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第2話:再会
ロベルトと再会してから一週間が経った。その間に一度も連絡は訪れず、結局以前と同じように一夜限りの関係になってしまったようだ。まあこの界隈ではよくある話だし、付き合いたいわけでもなかったから気にはしていなかった。しかし基本的にマメに連絡をする性格だったから不思議には思っていた。
あの晩の出来事は、悪くはなかった。お互い即物的な関係を望んでいたし勝手も知っていたから十分楽しめた気がする。だから俺が何かしてしまったのだろうかとか、気に触ることをしてしまったのだろうかとか、そんなことを考えては自分でそれを否定していた。
「まあいいか……」
足元でじゃれついていたガットを抱き上げて、聞いてもいないだろうけどぽそりと呟いてみる。腹のふわふわしたところに鼻先を埋めてみるとくすぐったいのか嫌がるように足をばたつかせた。長い尻尾で俺の頬をペシペシ叩いてくる。昨日爪を切ってやったからいくら引っ掻かれてもそこまで痛くはなかったし、本気で嫌がる鳴き声が面白くてついやってしまう。猫は犬と違ってそこまで獣臭くないので、その点もいいところだ。
今でこそここまで可愛がっているが、本当はすぐにでも外に返そうと思っていた。そうでもしないと野生の生き方を忘れてしまうと危惧していたからだ。しかし一度ドアの外に出してバタンと扉を閉めたのだけれどいつの間にかまた部屋に戻っていた。どうやら浴室の窓からこっそり入ってきたらしく、普段換気のために開けている隙間に体を捻じ込ませて帰ってきたらしい。なるほど、関節が柔らかいというのはこうした時に役に立つのだろう。そんなこんなで未だに首輪はつけていないが早くも新たな住人としてこの部屋に住み着いている。
手のひらに収まってしまうような小さな体のくせに生命力だけは十分に有り余っているらしく、まだ半分くらい残っているキャットフードの箱を見つけてはカリカリと爪を立てていた。全く、さっき食べたばかりなのに食欲だけは一人前だ。もともとガリガリに痩せていたのだから少し多いくらいでも今は問題ないのだろうけれど。でも食べ過ぎは何事も良くない。絶対にとの届かないところに隠しておかないと、いつか勝手に見つけて食べてしまいそうだ。
深皿にたっぷりの水を入れてやる。こうしておけば俺が帰ってくるまでに全部飲み干してくれる。最初は面倒だと思っていたけれど、想像以上に頭が良くてそこまで手間はかからない。それに部屋に自分以外の誰かがいるというのは存外心地よくて、次はどの猫缶を買ってやろうかとか、そういうことを考える楽しみも生まれてきた。
「今日は学校だしお前は一人だぞ、大丈夫か?」
「にゃん」
「頼むからコードはかじるなよ?」
「にゃーん」
猫相手に話しかけるなんて我ながらバカらしいと思うが、ガットはいつも理解しているかのように返してくれる。そういえば実家を離れローマに来てからこうして会話をするのは初めてだった。誰かに会わないと一日誰とも話さないなんてことはザラだったし、それが普通と思っていた。だから今こうして(相手は猫であろうとも)話す相手がいるというのは精神衛生上いいのかもしれない。
携帯と財布をカバンに入れてカップに残っていたコーヒーを飲み干す。流しに置いて洗うのは夜にしようと思い鍵を手に外に出た。ガットは見送ってくれるわけでもなく大欠伸をしながら毛布にくるまってうとうとしている。やれやれ、本当に気まぐれな生き物だ。
「行ってきます。いい子にしてろよ」
そう言い残してドアを閉める。休暇と雪による休講を挟んでいたので学校に行くのは久しぶりだ。研究室には誰かいるだろうか。頭の中で書きかけの論文を開き、今日やるべきことを考える。とりあえず教授に借りた本は読んでおくか。それとビブリオのチェックもしたい。いろいろ調査していくのはこれからだろうけど、今日はそこまでできたら御の字だな。ガットもいることだから家でできることは持って帰ろう。本当は持ち帰りたくないけれど、下手に一人にしておいて部屋を荒らされても困る。
