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第9話

 隣人への謝罪を終えた後(謝罪を受け入れてくれた隣人の男は、オギーの顔を見て同情めいた顔をしていた)、オギーはフィルのアパートへと向かっていた。  胸騒ぎがする。部屋にやってきた警官ネッド・スファンスが、フィルの絵を見た時の変化は明らかなものだった。彼を知っているのだろうか。「よく描けてるな」という言葉が頭から離れずにいる。  すでに日は落ちかけており、紫がかった東の空には小さな星、西の空では太陽が最後の閃光を放っていた。冷たい空気が、帽子を被り忘れたオギーの黒髪を揺らす。  もうすぐ夜が来る。  オギーは道路を横切ってアパートへ入ると、階段を駆け上がる。もしかしたら、またスファンスがベルトのバックルをがちゃがちゃさせながら降りてくるかもしれない――しかし、今回は彼と遭遇することはなかった。四階の廊下に辿り着くと、オギーは呼吸を整えながら廊下へ視線を向ける。スファンスのような巨漢はいなかったが、廊下の奥にある四〇二号室の前に人影があった。 「フィル!」  反射的に叫んでいた。オギーは小走りで彼のもとへ駆け寄る。  声に気づいて振り返ったフィルは、驚いた表情でこちらを見ていた。オギーは彼のもとへ駆けながら、その表情をそれとなく観察してみる。何か変わったことはないか―― 「やぁ、どうしたの? 部屋に忘れ物でもした?」  そう言うフィルの微笑みには、不穏な陰など微塵も見受けられなかった。しかし、オギーは彼の顔から目を反らせない。本当に何も無かったのか? 自分が気づいていないのか、またはフィルのポーカーフェイスが上手すぎるのか――しかし、そのように疑う自分が愚かに思えてくるほどの笑顔だった。オギーは怖じ気づき、フィルの目の前で立ち止まる。 「ん?」フィルはこちらの顔を覗き込みながら首を傾げている。 「その、ちょっとあなたの様子を見たくて」 「ふふ、何それ。ちょっと離れただけで、もう僕のことが心配になっちゃった?」 「そういうわけじゃ……」オギーは少し考えて答えを改めた。「まぁ、そんなな感じです」 「あはは、オギーったら」  フィルの笑いにつられてオギーもぎこちなく笑ったが、その笑いは徐々に小さく掠れ、やがては消えていった。いつしかフィルの笑い声も消えている。沈黙が流れるなか、居心地の悪くなったオギーは唇を噛む。自分がここへ来た理由を彼に伝えるべきか迷った。 「スファンスっていう警官がここへ来ませんでしたか? 彼は俺が父親を半殺しにして刑務所に入ったことを知っています。だから俺とあなたが一緒にいるのが気に食わないみたいなんですよ。凶暴な男に見えました。あなたのことも知っているみたいだったから、もしかしたら、何かされたのかと思って来てみたんですけど……」 (なんて言えるわけない)  オギーは改めてフィルの様子を窺った。彼の瞳孔は少し開いており、どこか疲れているようだ。視線が合うと、彼はさっと目を反らした。 「フィル?」  名を呼びかけた時、頭上の蛍光灯がぴりぴりと神経質な音を立て、何度か明滅した。 「部屋においでよ」ふと、フィルが呟くように言った。「来て」  フィルはこちらを見てきた。その視線は熱っぽく、強い焦燥の色がある。  オギーの心臓が飛び跳ねた。心に巣くっていた彼への心配と、突然現れた若い火種が胸の内でぶつかり合う。しかしその決着がつく前に、フィルに手を取られ、部屋の中へと引っ張り込まれた。あまりに性急な仕草に声も上げられない。連れ込まれた部屋は、以前とは打って変わって暗く、リビングの窓からは夜の到来を予告する紫の影が忍び込んできている。 「こっち、おいで」  リビングを横切り、寝室へと引っ張られていく。入った寝室も暗かったが、窓から入ってくる街灯の頼りない光がベッドを照らしていた。ベッドの前まで来ると、そこでフィルに胸を押されて背中からベッドへと倒された。