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Chinese New Year
快楽天の春節は無礼講だ。
春節とは旧暦の正月のこと。中華圏では最大の祝典とされており、この期間は軒先に鬼灯のようなランタンが輝き、ハリボテでできた巨大な獅子や龍が練り踊る。
地面では甲高い破裂音とともに爆竹が旋回し、こぞってたたらを踏むガキどもが嬌声を上げる。
交わされる言葉は早口な中国語が主で、異国に迷い込んだような錯覚をきたす。
「わーっ龍だ、食べられちゃうよ!」
「逃げろー!」
「ねえ|妈妈《マアマア》、飴買って。金魚のがいい」
「ご飯が入らなくなるから我慢なさい」
子供用の|旗袍《チイパオ》を着たお団子頭の女の子と、|長袍《チャンパオ》の袖を折り返した弁髪の男の子が追いかけっこしている。親の袖を引き、ちゃっかり駄菓子をねだるヤツもいる。
「おっと」
お団子頭の幼女が隣を歩くピジョンの膝に衝突、手に持った|糖胡蘆《タンフル》を落とす。
コイツは一口大の果実を水飴で固めたお菓子で、串刺しにして食べ歩くスタイルが親しまれている。
「大丈夫?」
「う、うん」
「よかった」
顔を覗き込み、優しく声をかけるピジョンにガキが頷く。
その手が空っぽな事に気付き、視線が足元へ行く。
「あ……」
地面に落っこちた糖胡蘆を見下ろし、みるみる目が潤んでいく。
涙ぐむ幼女と地面に放置された糖胡蘆を見比べ、ピジョンは何事か難しい顔で思案する。
「おいまさか」
「しないよ?」
「それはだめだろ」
「だからしないって」
俺の言わんとしていることを悟り、ピジョンが説得力のない半笑いで否定する。
おもむろにしゃがみこみ、砂に塗れた糖胡蘆を拾い上げるや息を吹きかけ、軽くはたいて汚れを落とす。女の子がきょとんとする。
「ちょっと待ってて」
手近な屋台へすっとんでくや、できたてほやの糖胡蘆を買って帰る。
ピジョンは女の子の目を見てにっこり笑い、それを手渡す。
「はいどうぞ。今度は落とさないで、走っちゃだめだよ」
「謝謝」
元気よく返事をして駆け去る女の子。途中で見返り、手を振るのを忘れない。
往来を埋め尽くす人だかりにガキが紛れて消えるまで、ピジョはでれでれ手を振ってやがる。相変わらず子供好きというかお人好しというか……本人がいいならいいんだが。
「……で、どうすんだそれ」
結果としてピジョンの手には、地面に投下された糖胡蘆が残された。
「食べるよ?もちろん」
「やっぱりか」
「もったいないじゃないか。大丈夫、10秒ルールだよ。下に落ちた物でも10秒以内に拾って食べればセーフなんだ」
ガキに返すのは抵抗あっても自分で食べるぶんにゃ問題ないらしい。
「中国のお菓子って綺麗だよね」
「こっちのは毒々しいよな。青いカップケーキとかどんなイロモノだ」
「中身はちゃんとおいしいよ」
甘酸っぱい糖胡蘆をねぶり幸せそうに笑み崩れる。どうやらお気に召したらしい。
「イケる。得しちゃったぞ」
「ただの子供好きだと思ったら食い意地張ってるいやしんぼかよ。そーいやスワローは?やけに静かだな」
口から先に生まれた天邪鬼が一連の茶番劇に野次も飛ばさねえとは珍しい。兄貴がやることなすこと逐一ケチ付けるのが生き甲斐なのに。
「っでぇな、よそ見すんじゃねーガキぶっ殺すぞ!」
後方で恫喝が炸裂、ピジョンとそろって振り向く。
予感は的中、スワローが凄まじい勢いで子供を怒鳴り付けていた。
「何やってんだスワロー!」
「このガキが人の足元に爆竹投げやがったんだ殺すぞ!」
