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第15話
病院に到着した時、フィルは明かりの点いたエントランスに数人の職員が立っているのを見た。グレッグは車内から、彼らに向かってひょいと片手を上げてみせる。するとそれに気づいた職員のうちの男が一人、エントランス前に停車したグレッグの車に向かって走ってきた。坊主頭の小柄な男だった。
「どうだ?」
グレッグが扉を開け、フィルは彼らの唇を読むために運転席へと身を乗り出す。
「ついさっき電話があったんだ」
男がポケットからスマホを取り出した。「オギーが……患者が錯乱状態らしい。走行中の車の扉を開けて、道路へ飛び降りようとしたんだと」
「無事なのか?」
「寸でのところで食い止めたって。扉にロックをかけたんだ。もう数分でこっちへ着くが――あ、来たぞ!」
突然坊主頭の男が車から離れ、駐車場の入り口へと走って行った。グレッグに合図され、フィルも車から出て後を追う。坊主頭の男はフェンスにしがみつき、丘の下を指差していた。フィルは彼の隣に駆けつけて見ると、丘の下からこちらへ近づいてくるヘッドライトがあった。白いセダンがごうごうと音を立てながら坂道を駆け上がってくる。
「オギー……」
フィルは冷たいフェンスをぎゅっと握り締めた。足も冷え始めている。しかし、冷えによる苦痛などもはや感じられなかった。オギーと再会することへの奇妙な高揚感と、彼が無事なのかということへの巨大な不安で体内は満たされ、心臓は破裂してしまいそうだった。
セダンはぶおんと唸って丘を登りきると、フィルとグレッグ、坊主頭の男を通り過ぎて病院のエントランス前ーーグレッグの車のすぐ後ろで停車した。
「行こう」
フィルは独り言のように言い、グレッグと坊主頭の男と一緒にセダンへと近づいた。車内灯が点き、中からブロンドの若い女性が出てくる。二十代前半か半ばくらいだろう。車内灯に照らされていても、その顔はチーズのように白っぽく見える。
「手伝って! 彼、おかしいのよ!」
彼女が叫んだその時だった。セダン後部の扉が勢いよく開かれ、中から黒い影が現れた。それはしばらくその場で静止していたが、やがてふらついた後、アスファルトの地面へどろりと落ちる。
「オギー!」
フィルはだっと駆け出した。しかし彼のもとへ辿り着く前に、エントランスで待機していた職員達がオギーを取り囲む。夢中だったフィルは思わず彼らを押しのけようとしたが、それはグレッグに止められる。
持ってきたストレッチャーにオギーを乗せようと、数人の職員が身体を屈めた時だった。
ふいにオギーが大きくもがき、彼らの手を乱暴に振り払った。ぶん、と彼の手が空を切る。
フィルはもう少しだけ近づいて彼の顔を見た。そして息を飲む。最初に彼が黒い影に見えたのは、頭から流れ出した血が顔を染め、それが乾いて黒っぽくなっていたからだった。片目だけは辛うじて血に濡れていなかったが、その目の焦点も合っていない。
「オギーッ!」
喉がびりびりと痺れるほどの声が飛び出した。
瞬間、焦点の合っていなかったオギーの目がぎょろりとこちらを向いた。こぼれ落ちんばかりに見開かれた目は血走っている。彼はぴたりと身体の動きを止め、フィルを見ていた。
他の職員達すらも動きを止め、フィルとオギーの様子を見守っている。
フィルは一歩、また一歩と歩き出した。グレッグの手が肩からするりと落ちていく。両足はふらふらとバランス感覚を失いつつあった。今にもその場に座り込んでしまいそうだが、胸の中で熱く湧き上がる何かがそれを許さない。
とうとうオギーの目の前まで来ると、慎重に膝を地面につけてしゃがみ込む。瞬きもしない彼と目が合った時、その瞳が不穏に揺れたのが見えた。
「……何か、言いたいの?」震える声で問う。
オギーは微かに口を開けたが、声が出ないようで、唇だけをぱくぱくと動かした。それでも辛抱強く待っていると、ついに彼は眉間に皺を寄せながらも声を絞り出した。
