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第10話

「起きろ! とうとう裏切ったな、フィル!」  ネッドの声にフィルは飛び起きたが、彼はそこにいなかった。視力の弱い眼を必死に動かし、ここが暗い寝室で、ベッドの中は温かく、隣には上裸で眠るオギーがいることを確認する。フィルはほっと息をつくも、裸の胸の中では心臓が冷たい鼓動を打っていた。上体を起こしてナイトスタンドの照明をつけ、その明かりが悪夢の残滓が消してくれるよう願う。そして再び身体を横たえようとした時、うなじの辺りがぴりっと痛んだ。 「いてて」  手をやると、絆創膏のつるつるとした感触がした。フィルは朧気な記憶を辿り、それが行為の終わった後でオギーが貼ってくれたものだと思い出す。確かベッドの上に二人で座っていて、フィルの後ろにオギーが正座していたはずだった。 「すいません、本当に俺、調子に乗っちゃって……痛いですよね」 「いいの、いいの」フィルは頬を熱くしながら笑った。「僕からのお強請りだったんだよ?」  痛いのが好きなわけじゃない。ネッドに首を掴まれた痛みを、彼からの痛みにすり替えたかっただけだ。今日、この首に触れたのは彼だけだと思い込みたかった。 (……なんて言えないよね。ていうか、我ながらかなりセンチメンタルな考えだな)  そう考えていると、オギーが絆創膏越しにそっとキスをしたのがわかった。振り返ると、申し訳なさそうに眉尻を下げたオギーの顔が見えた。しょぼんとした彼の顔が可笑しく、愛しかったこと、そしてベッドに横たわり、背後から抱き締められながら目を閉じたのが最後の記憶だった。この甘い記憶に永遠に縋っていられたら、どんなに幸せだろうか。  フィルはベッドに横たわらず、座って膝を抱きかかえた。光を見つめながらじっと考える。考えなければならない、これからのことを。このままではいけない。だが、どうすればいい? すでにネッドはオギーに接触している。オギーは、自分とネッドが関係を持っていることを知っているのだろうか。こちらから正直に打ち明けるべきなのかもしれない。実は相手がいる。しかし、その相手とは別れたいと思っている。ひどい支配を受けてきた。君は救いの存在で、どうしてもそばにいて欲しかった。だから黙っていた。許して欲しい。  だが、ネッドはどうなる?  フィルは膝に顔を埋めた。うなじの傷がずきりと痛む。  別れたいと言うべきだ。きっぱりと。君には僕じゃない、誰かの助けが必要だと言ってあげないといけない。もっと健全な関係を持つべきだと言わないといけない。 「でも、僕がうじうじしていたせいで……」  彼がオギーの存在を知っていなければ、別れ話を切り出しても、実害を受けるのはフィル一人だけだっただろう。しかし今、彼はオギーを知っている。フィルとオギーの関係にも勘づき始めている。別れ話を切り出せば、彼の狂気の矛先はオギーにも向くだろう。 「僕がもっと早く動き出していれば……」  眼前のデザートに飛びつき、厄介な夕食を片付けずにいたつけが回ってきた。自分とオギー、二人同時に守る術はもうない。それもこれも全て―― 「……フィル?」  声に驚いて振り向くと、オギーが身体を起こしているところだった。  フィルは抱えていた膝を慌てて伸ばし、咄嗟に笑顔を取り繕った。 「ごめんね。起こしちゃった?」 「ずっと起きてましたよ」  彼はまだ眠気を振り解けていないようだったが、その眼はしっかりとフィルを捕えている。「あなたがうなされていたから」 「うなされてた? 僕が?」  笑顔が崩れかけるが、何とか持ち直す。「まぁこの歳になると、寝付きが悪くなるからね。それに久々にあんな激しい運動したし――」 「悪夢を見ているようでした」  オギーはこちらを真っ直ぐに見据える。フィルはその鋭い視線から逃れることができず、干上がっていく口内で何とか生唾を飲み下した。どうしようもなく黙っていると、ふいにオギーがその視線の鋭さを和らげた。 「夕方、あなたのことが心配で来たのは本当です。でも別の理由がありました」 「なに?」その先の言葉をフィルは予想した――その予想が外れて欲しいと願いながら。 「スファンスっていう男を知ってますか? ネッド・スファンス。警官です」 「ははは、オギーったら。知らない男の名前を出して、僕を嫉妬させるつもり?」 「真剣に聞いてるんです」オギーの目に鋭さが戻ったが、彼は自らそれを制するように頭を振った。「彼に会ったんです。奴はあなたを知っていました。もしかしたら、彼に何かされているんじゃないかと」 「……君には関係ないことだよ」 「やっぱり何かされているんですね」  オギーの目つきがいっそう鋭くなった。  あぁ、なんてことだ。