「爆竹じゃないもんネズミ花火だもん!」
「似たよーなもんだろが!」
「子供のしたことに目くじら立てるなって、せっかくのお祭りなんだから楽しもうよ、な?」
「道のど真ん中でご機嫌なタップを踏んじまったじゃねーか、スニーカー焦げたらどうすんだ、責任とれんのか」
ばた付くガキの後ろ襟を掴んでぶらさげるスワローを、ピジョンがあたふた宥める。スワローが舌打ちしてガキを放り出す。地面に尻餅付いたガキは、泣きじゃくりながら逃げていった。周囲の連中は俺たちを遠巻きにしている、完璧悪目立ちだ。
「まあ……ドンマイ」
度重なるフォローの徒労感でぞんさいに付け足す。
コイツのお守はピジョンの仕事、俺は関係ねえ。そもそもガイドを頼まれただけの赤の他人だ。
スワローの腹立ちはまだおさまらず、スタジャンのポケットに手を突っ込んでぼやく。
「人の足元に爆竹投げて笑うとか快楽天の連中は蛮族だな」
「一握りだよ、大半はフツーだ。祭りでテンション上がってんのは否めねーけど」
半分チャイニーズの身として一応弁明しておく、快楽天には顔見知りも多く住んでいるのだ。まあ直属の上司に限っていや蛮族って表現は極めて妥当だ。
「カリカリするなって。甘いものでも食べて落ち着けよ」
「何これ」
「糖胡蘆だよ。フルーツに水飴かけて固めたお菓子。だよね?」
「ああ」
ピジョンに聞かれて頷く。スワローは露骨にしかめ面。
「ンな甘ったりぃのいらねー」
「おいしいのに。人生損してる」
「食べ残し向けんなしっしっ」
「物欲しそうな顔してるから分けてやろうと思ったのに」
「テメェの唾にまみれたのなんかいるかばっちい」
手の甲で追い立てるスワローにピジョンはおかんむり、薄氷のごとく苺にコーティングされた飴をバリバリ噛み砕く。
「待てよ、そんなにしたら」
「いたっ!?」
「いわんこっちゃねえ、糖胡蘆食うときは破片で口ん中切りやすいんだ」
「先に言えよ……」
ピジョンは涙目だ。それでも串をしっかり握って離さねえあたりあきれた食いしん坊。正面に立ち、「ん」と顎をしゃくって口を開けさせる。素直に従ったピジョンの口内を観察、太鼓判を押す。
「たいしたこたねェ。唾付けときゃ治る」
「何もしなくていいってことだね」
「お利口さんだな」
スワローがこっちをチラチラ見ながら舌打ちしている。スニーカーでくり返し地面を蹴り付け、あからさまに不機嫌な態度。兄貴をとられそうでやっかんでるだろうが、デカい図体して幼稚だ。
「ぁいた、なんで蹴るんだよ!?」
「来い」
「やだ」
「いいからツラ貸せ」
尊大に顎をしゃくり、親指を立て命じるスワロー。ピジョンはうろたえて拒否するものの、スワローの眼光に負けて付いていく。祭りの喧騒から離れ、物陰に引っ込んだ二人を目の端で観察。
スワローが嫌がるピジョンに詰め寄り、顎を掴んで無理矢理口をこじ開ける。
ピジョンは右向き左向き、弟の威圧から逃れようとじたばたするが壁際に追い詰められてはどうにもできず、スワローに口を塞がれる。
「唾付けときゃ治るたあ言ったけどさ……」
荒療治に突っこむ気力も失せる。あの兄弟は距離感がバグってるんで、いちいち驚くのも不毛だ。
本人たちはバレてねえと思ってるんで見ないふりをしておく、余計な口出ししてスワローにど突かれんのもやだし。
スワローとピジョンが乳繰り合ってるあいだ、胸ポケットの煙草を咥え、春節のガイドを任された経緯を反芻する。
その日、俺はピジョンとスワローの部屋に来ていた。
スワローに借りていた(もとい押し付けられた)ポルノビデオを返しにきたのだ。
