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第10話

事前に下見していた路地裏のマンホール。 周囲に人けがないのを確認後、非力な腕を叱咤して鉄蓋を持ち上げる。 生じた隙間から下水特有の湿った臭気が吹き付け、えずく。 丸く切り取られた縦穴の向こうは、地上よりさらに濃い闇に沈んで見えない。 説明が面倒くさいし、下手に勘繰られるとヤバいからごまかしたが、この地図も呉哥哥の肝入りで借りた。 もともと下水の工事を請け負ってたがのちに破産した業者から買い取ったらしく、世の中金をだしゃ買えないモノは殆どねえ。 盗品だろうが死体だろうが闇ルートで出回ってる。 「はあ……ばっくれてえ……」 わが身の不運を嘆くのはいい加減打ち切り、気を取り直して梯子を下りる。 スワローはうまくやってんのか?まさか入場で躓いてねえよな。喧嘩っ早いアイツのこった、同じ列に並んだヤツと押した押さねえ割り込みすんなとやらかす可能性は十分ある。 「よっと」 弾みを付けて底に降り立ちあたりを見回す。 通路の横を濁った汚水が流れている。水量は多くねえ。 「ホームレスは……いねえか」 人の有無を確認して胸をなでおろす。 第一関門突破。下水道は浮浪者や浮浪児のねぐらになりやすい。俺も一時期世話んなったが、寒さをしのぐのにちょうどいいのだ。 まあ外と比べてなんぼかマシって程度で、匂いはキツいわゴキブリやらネズミやらが繁殖してるわで、けっして安穏な寝床じゃねえ。 既視感を刺激され一抹の郷愁に浸る。 「……どこも一緒だな」 かぽんとガスマスクを被る。 ちょっと息苦しいが、悪臭が緩和されるのは有り難え。 廃水が汚染され有毒ガスが充満してる「もしも」を考えりゃ、気休め程度でも粘膜を守る備えが欲しい。 スワローの兄貴のおさがりのガスマスクを付けて、薄暗い下水道を歩く。 たまに地図を見て道順を照らし合わせる。 作戦を詰める余裕はなかった。付け焼刃だ。時間をかけりゃかけるほど後手に回るとはスワローの主張で、俺もそれに同意だ。すでに敵は二週間以上逃げ延びている。潜伏および逃亡期間が長引くほど、いらねー知恵を付けて手強くなるのが業界の法則だ。 『今度の水曜が峠だな』 『峠?』 『最近出入りが激しいから見慣れねーのを付けてみたらビンゴ、中古車ディーラーだった。どうもトラック手配したみたいだぜ?家畜運搬用のな。詰めこめるだけ犬詰めて夜逃げでも考えてんじゃねーの』 『また勘かよ』 『潮時だってあっちもわかってんだろ、まわりをガチガチに固められちゃ商売上がったりだ。常にタマ狙われてる状況で興行張れるほど胆は太かねェし、毎度のごとく賞金稼ぎがカチコミかけてりゃ早晩客離れは必至。だれだって自分の身が一番かわいいかんな、とばっちりくうのはごめんだ。とすると、よそのバイヤーに渡りを付けて匿ってもらうはらか……アンデッドエンドじゃさんざん稼いだ、儲けが落ち込む前に幕引きが利口だ。そのぶん今度の興行はド派手にやるはずだ、最後にでっけえ花火ぶちあげてえのさ』 スワローの洞察力にゃ舌を巻く。 15かそこらで、どんな人生経験積んだらああなるんだ?夜逃げの企てが事実なら今夜が正念場だ、タイミングを前倒してもやるっきゃねえ。 「ぅひっ!?」 背筋に一筋悪寒が走る。 天井から滴った雫がシャツの背中に滑りこんだのだ。 心臓止まるかと思った。狭くて臭くて汚ェのは慣れちゃいるが、ドッキリはやめてほしい。自慢じゃねえが、俺はビビりでヘタレなのだ。