「……ずっと痛かった……ずっと悲しかった……」
フィルは身体を屈め、オギーを思い切り抱き締めた。抱き締める寸前、彼の両目から溢れ出した涙が乾いた血を濡らし、赤い雫となって顎から滴ったのが見えた。彼の涙がその血を全て洗い流すまで、ずっと抱き締めていたいと思った。
オギーが背中へ腕を回してくる。震えていて、力がなくて、それでも必死に縋ってくる。彼がしゃくり上げながら泣いているのが、胸に伝わってくる振動でわかった。
「ちゃんと聞こえたよ。大丈夫」
そう言った瞬間、腕の中でオギーががくんと脱力した。驚いて腕を解くと、彼は白目を剥いて気を失っていた。顔中が涙で濡れている。
「さぁ、ちょっと退いてくれ。とにかく医者に診せなくちゃな」
背後からグレッグが肩を叩いてきた。フィルは素直にオギーから離れ、よろめき立ちながら二人を見守る。グレッグはフィルを安心させるように微笑むと、よっこらしょとしゃがみ込み、オギーの身体の下へ腕を差し入れて軽々と横抱きにした。オギーの足がぶらんと揺れ、そこでフィルは彼も裸足であることに気づいた。
「ストレッチャーを寄越してくれ。年寄りの身体には五秒が限界だ」
その声で呪縛が解けた職員達が、慌ててストレッチャーをグレッグの前まで転がす。ぐったりとしたオギーの身体はストレッチャーに乗せられ、後は職員達によって病院のエントランスの方へ運ばれていった。
駐車場に残されたフィルとオギーは、しばらくその光景をぼうっと眺めていた。
「やれやれ、とりあえず一段落だな」とグレッグ。
「そうですね」
瞬間、フィルの身体から全ての力が消え失せた。慌てたグレッグに再び支えられながら、二人で病院のエントランスへと歩いて行く。歩きながら、何が年寄りの身体だよ――とフィルは内心笑うのだった。
夜が明けても、オギーは目を覚まさなかった。
ベッド横のスツールに座っていたフィルは、東側にある窓から、白っぽい朝日が差し込んでくるのを見届けた。ベッドで眠るオギーは額に包帯を巻かれており、その隙間から髪の毛がちょこちょこはみ出している。ちょっと可笑しい人形のようだ。しかし血こそ拭われたものの、包帯の下には五針縫うほどの大きな傷がある。鼻筋や頬には分厚いガーゼがあてがわれ、そこから覗く肌は紫色や黄色に変色していた。傷だらけの腕は点滴のチューブに繋がれている。真夜中から高熱を出していたが、解熱剤を服用させてからは徐々に下がり始めている。彼の意識は、ようやく憩いの闇へと身をゆだねたようだった。
「少しは眠ったか、あんた?」
窓辺のソファで眠り、今しがた目を覚ましたグレッグが言う。
「えぇ」
フィルは嘘をついた。傷だらけだった裸足に絆創膏を何枚も貼られ、そのむず痒さで眠れなかった。眠れぬ夜の時間を、フィルは祈りに使うことにした。どれだけ時間がかかってもいい。どうか、オギーが目を覚ましてくれるようにと。
グレッグは伸びをし、大きな欠伸をしてから目元を擦った。
「オギー坊は?」
「まだ眠ってます。時々うなされていましたが、もう大丈夫そうです。熱も下がりました」
「そうか」
グレッグはソファから立ち上がると、ベッド横に来てオギーの顔を覗き込んだ。「昨日の夜は驚いたぞ。まさかこいつが泣くなんてな」
「今まで泣かなかったんですか?」
フィルが聞くと、グレッグは顎の無精髭を擦った。
「俺が見た限りは一度もな。それにあいつの口から、「痛い」とか「悲しい」とか聞いたのも初めてだ。頑固だからなぁ。あんたに会ってから、何かつっかえが取れたのかもな」
その時、病室のドアが静かに開いた。現れたのは昨夜、病院のエントランスから二人のもとへ駆けつけてきた坊主頭の男だった。
「よぉ、グレッグ。久し振りだな」
彼はにやりと笑い、グレッグへ片手をあげた。
「ははは、まさかこんな再会になるとはなぁ。ボブ、看護士になったんだな」
グレッグも笑い、ボブと呼んだ男に大きなハグをした。やがてハグから解放されたボブは、今度はフィルの方へと顔を向けた。徹夜したのだろうか、目の下には濃い隈がある。その目が柔らかいアーチ状になった。
