って来るとは思っていなかったオギーは、彼の巨体を避けきれず、身体をわずかに後ろへ仰け反らせる。ネッドは前を横切って部屋の奥へと進んで行った。 「殺伐とした部屋だな」  ネッドはわざと大声でそう言い、部屋を見渡す。 「勝手に部屋に入る権利なんてあるのかよ」  オギーはようやくネッドの背中を睨みつけた。壁から背中を離すと、身体は戦闘態勢に入ったかのように、やや前屈みになった。腹の底がぐらぐらと熱くなり始める。  するとネッドはこちらを振り返りもせず、一度鼻をすんと啜ってから言った。 「お前を知ってるよ、オギー・ヘイスティングズ」 「いちいちフルネームで呼ばなくていい」 「じゃあ、あそこの呼び方に倣おうか――囚人番号828番!」  彼の胴間声が部屋中に響き渡った瞬間、オギーの身体は硬直した。それは声に驚いたからではない。一年間、刷り込まれた偽りの本能のせいだ。  ネッドは背中越しでも、こちらの狼狽えた様子を感じ取っているようだ。彼は言った。 「父親を激しい殴打で半殺しにし、母親の通報で逮捕された青年……俺は覚えていたわけじゃない。一応、通報された者の居場所がわかれば、その経歴を調べるんでね。たまたまデーターベースでヒットしたという話だ」 「俺だって、お前を知ってるぞ」  オギーはどうしても彼を動揺させたかった。己の動揺を少しでも軽くするために。 「先週だ。向かいのアパートから出てきた奴だろ。突然俺に突っかかってきた。警官がそんなことしてていいのかよ?」 「だから何だ? あそこで会っただけだろう」 「それだけでも、お前の性根が腐ってるってことくらいわかる」 「何だって?」突然、ネッドが笑い出した。「性根が腐ってるのはどっちだ? え?」  ネッドが振り返る。部屋の空気が彼の動きに合わせてぐわんと歪んだ気がした。オギーはネッドが称えていた笑みに怒りを――そして言いようのない脅威を感じた。 「あんたこそ、俺の何を知ってる……」 「ほとんど全てさ、ヘイスティングズ」  ネッドは部屋の隅にある壊れかけの椅子を指差した。「血は争えないな。父親の暴力を受けてきたお前は、その血を継いで同じようなことをしている。ガキの頃から癇癪を起こす癖があり、そのせいで小学校を留年。ようやく卒業したと思ったら、今度は喧嘩仲間を作って、地元でひどく暴れていたらしいじゃないか。補導歴も出てきたぞ」  オギーは黙っていたが、身体は蒸気を詰め込んだ風船なみに膨らんでいた。頭の奥からは「あのくそ野郎の喉に掴みかかれ!」という号令が出ている。オギーは震える両手を背中の後ろに回し、右手の爪を左手の甲に強く突き立てた。 「悲しい人生だよな」  ネッドは溜め息混じりに言った。 「悲しいだと?」 「暴力から逃れようとして……助かりたくて元凶を叩いたのに、結果、助けたはずの母親に通報されて、逮捕され、投獄さ。セラピーには行ったようだが、まだ癇癪癖は抜けてないみたいだな。この部屋を見ればわかるよ、家具が少なすぎる」  オギーは部屋の構図を頭に浮かべた。家具は必要最低限のものしかない。確かに、殺伐とした部屋だった。ダイニングの椅子は壊れたままだし、ベッドすらない。いつだったか覚えていないが、怒りに任せて壊してしまった。今はソファで寝ている。 「お前の問題はお前の遺伝子にある。どうしようもないってことだ。悲しいことだろ?」 「俺は悲しくなんかない。悲しいと思ったことなんて一度もない」  頭の中で血管が脈打っていた。怒りの熱は全身の筋肉を戦闘態勢にさせ、肩はわずかに上がり、背中の筋肉は横に広がって、肩甲骨はぐっと皮膚を突き上げる。 「おいおい、怒るなよ」  ネッドは両手を肩の高さまで上げて言ったが、その顔には嘲笑が貼りついていた。 「努力は認めてやるさ。この近辺で暴力事件があったとは聞いたことがないからな」 「今日がその日かもしれないぞ」 「俺が誰だかわかった上で、そんな口を聞いているんだよな?」  ネッドはそう言うと背を向け、再び部屋の中に視線を巡らせた。彼の視線は窓辺のソファへと移動していく。テーブル上のスケッチブックに目を留めたのは明白だった。 「やめろ!」  駆け出したが、ネッドがスケッチブックを掴む方が早かった。オギーは彼と一定の距離を保ったまま立ち止まる。彼を殴って奪い取ることもできたが、スケッチブックの存在が――その中にいる存在が――それを咎めているような気がした。  ネッドがページを開く。 「ふん、これも療法の一つか?」  しばらく紙が擦れる音がしばらく続いた。オギーはネッドの手元にじっと視線を向けている。もしその手が数センチでもイカれた動きをして、「彼の顔」に白い稲妻模様をつけようものなら、迷いなく背後から襲う気でいた。  しかし、ネッドは至極丁寧にページを捲っていた。こちらに背を向けているので、彼の顔は見えないが、頬が引き上がっているようには見えなかった。石像のように硬い表情でいる。 「知り合いか?」  彼は背を向けたまま問いかけてきた。 「だとしたら何だよ。そいつも一緒にしょっ引くのか?」  そう聞くと、ネッドは笑い声を上げた。彼はスケッチブックをテーブルに放る。オギーは咎めようと一歩踏み出したが、振り返ったネッドと視線が合って踏みとどまる。 「よく描けてるな」  オギーはその場に凍りつく。恐ろしい顔だった。嘲笑も苛立ちもない、笑っているのに、その額には青筋がくっきりと浮き出ている。おそらく五十代――埋まることのないこの距離――そんな男の顔に浮かんだこの影は、オギーに本能的な恐怖を抱かせた。  やがてネッドは、オギーの前を横切って玄関へと向かっていく。オギーは身体の呪縛を解くと、彼がドアノブに手をかけたのと同時に声をかけた。 「用はそれだけかよ。前科者の生活を覗きたくてきただけか? 悪趣味にもほどがあるぞ」 「通報は本当にあったんだ」  ネッドは扉を開け、最後にこちらを振り返った。あの恐ろしさは影を潜めているが、どこか心ここにあらずといった表情だった。オギーは彼の考えていることが読めず、ただただ、刺激しないように黙っていることしかできなかった。怒りを爆発させたとしても、彼には太刀打ちできないと本能が語っている。恐怖にも怒りにも似た熱が身体を支配していた。 「今回は注意だけだ。次はない」  扉が閉まる。しかし、ネッドが出て行っても、部屋には不穏な空気の残滓があった。オギーはそれにいぶり出されるように部屋から飛び出し、廊下に立って辺りを見渡す。すでにネッドの姿はなく、薄暗い廊下が左右に伸びているだけだった。  オギーは溜息をついてから隣室へ向かうと、静かに扉をノックした。

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