ほんとなんでギャングなんかやってんだ? 靴音が虚ろに響く無人の下水道を歩きながら、先日の出来事を回想する。 スワローとコンビを組んでるあいだ、俺には中途報告が義務付けられていた。 我慢ができない呉哥哥は、俺とスワローがかわした会話や、くだらないやりとりを事細かに知りたがった。 スワローにテキトーこいて張り込みを抜け、いちいち事務所に立ち寄るのもホネだったが、シカトぶっこくと後が怖い。最低二日に一回は出頭し、何があったか報告する。 今日の昼間に事務所に顔出した時、呉哥哥は机に足をのっけて缶詰を喰っていた。 何故に缶詰?こっちが聞きてえ。 ちょっと想像してみてくれ。ベリーショートに刈りこんだ頭をド派手なショッキングピンクに染め、|錦蛇革《パイソン》のレザーパンツを穿いた三十路男が、缶詰の中身を匙でほじくっちゃいちいち大袈裟に顔をしかめる光景を。 ぶっちゃけシュールすぎる、ドン引きだ。 「|不好吃《まっず》。マジで犬のエサにも劣るな」 茶色く染まった舌を出す。 「何食ってるんすか?」 「缶詰」 「見ればわかるっす」 「素材を聞いてんならわからん」 「書いてないんすか」 「輸入モノだから読めん。ハングル語かなこりゃ。お前読める?」 「なんで哥哥に読めないもんが俺に読めるって発想になるんすか」 「無理か。学ねーもんな」 お互い様だろ。 「お前も食う?」 辞退する前に匙をさしむけられる。 あーんの合図。匙にのっかってるのはコンビーフなのかスパムなのかよくわからねえ茶色い塊。 1、腹一杯なんで。 2、間接キスなんで。 3、野郎同士があーんって正気か? ぐいぐいと押し付けられて辟易、断る理由は即座に十個浮かぶも拒み通すにゃ立場が弱すぎる。 決死の覚悟で口を引き結んでそっぽをむくも、呉哥哥は机に身を乗り出し、謎のかたまりを盛った匙に圧力を加えてくる。 「遠慮すんなって」 「いま腹減ってねーんでいやホント、厚意だけ有り難くもらっときます。匂いだけで胸焼けする位腹一杯なんで」 「賞味期限はギリイケる。偽造かもしんねーけど」 「大丈夫の意味が行方不明っす。てかなんで缶詰食ってるんすか、下がレストランなんだから豪華なメシもってこさりゃいいじゃねっすか、満漢全席とか」 「ツバメのスープで験担ぎか」 いきなり舌鍛えはじめんのは勝手だが俺をまきこまないでほしい。机の後ろに段ボール一箱分、どっさり在庫があるのに「うわ……」と絶句。 呉哥哥がだしぬけに片腕をのばし、俺の鼻を摘まみやがる。 「ぅぐッ!?」 目の前にサングラスが似合う精悍な面構えが迫る。 「いいから食え」 上司の命令は絶対。 口元はにっこり笑っちゃいるが、サングラスの奥の目を据わらせて脅してくる。鼻を摘ままれる息苦しさに負けて口を開けりゃ、すかさず匙を突っ込まれる。男同士であーん。絵ヅラが汚ねェ。 匙が素早く引き抜かれ、今度は手で直接塞がれる。 「吐きだすな。ちゃんと噛め」 呉哥哥が見てる前で嫌々咀嚼、吐き出したいのを堪えて嚥下。 塩気がキツい、エグみしか感じねェ。喉がひどく乾いてむせる。哥哥の手をはねのけ、机にもたれて咳をする。 「うえっげほっ、げほげほ……」 「な?すっげえまずいだろ」 呉哥哥が快活に笑い、うまそうに喉を鳴らしてコップの水を呷る。 当然だが、一滴も残しちゃくれねえ。呪われろクソ蛇が。 一気に干したコップを音高く机に戻し、いぶし銀のレザーパンツに包まれた長い脚をゆっくり組み換え、机のへりを掴んで胸焼けに耐える俺に聞く。 「で、経過は順調?」 最悪の間接キスだ。まだ気分が悪ぃ。