スプリングが軋み、シーツからフィルの匂いが濃く立ち上る。その匂いが、オギーの心の火種を大きくさせた。 「な、なぁ、フィル?」  倒れたオギーは、ベッドの前に立つフィルの影を見上げる。するとかしゃんと音がし、次いでばさばさと布が床に落ちる音がする。一瞬だけ、車のヘッドライトが一筋、部屋に入ってきた。オギーが見たのは、すでに下着だけになったフィルだった。再び闇が戻ってきた時、彼の影はベッドへ膝をかけ、四つん這いになってこちらに這い寄ってきた。 「やめたい?」  彼が覆い被さってきて、顔が触れそうな距離まで近づいてきた。尋ねるその声は低く震えていて、どこか焦っているような感じだとオギーは思った。 「いえ、別に」 「そう……」  フィルは吐息のように応じると、静かにキスを落としてきた。オギーは口内に侵入してきた彼の舌を受け入れつつ、自らの舌もぎこちなく絡ませる。濡れた彼の口内は火傷しそうなほど熱く、たちまちキスに夢中になってしまった。それまで抱いていた疑問や違和感が消えていく。すると、先に酸欠になったフィルが自ら唇を離した。 「まって、オギー、息できない……」  苦しげな声だったが、大人しく待ってはいられなかった。オギーはフィルの腰へと手を伸ばし、下着に包まれた彼の丸い尻を撫でる。瞬間、フィルの身体が強張ったのを感じた。今度は指全体を使って、柔らかい肉をぎゅっと掴んで揉む。 「んあっ」 「今日はここ、触ってもいいんですよね」 「うん……いいよ、いいから、だから……」  フィルは腰を揺らし、下着の中で膨らんだペニスをオギーの股間へ擦りつけた。 「だからオギーも、脱いで?」  あぁ、もうどうだっていい! すでにオギーの欲望も硬く形を成し、いい加減に解放してくれとズボンを突き上げていた。フィルの甘い要望を拒む理由などない。とは言っても、体内では欲望と緊張とが拮抗しており、それは手の震えという症状として現れた。するりと下着を脱いだフィルとは裏腹に、オギーはズボンも下着も脱ぎきれず、左足首に引っかけたまま、フィルをベッドに組み敷いた。 「ちょっと待ってて」  フィルは身体を捻ると、ナイトスタンドの引き出しからチューブ入りの潤滑剤と、コンドームを取り出した。ゴムを枕元へ放った後、彼は慣れた手つきでキャップを開けて、中身を数センチだけ指の上に絞り出す。チューブも同じように枕元へと放った後、フィルは片足の膝を胸元まで上げて片手で抱くと、緊張を緩和させるかのように息を吐いた。そして潤滑油の乗った指を自らの下肢へと伸ばしていく。  オギーは少し身体を浮かせ、彼の指先の行方を見守った。 「あぁっ……ん、ふっ」  フィルは息を詰めながら、ぬらつく指を自身に飲み込ませていく。ぬちゃっと粘着質な音を立てながら入り口の辺りをほぐし、それから何度か出し入れを繰り返した。  オギーは熱で霞む頭で、それを眺めていた。これまで誰かとこんなことしたことないのに、これから何をすべきなのかがなんとなくわかる。獣じみた本能が、未経験という溝を埋めていくようだ。それは危険な予感がしたが、それすら興奮の炎へと放られていく。  やがてフィルはぶるっと震えながら指を引き抜くと、息を荒げながらオギーを見上げてきた。 「たぶん大丈夫、もういいよ……早く」  オギーはフィルからゴムを受け取る。震える手で何とかペニスに被せる。フィルの開いた足の間に膝をつき、硬く張り詰めたペニスの根元を握って、先端を彼の中へと押し込めていく。内側のあまりの熱さと、きつさに眩暈がし、思わず呻き声を漏らした。  同時にそれはフィルの呻きと重なり、濁った二重演奏が部屋の中で大きく響いた。  オギーは最後の理性を掻き集め、前髪の隙間から彼の表情を窺う。 「大丈夫ですか?」  小さく頷くフィルの眉間には皺があった。オギーはペースを落とし、彼の顔を見つめながらゆっくりと差し入れていく。