「足の調子はどうだい?」
「良好です。痛みもありません」
フィルは脱ぎ散らかしていたスリッパを足で引き寄せる。
「うむうむ。さぁ、我らがオギー坊はどうかな?」
ボブはオギーへ視線を移すと、そっと彼の首筋へ手の甲を当てた。しばらくして両眉を上げると、ふうと溜息をついて微笑む。「結構、結構。熱は下がってるな」
「オギーとは知り合いなんですか?」フィルは尋ねた。
「あぁー、どうだろうな。昔、ここの講習会で会ってるんだ。といっても、俺のことは覚えてないだろうな。当時、こいつに声をかけたのはグレッグだけだったからな」
フィルがグレッグの方を見ると、彼ははにかんだように笑んで後頭部を掻いた。
「だって放っておけないんだよ。わかるだろ? で、ボブ、こいつはいつ目を覚ますんだ?」
ボブは溜め息をつきながら、肩をすくめた。
一通りの確認が終わって彼が部屋を去ると、病室に沈黙が戻ってくる。聞こえるのは、規則正しく繰り返されるオギーの呼吸音だけ。
「オギー、起きてよ。起きたら君の話をたくさん聞かせ欲しい。ついでに僕の謝罪と言い訳も聞いてよ」
その時フィルは、オギーの呼吸が一度だけ大きくなったを見逃さなかった。
暗い水の中にいるようだ、とオギーは感じていた。
暖かくて、静かで、身体の力を抜いていても何の不安もない。
(だけど、時々、何か聞こえる)
闇に沈んだ意識の奥底で響く、くぐもった音に意識を集中させてみる。しかし、力を入れると額の辺りがひどく痛んで集中が途切れる。
なおも音は、痛みの隙間をかいくぐって響いてくる。まるで何が何でも、その言葉をオギーに届けようとしているようだった。
(もう少しで聞こえる。目を開けないといけない。俺は目覚めなきゃいけないんだ)
そう強く念じた瞬間、群衆の混沌を鎮める一発の銃声のような声が脳を貫いた。
「オギー!」
沈んでいた身体が、光に向かって勢いよく引き揚げられていく。ついに頭の中が光でいっぱいになった時、オギーは思い切り息を吸い込んだ。乾いた喉がぜぃと引き攣った音を立てたが、その音は声に掻き消される。
「オギー坊! 目を覚ましたのか! おい!」心地いい、そして懐かしい銅鑼声だった。
「オギー! お願い、起きて!」
あぁ。この声を知ったのはつい最近な気がするのに、すでに色んな声音を知っている。笑い声も、泣き声も、怒った声も、幸せな声も。
「「オギー!」」
重なった二つの声が、とうとうオギーをすくい上げる。
オギーはゆっくり目を開けた。まだ視界はぼやけていたが、白っぽい光の中に誰かがいて、こちらを見ているのがわかる。一つは黒っぽくて大きな影だ、熊みたいだとオギーは思った。銅鑼声はこいつのものらしい。一方、目だけを動かして反対側を見ると、そこには最初のよりも華奢な影があった。
「起きた? 僕だよ」華奢な影は言った。
声音は努めて優しくしているようだが、焦りや不安が滲み出ている。どうすれば安心させられるかと、ぼんやり考える。
「うぅ……」
左手を動かしてみる。痛みが腕を貫いたが、おかげで脳にかかっていた蜘蛛の巣が払われていく。腕は自分のものとは思えないほど重く、わずかに上げても震えて力が抜けてしまう。それでも歯を食いしばって持ち上げた。腕から透明なチューブが突き出ているのが見える。
(もう少しで届くか……いや駄目だ、届きそうにない……)
腕は中途半端に空中で留まっていたが、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
すると、温かい手がオギーの腕をそっと支えた。瞬間、オギーの視界が晴れていく。
バラ色になり始めた朝日が見えた。その光を浴びる彼の金髪は白っぽく輝いている。見開いた目の青い瞳はじっとこちらを見ていて、鼻先に引っ掛けた眼鏡はレンズが少し汚れている。口元や顎先の髭は、最後に見た時より少し伸びているような気がした。
「フィ、ル……」
「そうだよ、オギー」
