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第30話
闇と水がよどむ暗渠に物悲しい遠吠えが響く。
「……!?なんだ」
全員に緊張が走り、自然と最後方のガキを庇うように散開。
「マジかよ……」
戦慄の表情で呟くドギー。俺も気持ちは同じだ。眼前の光景は完全に理解をこえてる。
下水道にけたたましく反響する吠え声を伴い、足元に傅く数多の影に守られた影が、大股に歩みくる。
まず目に入ったのはゴツいガスマスク。
やけに見覚えがある……スワローから借りて、俺が落っことしたヤツだ。
最初は誰だかわらかなかった。
無骨なガスマスクを装着した男は、筋肉が隆起した全身を毛皮で覆われている。びっしり生えた剛毛の質感は、犬科の猛獣に極めて近い。
辛うじて誰だか判別できたのは、手足にひっかかった服の切れ端のおかげだ。
「コヨーテ・ダドリー……?」
半信半疑で名前を呼ぶ。
主人に代わって肯うが如く、下水道に解き放たれた犬たちが狂ったように吠え騒ぐ。
皆興奮してる。ドラッグを食わされたせいか。目は爛々とギラ付いて、異形の男を中心に回りながらしきりにしっぽを振りたくる。王の凱旋を寿ぐ熱狂。
「待てよ……なんだそのナリ。お前ミュータントか?そんな素振りちっとも……」
いや、ご同類って可能性もあるか。隠れミュータントは巷に結構いるらしい。
いやいや、じゃなくて。
今それどころじゃねえだろ馬鹿。
「ちょっと見ねえあいだに毛深くなったじゃん」
「…………」
「あ~たんま、わかってんぜ怒ってんのは。俺たちゃお前のショーをぶち壊した、地下室をめちゃくちゃにひっかきまわしてトンズラこいた、はらわた煮えくりかえってんだろ。悪かったよ、謝るってこの通り。こっちも仕事なんだ、アンタ個人に恨みがあるわけじゃねえ」
舌を回せ、能書きをたれろ、時間を稼げ。
ダドリーの突然変異の原因は?
そもそもコイツは人間とミュータント、どっちだ?
手配書にゃ人間と記載されてたが、だとすると先祖返り?
この状況で?
いくらなんでもタイミングがよすぎる。
絶体絶命のピンチに野生の本能が目覚めて……なんて、うまい話があるもんか。
「色々と予定外のハプニングが出来したんだよ……あんたは知ったこっちゃねえだろうけど」
考えろ。考えろ。考えろ。
「俺みてーな雑魚が仕事の選り好みしちゃおまんまの食い上げだ、ホントはやだったんだ、コヨーテ・ダドリーを相手にすんのは……アンデッド・エンドでアンタを知らなきゃモグリだ、ジャンクヤードのドッグマスター、天下無双のエンターテイナー、アナーキーなアーティスト!あ、アンタのビデオ見たぜ、たまげた……すっげー迫力。アレこそ本物のスナッフポルノだ」
口八丁でコヨーテ・ダドリーを持ち上げる。
肝心の本人はおだてられてもびくともせず、ガスマスク越しに不気味な目を光らせている。
俺は唇をなめ、両手を広げて続ける。
「今夜は痛み分けってことで……見逃しちゃくれねえか」
背中がびっしょりと汗をかく。コイツはとんでもなくヤバい。
「もうアンタにゃ手ェださねえって約束する、夜逃げも止めねェよ、だから」
殺気の圧にあとじさった片足が、水たまりに突っ込むのと同時。
「上だ蜘蛛男!!」
ドギーの怒号に次いでガスマスクの男が跳躍、天井を蹴って軌道変更、弾丸の如く猛烈なスピードで飛来する。
「チッ、やっぱこうなんのかよ!」
舌打ちと共に身体を横ざまに投げだせば、肩口に激痛が炸裂。
驚いて横目で見れば、右肩に五本の裂傷が刻まれる。
ガスマスクで覆面したダドリーの爪は、大きく鋭く尖り、寸前まで俺が突っ立っていた地面を削り取る。
「GUUUUUUUUUUU!!」
言葉が不明瞭だ、くぐもって聞き取りにくい。口腔の構造が人間とちがうのか?