鼻腔から目頭に強烈なエグみが突き抜けて酸っぱい後味が残る。呉哥哥はマイペースに缶詰の中身をほじくっている。味覚が麻痺してんのか? どうにか口がきけるまで回復するのを待ち、ここ最近のスワローの様子を報告。呉哥哥はオーバーリアクションでそれをむかえる。 ある時は手を叩いてバカ受けし、ある時は頬杖付いて皮肉っぽく笑み、ある時はあんぐりと口を開けて、でかいサングラスで上半分を覆っていても実に表情豊かな百面相だ。 でっけえガキみてえに天真爛漫、豪放磊落な表情の崩し方。 「ーってのがアイツの見立てっす」 「なるほど、頭は悪かねェのな」 「凄腕のナイフ使いってのはマジっぽいです。抜くとこ見えなかった」 「抜かれるようなことしたのかよ」 「ただのジョークですよ」 「地雷踏んだんじゃねえの?」 下品な冗談だったのは認めよう。 でもあんなキレることかよ、馬鹿話の延長だろ。 憮然とする俺に呉哥哥は小さく笑い、すくいあげるように顔色を見る。 「それで?」 「それで、って……ネタは尽きましたよ。今わかってることは全部上げました」 「なんか隠してんだろ。野良ツバメと何があった?」 匙を咥えてギシリと椅子にふんぞりかえる。呉哥哥は人の顔色を読むのが達者だ。俺は俯く。あの夜の出来事は絶対知られたくねェ。 「……なんもないですよ」 「寝たのか」 「んなまさか」 「一週間以上車に泊まりこんでんだ、何もねーはずはねーだろ。劉さァ、気付いてる?さっきからそわそわしてすげー落ち着きねえぞ、挙動不審だ。隠し事がバレバレちゃんだ」 答えあぐねて足元を見るしかない。 何かはあった、確実に。でも仕事にはさっぱり関係ねェ、省いたって何も問題はねェ。 そう逃げを打った俺の内心を見透かし、机越しに腕をのばす。 蛇のようにゆるやかでしなやかな挙措。 避けようと思えば避けられたが、それはしない。 直立不動の俺の胸元を掴んで引き寄せ、襟首をはだけて細い首筋を凝視。 生温かい吐息があたる気色悪さに肌が粟立ち、膝からへたりかける。 「薄ーく切れてる。ナイフのあとだな。まだ新しい」 「…………」 「刃物を首根っこに突き付けて、何をして、されたんだ」 ひんやりした指が首筋の薄赤い線をたどり、皮膚がざわめく。 ぱくぱくと喘いで言い逃れを画策するも、釈明の言葉が見付からない。 脳裏で忌まわしい悪夢がフラッシュバック、シートを倒して膝を立てる俺、その間に割り込むスワロー、首筋に寝かせた刃の不吉な輝き…… 『見ててやっからやれよ』 『目の前でオナれ』 いやだ。 言いたくねえ。 唇を噛んで必死に抵抗、踏ん張る。 呉哥哥は許さない。 度のないレンズが隔てる目の奥底、小揺るぎする怯えを見透かすように、極端な近さで囁く。 俺がいちばん苦手とする、鼓膜を蛇が這うような囁き声。 「ホントはヤられちまったんじゃねえの?刃物で脅されてさ。前科あんだろ、アイツ」 「……それ、は」 「会ったんだろ、オンナ」 そうだ。 スワローが以前組んだ女賞金稼ぎに、直接話を聞きに行った。 「ヤられてません。そういうのはないです。ホント誓って……い゛ッう!?」 鋭い痛みが胸に走る。 呉哥哥が柄シャツ越しに、俺の乳首に狙い定め、人さし指の爪を立てたのだ。 ガリッと引っかかれ、甘酸っぱい微電流に変な声が出る。 被虐の快感に顔が染まり、野暮ったく伸びた前髪の奥、卑屈な双眸が潤む。 「なあ劉よ劉ちゃんよ、俺はお前の何だ何様だえェ?」 「……ッ、兄貴の……尊敬する、哥哥っす……幹部の」 「そうだその通り、ちゃんとわかってんじゃん。