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第8話

 昼の光はけだるさを孕み、少しずつ夕方の閃光へ変わりつつあった。  フィルはソファに座っていた。普段ならゆっくり過ぎ去っていく時間を心地良く思うのだが、今日はネッドという名前の時限爆弾の爆発を待っているようだった。 「もう疲れたな……」  眼鏡を外し、天井を仰いで目を閉じた。昼からの撮影で、すでに身体も心も疲れ切っている。途中、一体何度、カメラの電源を落とそうと考えたことか。位置を細かく調整し、ようやくベストな場所に設置したカメラも回収しようと考えた。  それでも踏みとどまれたのはオギーのおかげだ、とフィルは思う。彼は嵐の中でようやく掴んだ藁――しかし、その藁に抱いている気持ちが何なのか、フィル自身よくわかっていなかった。愛なのか、苦しみから逃げたいがための執着心なのか。 「緊張してるんだ、そりゃそうだよ」  フィルは呟くとソファから背中を離し、今度は前屈みになって頭を抱えた。もうすぐ夜になる。そうしたらネッドもやって来る。重たすぎるディナーを片付ける前に、デザートへと手を伸ばした代償は大きかった。 「ファックされる準備はできてる?」  くぐもった自分の声をふっと鼻で笑い、ソファから立ち上がった。壁掛け時計を見ると、午後四時三〇分を指している。最後にカメラの位置をチェックしておこう。撮影ミスでリテイクなんて笑えない。  その時、玄関扉ががちゃんと音が鳴った。フィルの息が止まる。 「フィリップ! フィリップ・ライト!」  空気を揺らす怒鳴り声が、叩きつけるように開かれた扉の音を掻き消した。  フィルは驚き、青ざめる。どうして彼はこんなにも怒っている? 何が何だかわからず思わず数歩後退りしたが、足音が近づいてくるのに気づいて歩みを止める。部屋全体が震えているように感じた。  制服姿のネッドがリビングに現れる。  彼の顔を見た途端、足から力が抜けてソファにへたり込んでしまった。ネッドはこちらを見下ろしたまま黙っている。しかしフィルは自分の考えを改めた。いや、彼は何も言えないのだ。怒りで喉が詰まっているから。顔は真っ赤で、額には青筋が浮き出ているし、髪は逆立っている。フィルの聴力を奪ったあの時と、全く同じ顔をしている。 「フィル、説明してみろ」彼が迫ってきた。 「説明って?」  首を傾げ、目を見開き、眉尻を下げ、僕は何も知らないよという顔を作る。  しかし、ネッドの表情は変わらなかった。彼は目の前までやって来ると、両手でフィルの肩を掴む。フィルがあ、と思った時にはもう遅く、彼の膝が胸に鋭く飛び込んできた。 「あぁっ!」  息が止まり、衝撃で首ががくんと揺れる。思わず前屈みになると、もう一度蹴りが入った。今度はみぞおちに入り、フィルは耐えきれず胃液を吐き出した。  ネッドは間髪入れず、今度は首の後ろを思い切り掴んできた。そのまま上向かされたせいで、口の中に残っていた胃液が逆流し、喉が焼けつくように痛む。フィルは噎せ返るも何とか息をしつつ、不釣り合いなほど落ち着いた声で彼に語りかけてみる。 「ねぇ、一体どうしたの?」 「向かいのアパートの住人で、知ってる奴がいるか?」 「ううん、いないよ」  そう答えると、ネッドは焦れったそうに唸った。首を掴む手にぐっと力がこもる。 「黒髪で二十代半ばの男。ちょうど、この部屋の真向かいに住んでいる。オギー・ヘイスティングズって男に心当たりがないかと聞いているんだ!」 「知らないよ。その人がどうしたの?」 「お前の絵を描いたスケッチブックを持っていたんだ」 「僕を? 本当に僕だったの?」 「あぁ、間違いない」  首の後ろからぎりぎりと音が聞こえてくる。フィルは身体を反らして呻いたが、視線だけは決して彼から逸らさずにいた。この嘘を突き通さなければならない、何があっても。  すると、疑念に塗れたネッドの目と視線が合う。