「ヌケた?」
「開口一番それかよ、オブラートにくるめよ」
「勃った?」
「萎えたよ」
「チャイニーズならチャイナドレス萌えんだろ」
「俺が女苦手だって忘れてね?わざとか、わざとなのか」
この大前提をスワローがド忘れしてねェなら嫌がらせの疑いが濃厚。人が嫌がることを進んでやるのがスワローの流儀なのだ。
「しかもなんだこのビデオ、設定めちゃくちゃじゃねーか。でてくんのなんちゃって中国人ばかりだし春節の祝いにターキー持ってくんじゃねえよ」
「しっかり見てんじゃん」
「押し付けられた以上目ェ通さなきゃもったいねェだろ。ただで返すの癪だし」
顔を覆った両手の隙間から見通した自分をほめたい。
俺とスワローが玄関先で馬鹿話をしてると、奥からひょっこりピジョンがやってきた。
「きてたんだ。お茶淹れるから飲んでけば?」
「もー帰っから気遣い無用」
「春節の話してたろ。確か中国の正月のお祭りだよね、快楽天で毎年やってる」
「盗み聞きしてんじゃねー」
「でかい声で話してるから聞こえたんだよ」
スワローの皮肉を心外そうに一蹴、やけにそわそわと出てきて俺に食い下がる。
「春節って何するの?」
「何も……ご馳走作って皆で食べて」
「うん」
「食いもんの屋台もでる。軒先に真っ赤なランタン鈴なりに吊るして」
「うんうん」
「老若男女が夜通し大騒ぎ、龍や獅子の張り子に人が入って練り歩く」
「楽しそうだね」
「打ち上げ花火もやるぜ。爆竹にゃ厄除けの意味もあるんだ、ぱーっと騒いで悪いもん追い払おうって」
「聞いたかスワロー花火だって、見たくないか?」
ピジョンの目が輝きだす。いそいそスワローの袖を引っ張りゃ邪魔っけに振りほどかれる。
「テメェは何年たってもおのぼり気分がぬけねェな、行きたきゃ一人で行けよ」
「だって快楽天だろ?ちょっと敷居が高いっていうか……あ、ごめん」
「気にすんな」
ピジョンの言い分もわからないではない。快楽天はアンデッドエンド最大のチャイナタウン、あそこじゃ白人の方がマイノリティだ。連れがいないと入りにくい。まあ、スワローみてェにそーゆーのを全然気にしねェのもいる。ちったあ気にしてほしいのが本音だ。
「俺なんか全然気にしねーけど。うまい店があるんだ」
「お前に教えたの後悔してるよ」
「劉は?土地勘あるんだろ」
「あー……まあな……」
「春節は来週だよね、準備に大忙し?」
「恥ずかしいから引っ込んでろよ」
「聞いてるだけだろ」
「顔にでかでか行きてえって書いてあんだよ」
ピジョンが「本当?」と目に疑問を浮かべるもんで、黙って頷き返す。
「わかった。認める。行きたい」
「却下」
「すごく行きたい。何が何でも行きたい」
「一人で行けば?ミーハー兄貴のキョロ充観光に付き合うほど時間を安売りしてねーよ」
スワローはまったく気乗りしてない、面倒くさい本音を隠しもせずピジョンを突き放す。ピジョンはむきになって騒ぎだす。
「年に一度の春節の祭りだぞ、生で見たくないのかよ?きっとすっごい盛り上がるぞ、おいしくて珍しいものがいっぱい出るぞ、母さんに土産話ができる」
「母さん引っ張りだしゃよろめくとでも思ってんのか」
「サシャやスイートだってそれでそれでって聞きたがる」
「女に見栄張りてェだけか、終わってんな」
「見たくないのかよ打ち上げ花火。ランタン。張り子の龍」
「子供だましのオンパレード」
「踊りに行くなら別の日でもできるだろ、たまには俺のリクエスト聞いてくれよ」
よっぽど春節に飛び入りしたいのか、塩対応の弟にめげずに纏わり付く。なんだか哀れになって助け舟をだす。