最初に言ったよな、あったことは全部委細漏らさず報告しろって。俺とお前の間に隠し事はナシだ、全部まるっとさらけだせよ。野良ツバメがどんなヤツか、実際てめえの目で見ててめえのカラダで知った事実を余すことなく教えてくれ。そのために指名されたって忘れんなよ」 尖った爪の先端がじくりとめりこむ。 切ない疼きを伴う痛痒さでどうにかなりそうだ。 匙を咥えた悪戯っぽい笑顔のまま、噛み砕くように言い聞かす呉哥哥に潤んだ目で許しを乞えば、重ねて顎をしゃくる。 「言えよ」 どんな恥ずかしいことでも。 どんな屈辱的なことでも。 「…………」 くりかえし唾を飲み込む。 燃え上がる羞恥心で頭が痺れる。 「……オナニー、させられました。助手席のシートで」 「へえ」 呉哥哥が面白そうに片眉をはねあげる。 「どういう経緯で?まさか突然?」 「……仮眠とって。夕方に見張り交代する予定だったんすけど寝過ごして、すっかり夜で。やな夢見て……うっかり勃ちまって、それで」 「どんな夢?」 「言いたくありません」 「言え」 「いやです」 「言えよ」 「断ります」 誰にだって譲れない一線はある。 どんなに宥めすかしても、あの人とのあいだにあったことだけは絶対言えねえ。 伊達眼鏡の奥、忸怩たる色を浮かべて引き歪む眸で、呉哥哥を毅然と見据える。 「……勘弁してください。いくら哥哥の命令でもこれだけは……他はなんでも、できるだけ詳しく話すんで……」 「何回イッた?」 「一回」 「何分?」 「十分……すかね」 「早漏にしちゃ頑張ったじゃん」 「早漏じゃね……ないっす」 「ガン見されて緊張した?」 「はい」 「どんくらいでた」 「その……シート汚しちまうくらい。すいません」 「たまってたのか」 「最近ヌイてなかったから……」 「まあ、車で張りこんでんだもんな。バレねーようにヤるのもスリルあっけど」 「はあ……」 「手ェださなかったの」 「髪掴まれて……窓に押し付けられたけど、それ以上は。オナってる顔、よく見ろって……ナイフで頬ぴたぴたされました」 「いい趣味だな。で、童貞処女の劉ちゃんは手も足も出ずシートに転がっていいなりか?15かそこらのガキに夜這われて、シートで股おっぴろげてシコったのか。とんだスキモノだな、窓越しに見られそうで興奮したか」 呉哥哥は思い違いをしてる。 確かに童貞だが、処女かどうかは怪しいもんだ。ケツにモノを突っこまれた経験なら何回かあるし、口での奉仕を強いられたのは一度や二度じゃねえ。理由は単純、そうしなけりゃ生きてこれなかったからだ。 力もない。 学もない。 金もない。 そんな俺がこの世界で生き延びるには、相手の顔色をびくびく窺って求められたギリギリをさしだすっきゃなかったのだ。 ケツの穴に一番最初に異物を突っ込んだのは、あの人だった。 すっかり大人しくなり、目を合わせず俯く俺の頬に手を添えて、呉哥哥がやさしく囁く。 「どんな顔してたか言えよ」 「……目ェ涙いっぱいで……口はだらしねェ半開き……みっともねえ顔」 オナニーに耽るあの人そっくりの、とろけきったメス顔。 「詳しく」 「……汗ぐっしょり……眼鏡はズレて、鼻にひっかかって、物欲しそうに目ェ潤ませて。涎、あふれて。シャツの色変わっちまって……いやなのに手ェ止まんなくて、カクカク腰振って、すっげシュールで笑えますよ。俺だって笑いそうになったし……はは」 「さぞかしエロカワイイ顔してたんだろな」 車のガラスに映し出された自身の痴態、自慰の光景を訥々と申し送れば、呉哥哥が俺の耳朶に唇を寄せ、うっそりと呟く。 