フィルは大きく頷き、そうしてベッドの反対側へと顔を向けた。その視線を追うと、あの大きな影がすぐそばに立っているのに気づいた。その身体が大きく震えている。数少ない知り合いの中で、あの図体をしている人間は一人しかいない。
「グレッグ……」
「あぁ、俺だ。こんの馬鹿息子め!」
涙混じりの声と共に、グレッグはオギーを強く抱き締めてきた。反対側からも、フィルが身体を屈めて抱き締めてくる。二人ともオギーの肩に顔を埋め、身体を震わせて泣いていた。
オギーはしばらく呆然としていたが、やがて二人の背中に腕を回し、両腕いっぱいに抱き締める。
そして声を上げて泣いた。
朝日がその色を落ち着かせ、外から鳥のさえずりが聞こえ始めた時、オギーはベッドに胡座をかいて座り、鼻をぐずっと啜っていた。
グレッグは自宅に電話をかけると言って、しばらく前から病室を出ていた。
病室にいるのはオギーと、隣に座っているフィルだけだった。フィルはずっとオギーの右手を握ってくれている。その手の温かさにオギーは安堵し、同時に覚悟も決めた。
「フィル」
「なあに?」
「……腕は大丈夫?」
フィルはきょとんとしていたが、やがて「あ」と声を上げて笑った。
「心配しないで。痛くも痒くもないよ」
「……でも俺は……」
「オギー、君はこれっぽっちも悪くない。自分を悪者にしないで」
しかし、オギーはどうしても伝えたかった。自分の口から話しておきたかった。今まであったこと、これまで思っていたことを……どう思われてもいい。彼に話したかった。
その思いが届いたのか、フィルははっとした表情になり、そして頷いた。
オギーは話した。子どもの頃のこと、家族のこと、学校のこと、事件の夜のこと、逮捕されたこと、セラピーを受けていたこと。
「……講習会でグレッグに出会って、治療も受けた。だからもう大丈夫だと思ってた――もしこれだけやって大丈夫じゃなかったら、もうどうしようもないんだって認めるのが怖かった……」
話している今も、怖くてたまらない。オギーはちらりとフィルの様子を窺う。彼はじっとこちらを見ていて、オギーの次の言葉を待っている。繋いだ手も離さないでいてくれている。暖かくて少しかさついた肌の感触が心地良く、オギーは何とか言葉を続けた。
「でも、どこかで認めて楽になりたかった。俺はどうしようもない奴だから、助けてくれって言いたかった。でも前科者の泣き言なんて、誰も聞きたくないだろうと思って――」
その時、フィルが繋いだ手にぎゅっと力を込めた。驚いて見ると、そこには嘘も建前もない、真実だけを反射するフィルの青い瞳があった。
「君の周りには、君の話を聞きたいと思っている人達がたくさんいる。グレッグもそう。僕もその一人――それとも、僕じゃ力不足かな?」
オギーはぶんぶんと首を横に振ると、身を乗り出してフィルに抱きついた。
フィルは優しく抱き締め返してくる。その手で背中を擦ってくれている。
「オギー、君は愛されてるんだ。僕は君を愛してる」
「俺も愛してます。来てくれてありがとう」
「僕の方こそありがとう。君は僕を、良い方向へと連れ出してくれた」
やがて抱擁を解くと、オギーは顔を傾けてキスをせがんだ。フィルは快く応えてくれ、すぐさま乾いた唇同士が触れあった。鎮痛剤よりも優しいキスに夢中になる。掴みかけ、そして手放した幸せが、今また手の中にある。溺れそうなほどの幸福感と同時に、オギーは下半身に不穏な疼きも覚える。だが、ここではさすがに無理だ。
オギーは名残惜しくて、わざと音を立てて唇を離した。フィルの物欲しそうな視線とぶつかった時、今の自分は怪我など一つもなく、どんなことだってできるように感じた。しかし、病室の扉ががらりと開いた瞬間、その危険な高揚はさっと身を潜める。
入ってきたのはグレッグと、坊主頭の看護士だった。看護士の方は朝食が乗ったトレーを持っている。固形物がほとんどなく、ほとんどがスープらしかった。
「やぁ、やぁ、オギー坊。調子はどうだい?」