内壁の熱さや、艶めかしい肉の蠢きに呻きつつも、なけなしの理性を最後まで働かせる。彼を傷つけたくない一心だった。  やがてほとんど飲み込まれた時、オギーとフィルは揃って溜息をついた。 「……嫌だったらすぐ言ってください。絶対に」 「うん」は、ほとんど、「ん……」という嬌声に近かった。  オギーがおそるおそる動きだすと、フィルは起ち上がった自分のペニスを握り込み、腰の動きに合わせてゆるゆると扱き始めた。その度に内壁ががきゅ、きゅとせっつくように収縮する。絞られるようなその刺激に堪らず、オギーは少しだけ腰の動きを速めた。肌がぶつかって乾いた音が鳴り、それに驚いたようなフィルの嬌声が混じる。 「あぁ、だめ、もう――」  瞬間、フィルは顔を仰け反らせて達した。身体全体がベッドの上でびくびくと跳ね、彼の手の中で弾けた白濁の飛沫が、その胸に飛び散っていく。  身体の中では肉壁が、オギーのそれを食い千切らんばかりに締めつけていた。オギーは唇を噛んで、込み上げてくるオルガズムを押し殺す。まだ終わるには惜しすぎた。締めつけが緩み始めるまで待つと、息を吐きながらずるりと自身を引き抜く。 「んんっ、まって、いやだよ」肩で息をするフィルが泣きそうな声を上げる。 「ん?」 「なんで、ぬくの……もういやだ? ぼくがいったから……」 「いいえ。一回出したから、また同じ体勢でさせるのは、少し辛いかと思って」  オギーはフィルをうつ伏せにさせる。しかし実のところ、彼を気遣う言葉の九〇パーセントは嘘っぱちで、ほとんどが動物的な性衝動が促したことだった。それを自覚していたし、だからこそ、どうやって人間的な(そう、紳士的な)対応をするかを考えたかった。  するとうつ伏せになっていたフィルが、肩越しにこちらを振り返る。 「じゃあ、はやく、もう一回来て……」彼は腰を高く上げ、ひくつくそこを曝け出す。 「……あんたって人は」  オギーは膝立ちになると、フィルの腰を掴んで強く引き寄せる。まだ硬いペニスを穴にあてがうと、そこは怖じけることなく、むしろ物欲しそうに吸いついてきた。理性の限界と共に、オギーは勢いよく自身を突き入れる。  フィルは悲鳴じみた嬌声を上げた後、再び与えられた熱に満足したように、「はぁ……」と深い溜息を漏らした。 「あぁ、くそ、すげ……」  甘い熱に包まれたオギーは、気づけば夢中になって激しく突き上げていた。フィルの嬌声とベッドの軋みを聞く。少し疲れて動きを止めると、身体を前へ倒し、フィルを背中から抱き締めた。片手を身体とシーツの間に滑り込ませ、石のように硬くなった乳首を探し当てる。 「ここ、好きでしたよね」  フィルは小さく呻き、シーツに顔を埋めた。 オギーは首を伸ばし、フィルのうなじにキスする。好奇心に駆られてそこを舌で舐めてみると、汗をかいていて塩気があった。今度は口を大きく開けてもう一度舐め――ほとんど無意識に――動物的な衝動のままそこへ歯を立てていた。 「は、あぁっ……オ、オギーっ」  フィルが頭を仰け反らせた。 「わ、ごめんっ」口内に微かに鉄の味が残った。「すいません、調子に乗った……」  後悔が興奮の熱を削いでいく。すると、フィルが肩越しにこちらを振り返った。 「いいよ、噛んで」 「え?」 「いいよ、オギー、お願い……噛んでってば」  フィルの肉壁がオギーのペニスを締めつける。それは懇願するような、誘惑するような、切ない締めつけだった。オギーの欲望は強引に熱を取り戻したが、先程のような興奮は戻らない。昔のことを思い出してしまいそうだった――相手の機嫌を損なわぬよう、自ら苦痛を受け入れるような声音――快楽のためのお強請りではないように感じた。 「くそ……」  オギーは再び腰を激しく動かした。そしてフィルの中で果てる頃、彼の悲鳴のような嬌声に耳を傾けながら、再びそのうなじへと歯を埋めていくのだった。

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