「淫乱」 「ッ……」 羞恥心で思考が蒸発、顔真っ赤で唇を噛み締めうなだれる。 股間の膨らみを悟られないように足を動かし、目尻に膨らんだ涙をひた隠す。 俺は変態だ。 たぶんきっと、コイツやスワローの指摘どおりのドМだ。 酷くされると感じやすくなるし、辱められるほど興奮する。少なくとも体の方は、いじめられて悦ぶ性癖に作りかえられちまった。 上擦る吐息と股間の疼きを持て余せば、再び椅子に戻った呉哥哥が、片手にもった匙をくるくる回す。 「お努めご苦労さん、お前が体張ってくれたおかげで野良ツバメ好みのプレイがちったァわかってきたぜ」 「主旨変わってないすか」 「本命オトすなら性癖から埋めるのがてっとり早え」 わかるようでわからねえ、ノーマルに生きてえならわかりたくねえ理屈を平然とのたまって、一回転させた匙の先を俺へと向ける。 「こうなったら最後までとことん付き合ってこい。報告たのしみにしてるぜ」 「なんで俺のまわりにはクズとゲスしかいねえんだ……」 俺がクズだからか?否定はしねえが、そこまでゲスじゃねえと思いたい……なんて、ガキを見殺しにした口で言っても説得力ねえか。 下水道を歩いてると人寂しさから独り言が増えていく。地図を信用するなら、このまま真っ直ぐいけば犬舎の下にでる。事が上手く運べば今日でお役ごめん、腐れた縁から解放される。 呉哥哥の気まぐれから始まった野良ツバメとの縁もこれっきりだ。そう思うとちょっとだけ心が軽くなる。 呉哥哥は俺の心の抉り方を知り抜いてる。 単純な暴力ならまだいい、殴る蹴るされて勃っちまったことはねえ。女や男に恋愛感情を抱いたことは一度もねえが、言葉で責められ嬲られると、自然と股間が固くなるのを自分の意志じゃ止めらんねえ。 心の底じゃあ、お仕置きを期待してるのか? スワローの無茶振りを拒みきれなかったのは、あの状況に興奮してるもう一人の俺がいたからか? だから大して抵抗もせず、ズボンをおろして従ったのか。 単調な靴音がコンクリの隧道に響く。 ヤキが回った思考にげんなりして横を向けば、水路に何かが浮かんでる。 なんだ? 「嘘だろ……」 暗い水面にぷかぷかと浮いてるのは、紙幣だ。 数週間前の記憶があざやかに甦る。あの時安宿の便所に流した紙幣と、意外すぎる場所で感動の再会をはたし、開いた口が塞がらない。 いや、意外すぎるってことはねェか。便所に流したもんが下水に辿り着くのは自然のならいだ。 どっちかというとまだ原形をとどめてる事実に驚くべきだ。紙幣って丈夫……いや待て待て、あの時の札と決め付けるのは早計だ。別の誰かが落とすか流すかしたかもしんねえだろ。 「キレイなカラダになって出直してきたのか……」 水路をゆるやかに流れていく紙幣を追いかける。 「あ、待て。いや待ってください」 あの時泣き別れた紙幣が長い旅路を経て帰ってきたと思い込み、貧乏性の哀しさで追い縋り、何本か角を曲がる。 この時、俺の頭は金のことでいっぱいだった。 一度はカッコ付けて捨てたものの、やはり未練は断ちがたい。俺の馬鹿なんで捨てたんだよと痩せ我慢を呪っていたところに再び巡りあい、ちょっとテンションがおかしくなっていた。 結果。 「あー……」 棒きれか何かをさがし、うまいことに先端にひっかけ回収しようとしたが、そんな俺の努力を嘲笑うように紙幣は濁流に巻き込まれ、排水溝の鉄格子のむこうへ吸い込まれていく。 「そんなオチだと思ったぜ畜生!」 膝から崩れ落ち、床を殴って悔しがる。さらばだ俺の金。そして案の定迷った。