彼はふんと鼻を鳴らして言った。 「嘘をつく人間は視線を逸らすと言うが、実は嘘をついていないというアピールのため、こっちをじっと見つめるケースもある。お前はどっちだ? 俺に嘘をついているのか! この俺に!」  補聴器のハウリングで耳の奥が痛む。ネッドは今にも喉元へ噛みつかんばかりに怒鳴っている。首に爪が食い込んでくる。うなじの皮膚が裂けて出血していると思う。もう嫌だ。限界だ。  フィルは必死に両手を伸ばし、ネッドの顔を包んだ。手が払い除けられることはなかった。彼の顔は驚くほど熱く、ひどく強張っている――フィルにはわかっていた。 「……不安にさせてごめん。きっとその人は、窓辺の僕を見ていただけだよ。ほら、僕の寝室には窓があるし、それは向かいのアパートの方を向いてるからね。それだけのことだよ。大したことじゃない」  言いながら、自分の首がさらに締めつけられていくのを感じた。締めているのはネッドの手だけではない。この嘘を突き通してやるという自分の固い決意と、罪悪感だ。 「だから落ち着いて。大丈夫だよ、ネッド」 「嘘じゃないんだな?」  フィルは微笑む。内心では泣き出したかったし、「別れよう」と切り出したかった。しかしオギーの存在を彼に知られてしまった以上、ここで下手に動けばオギーに危険が及ぶ。 「嘘じゃないんだな……」  ネッドは徐々に落ち着きを取り戻し始める。彼は少し俯いて、血走っていた目を影の中へしまった。荒かった呼吸は穏やかになりつつある。フィルの首を掴んでいた手が離れていく。  彼は床に座り込み、両手は床にだらりと垂らした。  フィルはネッドを見下ろし、聞こえないよう溜息をつく。知っている。怒りが過ぎ去った後、彼が強烈な孤独と恐怖に襲われることを。 「お前には俺しかいない。俺しかいないんだぞ……」  俯きながらネッドが言う。その声には孤独と恐怖、恨みが籠もっているようだった。  フィルは何も言わなかったが、彼の声音に怒りの鱗片がないか、耳だけはそば立てておく。 「それにあいつは――」  ネッドが言葉を続けようとした時、彼の肩につけられた無線機がじじっと音を上げた。すかさず男の声が飛び出してくる。 『おい、ネッド、そろそろ戻って来ないとヤバいぞ。さっき新しい通報があったんだ。ゴミ捨て場で暴れてる奴らがいるらしい。ここからそう遠くないから行くぞ!』  ネッドは無線機のボタンを押し、低い声で「わかった」とだけ言って通信を切った。彼はどんよりと濁った目でこちらを見た後、ゆらりと立ち上がる。 「今夜は泊まれない」 「わかった……」  彼を送り出した後、フィルはリビングに戻るとソファに倒れ込んだ。胸元に染みついて乾いた胃液が、酸っぱい匂いを漂わせている。 「着替えなくちゃ……」  フィルは顔を上げ、ソファ前のテレビの方へと視線を向ける。テレビの後ろに仕込んでおいたカメラが、先程の出来事を記録しているはずだった。小さな赤ランプが点灯しているのが見える。フィルはそれを瞬きもせず見つめた。  ふと、心の中で思いも寄らぬ感情が生まれた。 (駄目だ、そんなこと考えちゃいけない。でも――)  フィルは身体を引きずるようにしてテレビ前まで来ると、裏からカメラを取り上げて掌に乗せる。相変わらず無機質な黒いカメラだったが、今やこの中に入っているのは、ネッドを訴える時に必要な証拠だった。 (でも……)  彼は怒りにばかりに支配されていたわけではない――孤独への病的な恐怖が根底にある。そんな彼を悪役に仕立て上げることで、自分の救いの道は拓かれるのだろうか。  フィルはカメラを掌で転がして底の面を上に向ける。裏にはペン先が通るくらいの小さな穴があり、そこには白い印字で『リセット』とあった。 唇を強く噛み、息を詰める。  いつしか窓の外では、オレンジの閃光が街を染め上げていた。

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