「話のタネに一度実物見てみんのもいいんじゃねーの?子供だましかどうか決めるのはそれからでも遅くねェ」
「外野は引っ込んでろ。ていうかさ、観光なんて最初の頃腐るほどしたろ?マーダーミュージアムだって連れてってやったじゃん、こっちに越して3年になるんだ、尻軽に行ったり来たりしねーでいい加減落ち着け」
突然ピジョンがキレた。
「血なまぐさくない観光がしたいんだ!人皮ランプシェードとかハンドメイドの拷問具とか見たくないんだよ!」
「鉄の処女は笑えた」
「そのセンス理解できねえ」
マーダーミュージアムの体験がトラウマになってるらしいピジョンに同情する。実際悪趣味な観光名所だ、アンデッドエンドの住人が全部あの手の見世物を面白がれる社会不適合者とはかぎらない。
呉哥哥とスワローは大手を振って楽しんでたみてェだがコイツらは同類枠だ。
「最低限度の|文化的で健康的《クリーンでヘルシー》な観光がしたいんだ……高い見物料払って食欲失せる観光はいやなんだ……」
ちんまり膝を抱いて嘆く姿に哀れを催し、悪い癖で安請け合い。
「わかった。連れてってやる」
「ホント!?」
ピジョンが歓声を上げてこっちを仰ぐ。疑うことを知らねえ、まっすぐな目が眩しい。
「来週なら空いてるし……クソ上司も会合で一日フリーなんだ。ざっと回りゃ気が済むよな」
「劉……!」
目が潤んでやがる。長年の念願だった普通の観光が叶って泣くほど嬉しいらしい。
「あ゛ァ゛?」
濁音の恫喝にビクリとして振り向けば、スワローが極悪な顔でガンをくれていた。
「テメェが駄バトをエスコートするってか?ポルノビデオで勃ちもしねー童貞の分際で?」
「誰かさんがバックレたんでな」
「黙ってろよスワロー、お前は踊りにいくんだろ。女の子と楽しんでくれば?俺は劉と春節の見物に行くよ、快楽天で沢山ハオチーとニーハオしてくるんだ。張り子の龍と撮れるかな、母さん宛の手紙に入れたい」
来るぞ。
案の定スワローは俺とピジョンをひっぺがし、堂々と宣言した。
「行く」
というわけで、三人で春節の祝いに繰り出した。
中華圏最大の慶事とあって、快楽天の街並みは華やかに飾り付けられていた。赤と金を基調にした絢爛な装飾が、オリエンタルな雰囲気を引き立てる。
口髭も見事な張り子の龍がうねり狂い、獰猛なあぎとを開いて通行人にかぶり付く。じゃれかかられた幼子が怯えて泣き出し、二重三重に取り巻く人垣の笑いを誘っていた。
「あれ、俺がやられたらトラウマになるなあ……」
ピジョンがやや引き気味に子供に同情していた。糖胡蘆はとっくに食べ終え、今は月餅を齧っている。
「きみ外の人?綺麗な顔ね」
「お店の二階でお茶しない?」
「行きてェのは山々なんだけど、お荷物が二匹いてさ」
スワローは|旗袍《チイパオ》の女どもにモテモテ。艶っぽい柳腰に手を回し、スリットから覗くふとももをおさわりしている。
「お前は?撮んねーの」
「ハリボテドラゴンに興味ねー。本物なら別だけど」
女どもを適当にあしらってもどってきたスワローに聞けば、そっけない返事をよこされる。兄弟でも興味の方向性は真逆だ。
興ざめな表情で心を読んだか、スワローは肩を竦めて受け流す。
「快楽天なんざしょっちゅうきてるし、目新しいことなんか別にねェよ」
「毎度メシ食いにきてるしな。俺のおごりで」
「根に持ってんの。年上なんだから大目に見ろ」
スワローの視線の先では、ピジョンがポラロイドカメラを構え張り子の龍を撮りまくっていた。
「てか、アイツがはしゃいでっとしらける」