オギーがトレーに釘付けになっていると、坊主頭の看護士――名札にはボブとあった――が微笑みながら近づいてきた。仕草からして自分達は知り合いらしいが、オギーには心当たりがない。きょとんとしていると、彼はうんうんと頷いてからトレーをテーブルに置いた。スープの湯気を顔に感じた途端、胃が痛いくらいに疼いた。しかし手を出そうとすると、さっと手で遮られてしまった。
「おっと、包帯とガーゼを変えてからだ。知ってるか? あんたおでこ五針も縫ってんだぜ」
オギーはぎょっとした。
一方、グレッグは神妙な顔つきでフィルに近づくと、持っていたスマホを差し出した。
「あんたが電話してた奴からだ」
「わかった、ありがとう。借りるね」
フィルはスマホを受け取り、オギーに「すぐ戻る」と言って病室を出て行った。不安が胸をよぎりつつ彼を見送ると、ボブがベッドの隣へやって来た。
「さぁさぁ、傷の具合を見せてくれ。午後から、念のためCTも撮るからな」
ボブは丁寧にかつ手早く包帯を解いていく。包帯がなくなると額がすうと冷えて、途端に無防備になったように感じてそわそわする。傷口に貼りついていたガーゼも慎重に剥がされると、消毒液と血が混ざったような匂いがぷんと頭上から降ってくる。
オギーは、窓辺のソファに座ったグレッグに尋ねた。
「さっきの電話は誰から?」
「フィルの仕事仲間だった奴らしい。やけに声のでかい男だったな。でも何か上品そうだ。お前を探している間も、フィルは何か電話していたぞ。なんでも、アパートから持って帰ってほしいものがあるとかどうとか」
「そうか……」不明瞭なところが多くオギーは曖昧に頷いた。
そうしているうちにボブは包帯を綺麗に巻き直し、鼻と頬のガーゼも新しいものに取り替えた。彼は古い包帯とガーゼを回収すると、また午後に呼びに来ると言って出て行った。
「ありがとう」
扉が閉まる直前に慌ててそう言うと、ボブは背を向けたまま片手をひょいと上げた。そして彼と入れ替わるようにフィルが戻ってきた。駆け足のフィルは目を大きく見開いており、オギーもグレッグも何事かと彼を凝視する。
フィルはスマホを握り締めたまま言った。
「ネッドを何とかできるかもしれない」
「あいつを?」オギーは身体を起こしかけたが、痛みがそれを引き留めた。
「ネッドって? あのイカれた警官か?」グレッグはきょとんとしている。
フィルは頷き、話し始めた。
事前に購入していた隠しカメラ(オギーはそれに一番驚かされた)に、ネッドから暴力を受ける様子を収めることはできた。タイミングが最悪で回収ができずにいたが、フィルが連絡をした元ボスの働きによって、現在、カメラは知り合いの弁護士の手に渡っている。さらに、ことの詳細を知った弁護士に火がついたらしく、彼はネッドを丸裸にする勢いで身辺調査を開始しているとのこと。もしネッドを訴え、彼に抵抗されて裁判に発展したとしても、反撃できる材料はしっかり揃えてある。つまり、もう準備万端なのだ。
「あとは、僕のGOサインだけだって……」そう言うフィルの声はか細かった。「ずっと後悔してるんだ。もし、もっと前に僕が動いていたら、こんなことに大事にはならなかったかもしれない。僕は普通に暮らしていて、オギーの生活に彼が介入してくることもなかったかもしれない。そのことが本当に申し訳なくて――」
「でも、おかげで俺はあなたに出会えた」
オギーはフィルを真っ直ぐ見つめ、きっぱりと言った。「だからあなたは何も間違っていない。ここでの選択を間違えなければね」
フィルははっとした後、今にも崩れそうな笑みを浮かべた。その目は見る見るうちに涙で満たされ、彼がこくんと頷いた時、大きな粒が二、三、こぼれ落ちていった。
「あとね、ドクターも無事だったんだよ」
「よかった。あなたの帰りを待ってる」
「僕らの、だよ。一緒に帰ろうね、オギー」
その言葉にオギーの頬は熱くなる。
隣でグレッグが「かーっ、いいねぇ」とにやにやしながら声を漏らした時には、火が出るほど熱くなった。
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