犬は序列に敏感だ。強者には無条件に従うようにできている。
「ひっ!」
「目ェ閉じてろ!」
ドギーがガキをかき抱き、すぅと深呼吸。犬の咆哮に似せた発声で懐柔を試みるが、がらがらに嗄れて使い物にならない。
「まだまだ!」
潰れた濁声で言い放ち、おもむろに片腕を突きだす。
先陣を切った犬がドギーの腕に噛み付き、深々と牙を食い込ませる。
「ッ゛…………」
「ドギー!」
「心配すんな、狂犬病の予防注射はバッチリよ!」
空威張りでお門違いな啖呵を切り、あろうことか腕に喰らい付いた犬を抱え込み、やさしく背中をなでてやる。
「いいんだ」
「待、」
「ガキ。コイツを頼む」
「おじさん……」
心配顔のガキにすみやかに犬を託し避難を促す。
ガキとガキが引きずる犬がえっちらおっちら離れてくのを見送ってから、再び正面に向き直る。
「来いよ。お前らが受けた痛み、マッドドッグ・ドギ―が受け止めてやる」
あばただらけの醜いツラに、限りない愛情に満ちた笑みが浮かぶ。
それを皮切りに、猛り狂った犬の群れがドギーにとびかかる。
腕に、脚に、肩口に、次々と牙を突き立てられ、ドギ―の顔が壮絶な苦痛に歪むも、すぐに被虐の喜悦へ塗り替わる。
「……もっと……もっと、もっと、もっと、もっと!!」
コイツ、ドМか。
「なんで俺達の場所が」
「血のあとを追ったんだ」
スワローが顎をしゃくった地面の一点に、真新しい血痕が落ちている。
ドギーが運んだ犬の傷口から滴ったものだ。
迂闊だった。
逃げるのに必死で気付かなかった。
ドギーを責めたい気持ちを自分への怒りで封殺し、スワローと背中合わせに周囲を見張る。
「戻る手間が省けて助かった」
「正気かお前」
「役者はそろった。お誂え向きだろ」
今はドギーが体を張って犬を引き付けてくれているが、それも長くはもたない。
ダドリーは腰を低めこちらを窺っている。
スワローがギリッと歯軋り。
「……なんで野郎がガスマスク被ってんだ」
「拉致られたとき没収された。被ってる理由は……わかんねえ。趣味に合った、とか」
「ざけんな、間接キスだろうが」
「はァ?」
予測不能の発言に目をまるくする。
「……いやまあ間接キスっちゃキスだが……問題そこか?なんで獣化してんだとかほかにもツッコミが大渋滞だろ」
「童貞は勘定に入れてねえ」
……なんだかわからないが不条理だ。
そして俺は、コイツに返しそびれたモノがあることを思い出す。
「スワロー」
訝しげにこっちを見るスワローに素早く囁けば、驚きの表情が会心の色を含む。
「でかした」
「預り物だしな」
「ちょっとは使えんじゃん」
「あんがとよ地獄に落ちろ」
「先約が入ってるもんで」
「順番待ちかよ。笑える」
「一番手はコヨーテ・ダドリー」
「……珍しく意見が合うな」
「地獄の番犬が口開けておまちかねだ」
「ブチ殺されたワン公どもの生まれ変わりなら骨まで噛み砕いてほしいね」
油断なく腰を落とし、その時に備える。スワローも膝を撓め待機。
ダドリーは警戒して動かない。
ドギーの腕から離れた犬が一匹、新たな獲物を求め水たまりをジャンプする……
今だ!
「約束守ったぜ!」
「おっせーよ!!」
これで借りはチャラだ。
気の抜けた会話は敵を欺くブラフ。狙い定めて投げたナイフが宙を旋回、低く風切り疾走するスワローの手の中へ。
残像が水たまりを波立て、再び手に舞い戻ったナイフが光の軌跡を描いて犬の腹をかっさばく―
「フェイントだよ」
その犬は、スワローのドッグタグを食べた犬だった。
早すぎて見えなかった。
「ぎゃうん!?」
急接近を許し、スワローが蹴りあげた泥水を見事にひっかぶる犬。
続けざまナイフを逆手に持ち替え柄で鼻面を突き、同時に跳ね上げた爪先を腹に抉りこむ。
猛烈な勢いで蹴り飛ばされた犬がギャンと鳴いて壁でバウンド、胃液と血にまざった金属片を嘔吐する。
「なッ…………」
ダドリーが、いや、その場に居合わせた全員が息を呑む。
「お前、ドラッグ打たれたんじゃ……」
「さっきまでふらふらだったのに……」
ドギーとガキは唖然。俺はただただ絶句するほかない。
注射を打たれる前と比べ、格段に攻撃が速い。
瞬発力、脚力、筋力……動作すべてが恐ろしくキレを増し、身体能力にブーストがかかってる。
「どういうことだよ……耐性できんの早すぎる。過去にやったことあんなら話は別だが」
「上等、こちとら生まれてこのかた……いンや、生まれる前からルール破りがモットーだ。あそびで色んなの試したし、あんがい前にやってんのかもな。いちいち覚えてねー」
「……だよな……よくよく考えりゃへーきで減らず口叩いてたもんな、ドラッグ打たれた直後だってのに元気すぎた」
「うげ、ヨダレでべとべと」
吐瀉物に塗れたドッグタグを裾で拭い、こなれた手付きで首に通す。
ツバメが翼を広げるように首をくぐったチェーンの先、ちゃちなタグが胸の真ん中にキスをする。
瞠目と深呼吸で闘志をくべたのち、構え直したナイフをあざやかに反転。長い睫毛が縁取る瞼がゆっくり上がり、一際赤く輝く眸が虚空を穿ちぬく。
地獄の底で燃えているようなその目に、ナイフの刃をうっとり映す。
「Welcome back,My Dawg」
おかえり、マブダチ。
相棒を意味する、犬と同じ読みのスラングでナイフの帰還を祝ってから、かけがえのないひとかけらをそっと摘まむ。
「Welcome back,My heart」
おかえり、俺の心臓。
あるべきものをあるべき場所に取り戻し、スワローは宣戦布告する。
「反撃開始だ」
|鉛の心臓《ブレイブハート》を取り戻した野良ツバメは無敵だ。
ケダモノどもが犇めく下水道で、|最後の戦い《ラストマッチ》の火蓋が切って落とされる。
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