「何で付いてきたんだよ」
「俺が見てねーとこで兄貴に兄貴風吹かすとかなめたまねされたかねーから」
ふてくされてそっぽをむく。仲間外れにされるのは嫌でも意地を張りてえ年頃なのだ。
「スワロー、劉、一緒に撮らない?」
ピジョンが張り子の龍の前で声を上げる。スワローが中指を突き立てる。俺は億劫げに歩み出し、龍を真ん中に挟んでやる気のねえVサインを作った。
「はいチー」
ピジョンが言いかけたのを遮り、煙草を咥えたスワローが大胆に飛び入りする。
龍のド真ん前、俺の横に立ち塞がる弟にピジョンが不満をもらす。
「そこに立っちゃ邪魔だろ、龍が主役なのに見えないじゃないか」
「お前が呼んだんだろーが」
「頭さげて、しゃがんで」
「チッ……わーったよ、これでいいかって何しやがんだ!?」
スワローの口から煙草をむしり取り、しっかり踏み消してからポケットに入れるピジョン。
「お前って本当馬鹿だな、コイツは張り子でできてるんだぞ、煙草の火が燃え移ったら大惨事じゃないか」
「燃えよドラゴンだな」
「快楽天を焼け野原にする気か」
「いいから早く撮ろうぜ、視線が痛てぇ」
俺が消え入りそうに縮こまって促すと、衆人環視の状況に気付いたピジョンが大いに恥じ、「はいチーズ」と小声でシャッターを切った。
次にピジョンが足を止めたのは一軒の店。
「貸衣装屋だって」
「いらっしゃいお客さん、うちは|旗袍《チイパオ》|長袍《チャンパオ》よりどりみどりですよ」
丸眼鏡に黒い|長袍《チャンパオ》、なんだか胡散臭い主人が揉み手で歓迎の口上を述べる。
「|長袍《チャンパオ》って?」
「中国の伝統衣装だよ、女が着るのが|旗袍《チイパオ》で男が|長袍《チャンパオ》」
「カンフーマスターのコスチュームか」
スワローが首を突っ込む。珍しく乗り気だ。クソ可愛げなくてもやっぱり男の子だな、としみじみする。
「着てみない?せっかくだし」
「俺はパス」
「なんでさ」
「似合わねーし」
「そんなことないって」
「え~……」
渋る俺にピジョンがせがむ。
「仕方ねえな」
外で待ってるのも退屈だ。空気を読め、俺。ガイドを引き受けた手前お祭り気分に水をさしたくねえ。
主人が豪語したとおり、店の中には多彩な|旗袍《チイパオ》と|長袍《チャンパオ》が取り揃えられていた。ピジョンはとっかえひっかえ、どれにしようか悩んでいる。
「派手すぎかな……こっちはサイズが合わない」
「股間にパンダがプリントされてるのでいいだろ」
「お前に譲るよ」
「笹食ってろ」
「豆持ってこいよ」
鼻歌まじりに衣装をひっかき回すスワローの横に並び、厭味ったらしく耳打ち。
「『着せ替えショーなんてごめんだね、一昨日きやがれ』って言わねーの」
「兄貴の面白ファッション見れるチャンス、逃がしたらもったいねーじゃん」
スワローの頭ん中は丸見えだ。チャイナドレスのピジョンを辱めてやがる。勝手にやってくれ、と退散したくなったが、俺の予想が正しければじきに出番が回ってくるはずだ。
「決めた、これにしよ」
店ん中にはカーテンで仕切った試着室がある。ピジョンが引っ込んだのち、スワローは隣の試着室に入る。
ため息を吐き、適当な長袍《チャンパオ》を持って残りの試着室にイン。
カーテンが開いたのはほぼ同時。
長袍に袖を通して出てきたスワローを、丸眼鏡の主人がおだてまくる。
「素晴らしい、当店自慢の衣装とお客様の素材のよさが噛み合って男ぶりが上がってますね!ワイルドな金髪にモードのショート丈、鮮やかな瑠璃紺の長袍が映えて、新進気鋭のカンフースターさながらですよ」