下水道は複雑に入り組んでいて、一本角を曲がるともう別世界だ。 しかたねえ、切り札の発動だ。 「……ふー」 深呼吸で心を静穏にし、瞼を閉じて集中する。 闇の中で感覚を開き、神経を研ぎ澄ます。暗闇の中でイメージするのは、放射線状に広がる蜘蛛の巣だ。 俺を中心にどんどん版図を広げる蜘蛛の巣をリアルに思い描き、地面に付いた十指を波打たせる。 水の行方、空気の流れ、風の吹く方向……見えない糸を織り上げて何重にもセンサーを張り巡らせる。 指先が熱を持ち、しゅるりと何かを吐きだす。壁の向こうをネズミが走り抜ける。一匹、二匹、三匹……計五匹。視認せずとも糸を伝う振動と、震わす波長でわかる。空気の震えを糸で読む。 「あっちか」 ガスマスクで視界を制限されても、指に直接伝わる情報で正しい方向がわかる。本当なら地図もいらないが、ポーズは大事だ。できればこのチカラは使いたくねェ。 スワローの前じゃ普通の人間のふりをしてた。侮ってもらったほうがなにかと都合がいい。 伸長した糸を回収し、なにかから逃げるように小走りに駆け出す。角を曲がる。匂いがキツくなる。腐臭だ。目的地にだんだん近付いてるのを肌で感じる。 「ぅぐ」 ビンゴ。 涸れた水路に腐った犬が捨てられている。ダドリーの野郎は使われなくなった下水道に犬や人間の死体をうっちゃってたのだ。まともに嗅いだら吐いていた、ガスマスクに感謝する。 蛆が沸いた犬の死体にうっかり同情しそうになるのを自制して進めば、もっとドギツイのにぶちあたる。 おそらく、ビデオにでてた女。全裸に剥かれて捨てられている。とっくに絶命している証拠に、あちこち肉を噛みちぎられ、骨まで見える体のあちこちに大量の蛆が出入りしてる。大半が頭皮から抜け落ちて、疎らになった髪の毛にまで乾いた血がこびり付き、グロい。 胃袋がでんぐりがえり、吐き気が喉を焼いてせりあがる。片腹を押さえ、萎えそうな膝を進める。蠅の羽音がうるせえ。ネズミが死体を食い荒らし、ゴキブリが這い回る。 「もうやだ帰りてえ……」 ガスマスクの奥で半泣きだ。ある程度予想はできていた光景だが、挑むには覚悟が足りなかったといまさらながら痛感する。 ぶよぶよする肉のかたまりを踏ん付け、やっとの思いで梯子に辿り着く。 死体捨て場と化した下水槽は、ちょっとしたプールと同じ大きさだ。ずっと上に丸く区切られた部分がある。マンホールの底面だ。あそこから死体を落としてるのだ。 どうかだれもきませんように。タイミングがかち合うのを警戒、梯子の一番下に手をかけた時…… マンホールがごとりと動き、ゆっくりと持ち上がっていく。 「やべっ」 咄嗟に頭を引っ込め、比較的新しい犬の死体の下に隠れる。マンホールがどけられ、饐えた外気が吹きこむ。 「よいしょ……重いなコレ、ちゃんと足持て」 「相変わらずひっでえ匂い」 「コヨーテの旦那もなに考えてんだか、自分のクビが危ねェ時にデリバリー頼むかねェ」 「マーダーズだっけ。実在したんだな、都市伝説かとおもってた」 マーダーズ。その単語に背筋が凍る。 何かのかたまりを引きずる音に続き、顔の見えない男たちが下世話な会話をくりひろげる。 「しっ、声落とせ!連中に関わるとろくなことがねェ、よそに漏らすなって言われてんだろ」 「わざわざバイヤー装って……トランクに入れてきたんだろ」 「出歩けねェから呼び付けて……そこまでやるかね」 張り込み中に目撃した光景。車輪付きのでかい鞄を持った男が、堂々とゲートを抜ける。俺は見た。スワローも見た。見ていたが、気にもとめなかった。 「街をでる前にもう一稼ぎしてえんだろ?