上手い嘘を言えなかった自分を恨みつつ、フィルはさっとベッドから足を振り下ろした。床に散らばった服を掻き集めると、手早く身につけていく。落ちていた眼鏡も拾い上げてさっと掛けた。 「大丈夫だよ、心配しないで。これは僕が片付けないといけない問題なんだ。君を巻き込みたくなかった。僕がもっと早く彼を別れていれば、こんなことにはなっていなかったね」 「あなたが彼と? まさか!」 「本当だよ。僕が悪いんだ。だらしない奴だろ」 「そんなこと……フィル――」  急いで寝室の扉へと向かっていた時、背後でベッドが軋み、オギーもベッドから降りたのがわかった。裸足の足がフローリングの床についてぺたっと音を立てる。その音はどんどん近づいてくる。フィルはどうすればいいかわからなかった。逃げるように扉へと手を伸ばしたが、その手を背後から強く掴まれる。 「やめて!」  フィルは反射的に彼の手を振り払った。再び伸びてくるオギーの手から逃れ、部屋を横切ると窓辺へと駆け出す。窓辺にはドクターが泳ぐ金魚鉢があった。それを背にし、目の前で立ち尽くすオギーを見つめる。心臓が痛かった。身体の芯が凍っていくのがわかる。これまでこんな想像はしないように――するはずがない――と思っていたのに。彼にネッドの影を重ねることは絶対にないと。年齢が二回りも下の男に恐怖することはないと……でも今は……  オギーは諦めの表情を見せなかった。彼は窓辺まで追いかけてくると、今度はフィルの両肩を掴んで引き寄せる。 「あいつを庇うんですか?」 「君に関わって欲しくないんだよ!」 「どうしてです! まさかスファンスから、俺のことを聞いたからですか!」 「何のことを言ってるの!」 「俺が実の父親を半殺しにして、三年間、刑務所に入っていた男だってことをです!」  彼の叫びの残響が消えぬうちに、フィルは数時間前に身体を重ね、一時の幸せを分かち合った男を見つめた。照明のせいで、彼の額に浮かぶ血管の隆起が見える。見開かれた目はぎらぎらと光っており、興奮のあまり涙が滲んでいることを窺わせた。  フィルはふと、彼に掴まれた肩に痛みを感じて顔をしかめる。 「手を離して。痛いよ……」 「でも俺は大丈夫なんです。俺は親父とは違う。異常じゃない!」オギーはうわごとのようにそう言い始めた。瞬きもしない。恐ろしく、悲しい声音だった。「自分をコントロールできる。カウンセリングにも行った。もう治ってる。だからあなたを助けられる。助けたいんです」 「離してってば……」  フィルは逃れようと暴れたが、勢いよく腕を振り払った瞬間、己の右手首からぐぎっと鈍い音が鳴る。鋭い痛みが走り、反射的に腕を庇おうと前屈みになった。  すると、背中が後ろの金魚鉢に当たったのがわかった。ぐわんと不穏な音が鳴り、あっと思った時はもう遅く、それはバランスを崩して床へと真っ逆さま。丸い球体は床に触れた面から潰れていき、耳をつんざく音を立てながら、鋭いガラスとぬるい水を辺りに撒き散らす。その飛沫は二人の裸足にも飛んできた。  第二の家から放り出されたドクターは、濡れた床で身体をぴちぴちと跳ねさせる。静寂が戻っても、ドクターの跳ねる音だけが響いていた。 「……出て行って」 「フィル、俺は……」 「いいから、もう出て行ってよ!」  ガラスの破片だらけの床に踏み出し、オギーの身体をどんと押した。「君が僕の人生に現れたせいで、この問題はもっと複雑になった! 君がいるせいで解決しづらくなったんだ! 君がいなければこんな事態にはならなかった!」  違う、そんなこと考えたこともない。君は救いの光だ……嘘を送り出す喉が熱くひりついていた。自分がどんなにひどいことを言っているのかはわかっている。薄闇の中でも、オギーの顔に絶望の色が現れているのが見えた。フィルは咄嗟にそれから目を反らし、オギーの服だけが取り残されたベッドへと視線を移す。そして彼の服を掴み上げる。 「数週間前の生活に戻るんだ!」  オギーに向かってそれらを無茶苦茶に投げつけた。服がばさばさと空を切る音や、ベルトの金属部分が床に当たって硬い音を立てる間にも、オギーは何か叫んでいた。しかし、フィルの頭で脈打つ血管がそれら全ての音を掻き消してしまう。  ふと、ばたんという音が聞こえた。  我に返ったフィルが顔を上げると、そこにオギーの姿はなく、彼に投げつけた服も消えていた。しかしただ一つだけ、彼のニット帽だけが濡れた床に残されていた。  フィルは呆然とそれを見つめると、やがてへなへなと床に座り込んだ。 「だから僕は、君を好きになる前に、それよりもずっと前に……なんとかすべきだったんだ」  痛む腕で頭を抱えた時、ドクターが跳ねるのをやめた。

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