「ドーモ」
「宣伝写真撮ってもいいですか、飾らせていただくんで」
「好きにすれば」
立て続けにストロボフラッシュが焚かれる。
スワローが選んだ長袍《チャンパオ》は丈が短めのアクティブなデザインで、裾に飛燕の刺繍があしらわれていた。
袖の裏地にも挿し色の赤が覗き、全体的にツバメをモチーフにしていた。
一方ピジョンはといえば……。
「どうかな?」
「鳩っぽいな」
ピジョンが選んだのは灰色地の詰襟部分だけ光沢帯びた緑で、どことなく鳩を思わせる長袍《チャンパオ》。
スワローと比べて布を多く使っており、見た目がだぼっとしている。胸元には緑の飾り紐が付いていた。
「長袍《チャンパオ》ってカソックに似てる。見た目も着心地も」
「着たことあんの?」
「前にハロウィンで」
前垂れを摘まみ、裾を踏んでコケかけながら一回転。横目で弟をまね、「あたァ!」「てやァ!」とへなちょこな手刀を切る。間の抜けたかけ声が脱力を誘うも、期待をこめた目を裏切れずおざなりに拍手すりゃ、「へへ……」と頭をかいて照れる。
「劉も似合ってるじゃないか」
「お世辞はいい」
「何でそんな卑屈なのさ、本当だって」
ピジョンに重ねて言われ、カーテンを開けた向こうの鏡を一瞥する。俺が着てるのは一番オーソドックスなタイプの黒い長袍。ダークブラウンのボサ髪と隈のできた目が見事に浮いている。
「チャイナタウンの漢方薬局の奥で、煙管をふかしてる情報屋みたいでカッコイイよ」
「遠回しに胡散臭いって言いてえの」
「おい駄バト、褒める相手間違えてんぞ」
「お前は何着ても似合うんだからひっこんでろよ」
スワローはすっかりなりきって、とんだりはねたりカンフーのまねごとをしていた。運動神経とセンスがずばぬけてるせいか、飛び蹴りと手刀の切り方はなかなか様になってる。
「あ」
ピジョンが唐突に声を上げ、アクションを披露する弟の胸元に手を伸ばす。詰襟がはだけ、尖った鎖骨が覗く。
「だらしないなあ」
「崩しの美学だよ」
「結べないだけだろ」
仕方ないなとぼやき、弟の前に立って紐を結んでやる。蝶々結び。
「結ぶタイプの服が苦手なのは変わってないな」
「いらねー紐多すぎんだよ、こんがらがっちまった」
「また片結びでごまかして……団子になってほどくの大変だ」
ピジョンが漏らす呟きには、手の焼ける弟への情愛が滲んでいた。スワローは高飛車に顎を反らし、ピジョンのご奉仕を受けている。
「できたぞ」
満足げに離れていくピジョン。スワローはまんざらでもない顔。
何見せられてんだ俺は。
「ちょっと来い」
「ん?」
人さし指を鉤字に曲げ、ちょいちょいと招く。
無防備に寄って来たピジョンの首元、右に傾いた蝶々結びを手早く直してやる。
「人の世話焼く前にテメェのナリを見な」
長袍の着付けは素人にゃむずかしい。
洋モノのシャツと違ってあちこち紐を結ぶ必要があるから、教えてやんなきゃいけねえかもと思ってたのだ。
コイツは弟の世話を焼くのに夢中で、自分のことを疎かにしがちだから。
「できたぜ」
出来栄えに満足して顎を引く。整った胸元を見下ろし、ピジョンは照れくさそうに礼を述べた。
「謝謝」
「どーいたしましッで!?」
脛に衝撃が炸裂。スワローに蹴られた。
「おまっ、骨、ひび!?」
脛を抱えて悶絶する俺の横を素通り、ピジョンと向かい合うなり無造作に紐をほどく。
人がせっかくやってやったのに。
「スワロー何す」
「黙ってろ」
兄を鋭利な眼光と恫喝で黙らせ、性急な手付きで紐をいじりまくる。
輪っかに先端をくぐらせ引き絞り、蝶々結びにしようとして失敗。結び目がぐるんと縦になる。