スナッフポルノはいい金になる」 「異常だぜ……」 「旦那が?俺達が?」 「全員さ。そりゃ儲けは出るがよ……最近のあの人にゃ正直付いてけねえぜ、犬への仕打ちもひでえもんだ。ワン公に恨みでもあるんじゃねェか?」 「人間にもな。シャバでスカウトできねえもんだから、業者にデリバリー頼む始末よ。お前見たか、連れてこられたガキ。可哀想に、まだ5歳かそこらじゃねえか。俺の娘と同じ年頃だ」 心臓がはねる。 「運が悪かったんだよ。連中が連れてくるってこたァ、どのみち死んだも同然のガキだ。拉致られたんだか捨てられたんだか知らねーが、このさき生きてたっていいこたねェ」 「だからって犬の餌はぞっとしねェな」 まさか人が潜んでるとは思いもよらず、コヨーテの子分どもが無駄口を叩く。 マーダーズ。 デリバリー。 スナッフポルノ。 犬の餌。 脳裏に散らばった単語の断片を纏め上げ、どんどん気分が悪くなる。 またあの悪趣味なビデオを撮るのか。 マーダーズが出前したガキを使って撮るのか。 過去と現実が錯綜し、喉元で吐き気が膨らむ。耐えろ、我慢しろ。連中が用を済ませて去ったあとに梯子をのぼれ。 「一丁あがり」 ふざけた声と共にドサリと肉塊が降ってくる。 柔い脂肪で覆われた、全裸のオンナの死体が。 乳性石鹸のように白い肌が。丸くふくらんだ乳房が。あちこち噛み傷だらけでごっそり肉がえぐれたふくらはぎが、尻が、犬の下に隠れた俺に覆いかぶさる。 まるで抱き付くように。 脂肪の重みで押し潰すように。 『あなたはかわいいかわいい×××なんだから』 『そっちじゃないって何度言ったらわかるの、女の子は穴で気持ちよくなるのよ。あなたはまだ子どもだものね……いいわ、これからたっぷり教えてあげる……』 女。 俺をこんな呪わしい体質にした、あの人とおんなじ― 「うえっげ、うえェえ゛え゛ッ!!」 限界だった。 反射的にガスマスクをひっぺがして滝の如く嘔吐する、胃の内容物をその場に全部ぶちまける。目鼻口、顔中の穴という穴から汚い体液を垂れ流し、死体の山からのろくさ這い出す。 ガキが捕まってる。 檻の中で膝を抱えて。 ほっとけば犬に喰い殺される。 だから? 関係ねェほっときゃいい、今聞いたことは全部忘れてシカトぶっこけ。 倉庫で見た虚ろな目のガキと想像の中のガキが交互し胃袋が連続で痙攣、苦い胃液が粘りの糸を引く。 「てめえッ誰だ!?」 「賞金稼ぎか!?」 頭上がにわかに騒がしくなる。殺気立った子分どもが梯子を下りて、問答無用で蹴りと拳を浴びせる。くそバレた、もうちょっとだったのに……なんでガマンできなかったんだ、こみ上げたら飲み込め、死んでる女にちょっとさわったくらいで、抱き付かれた程度で 首の後ろで電撃が弾ける。 体の中を駆け抜けた衝撃はすぐに激痛にとってかわり、視界が急速に狭まっていく。 甲高く硬質な靴音が響き、第三の男の声が降ってくる。 「どうした、うるせえ」 「コヨーテの旦那!いえね、死体捨てようと思ったらコイツが沸いて出て」 「下水槽に隠れてやがったんです、たぶん旦那のタマとりにきた賞金稼ぎっすよ。にしちゃあひ弱なナリっすけど……ほら、ナイフ持ってる。ハジキも……地図まで出てきやがった、至れり尽くせりだな」 最後に見たのは、黒革に金属の鋲を打ったゴツい首輪を嵌めた男の顔。 「へえ……ちょうどよかった。種付けし甲斐のありそうな若いオスが手に入った」

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