「よし」
「『よし』じゃねーよ逆立ちしてんだろ!」
「最近のモードだよ、知らねえのか」
「へそ曲がりだから結び目も曲がんのか」
「逆さまだぞスワロー」
俺の全力ツッコミとピジョンの遠慮がちな指摘にシカトをくれ、兄貴の腕を掴んで踵を返す。
「あ~~~も~~~厄日か今日は……」
貸衣装屋を出りゃピジョンとスワローは既に消えていた。どこ行っちまったんだ……もーほっとくか。ガイドの役目は十分果たしたはずだ、脛の痛みを考えりゃ釣りがくる。
アイツらも迷子になる年じゃなし、兄貴風を吹かせるのは打ち切りだ。
ガイドの仕事を途中放棄し、飯でも食って帰るかと往来を歩いていると、けったいなものを見た。
「糖胡蘆一丁。右手前から三番目、でっけえの頼む」
「哥哥には世話んなってるから一本追加しとくよ」
「マジで?ラッキー」
ガラガラ蛇の体表のような銀鼠の長袍《チャンパオ》を纏った男が、屋台の糖胡蘆を買っていた。
糖胡蘆を咥え、振り向いた男とばっちり目が合った。
「劉じゃん。ダチのガイドするとか言ってなかったっけ」
「そっちこそ、幹部会は終わったんすか」
「退屈な会議だったぜー。上の連中ときたら冗談通じねーから肩こっちまった、新年早々|老頭児《ロートル》の説教なんざ聞きたかねーっての」
春節には蟲中天の幹部会が開かれる。
呉哥哥にも召集がかかったはずだが、格式ばった会合に嫌気がさしてフケたらしい。
「あんまりサボってると干されますよ」
「上手くやるからダイジョーブ」
「……はあ。なんか面白い話ありました?」
「|王大哥《ワンダアコー》が腹上死したってマジっぽい。今日来てたのは影武者だな、耳の形が変だったもん。知ってっか劉、整形かどうか見分けるコツは耳だ。大半はツラあ変えても耳の形まで気が回らねー」
こんないい加減な男が幹部をやってて大丈夫なんだろうか。幸先が不安になる。
「バンチに載ってりゃ悪目立ち叩かれるの自業自得っすけどね」
呉哥哥が不躾に俺を眺め回す。
「……変ですか?」
やっぱり着るんじゃなかった。
長袍《チャンパオ》の裾を摘まんで顔色を窺えば、呉哥哥は行儀悪く串の尻を振りながら、片手の人さし指をくいと曲げる。
「ちょいとツラ貸せ」
言われるがまま踏み出せば、だしぬけに手が伸びて胸元の紐を緩めていく。突然の行為に当惑を禁じ得ない。
「長袍《チャンパオ》は礼服や晴れ着の扱いだ。テキトー着崩してっとうるせーヤツもいる」
「うるせーヤツって」
「俺様ちゃんが気に食わねーでパシリの素行含めて粗さがししてる連中さ」
硬直する俺をよそに、呉哥哥はなめらかな手付きで紐をほどいてまた結び直し、蝶々結びを拵える。
言葉に詰まった。
「…………謝謝」
ざまあねえ。
恥じて俯く俺の鼻先に、真っ赤な苺の糖胡蘆が突き出される。うっかり受け取っちまってから、非常識な疑問に突き当たる。
「その頭で幹部会行ったんすか。黒く染め直すとかは」
「この色気に入ってんだよ」
愚問だった。
遠くで爆竹が弾ける音が連続、軽快なお囃子が聞こえてくる中、大人然として長袍《チャンパオ》を着こなす呉哥哥と並んで糖胡蘆を噛み砕く。
呉哥哥の紐の結び方は手慣れていた。
遠い昔、ガキの着替えを手伝ってやったことがあるのかもしれない。
ピジョンがスワローの、俺がピジョンの、呉哥哥が俺の襟元を正したように。
自分のことほど案外よく見えねえもんなのだ、きっと。
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