なるほど、ペットを飼うと婚期が遅れるというのは都市伝説ではなさそうだ。実際あの日以来俺はバーにもイベントにも行っていない。家でおとなしくガットの相手をしながら本を読んで一人の夜を過ごしていた。
そもそも出会いなんてそこまで多くないというのにこのままだと本当にひとりぼっちだ。別にロベルトとどうこうなりたかったわけじゃあないが、一晩寝てそのまま音信不通だなんて失礼にもほどがあるだろ。せめて食事をするとか、メールの一つくらいするとか。だからあいつはモテないんだ。
いつの間にかロベルトへの愚痴にすり替わっていた時、ふと目の前に見知った顔がいることに気づいた。
「……ジュセッペ?」
「お、ルーカ!」
それはまさに、あの晩偶然バーで出会ったジュセッペその人だった。連絡先は置いていったがこちらからも連絡はなく、その後どうしていたのか気になっていたのだ。この日のジュセッペはあの晩とは違いラフな格好で、ネイビーのセーターに黒いジャケット、ベージュのチノパンと茶色の革靴といったいかにも「この大学の学生です」といった風だった。
「なんでここに」
「たまたま用事があってさぁ。待ってたらお前に会えるかもって思ったら本当に会えちゃった」
確かにあの時、週に三日は学校に行っていると言った。ただそれから休講だったり除雪作業だったりで授業はなく、俺も久しぶりに登校したのだ。もしこれで俺が来なかったらこいつはずっと待ちぼうけだったのだろうか。いや、さすがに途中で帰るだろうけれど鼻の頭がほんのりと赤く染まっていて、俺が思っているより長い時間ここにいたことを物語っていた。
「寒いだろ、腹減ってないか? どっかでゆっくり話せたらいいと思ってたんだ」
幸い今日は授業がない。それに早めに学校に来ているし差し迫って締め切りが近い論文もないから、ランチに行く程度の余裕はあった。この前勝手に帰ってしまったことへの謝罪も込めて誘ってみると、至極嬉しそうな顔をしてジュセッペは頷いた。
食事に誘ってここまで全力で喜ばれるのは一体いつ以来だろうか。前の彼氏はこちらが誘っても「忙しい」の一辺倒だったし、たとえどこかに出かけたとしても何かしら用事をつけてすぐに帰っていた。そんなに俺と一緒に居たくないのか、と思っていたが今思い返すと浮気相手との用事があったのだろう。そんなことを数ヶ月も続けていたからこんな反応を見ると俺も気持ちが上向いてくる。
「何がいい、この辺だと大した店はないが」
「何でもいい……っていうのもお前に悪いよな。ルーカおすすめの店があったらそこがいい」
「わかった。好き嫌いは?」
「特になし。うまければそれで大丈夫」
そういう細かい気遣いも嬉しかった。それに紹介する俺も「絶対にうまいと言わせよう」とやる気が入ってくる。結局このあたりで一番美味いコーヒーを出すカフェを選んで、そこに案内することにした。店に向かう間も俺たちは当たり障りないことをポツリポツリと話し、この一週間何をしていたのかを共有した。
俺についてのことはこの前の晩にあらかた話してしまっていたから特に何も話すことはないと思っていたのに、ジュセッペは上手に話の切り口を使って、カフェに着くまでの二十分間があっという間に感じるほど、俺たちはずっと話し続けていた。カフェについて、ランチのスパゲッティとサラダを注文してからもずっと会話は続いていたけれど、不意にジュセッペが神妙な顔をして押し黙った。まるで今から告解でもするような、そんな表情だったから俺も心配になって「どうした」と尋ねてみる。すると何度か言いにくそうに視線を左右に泳がせて、恐る恐ると口を開いた。
「ルーカさぁ、あの店って結構通ってんの?」
「結構、とまではいかんが。最近は忙しくて、お前と会った日は久しぶりに行ったんだよ」
「そっか。……なんかさ、これは聞いた話なんだけど」
「なんだよ、どうしたんだ急に」
運ばれてきたトマトソースのスパゲッティには目もくれず、ジュセッペは水を一口飲んで大きく深呼吸をした。よほど大事なことらしい。俺は別に焦っているわけでもないのでサーモンの乗ったサラダを口に運ぶ。塩気の効いたいいサーモンだ。ガットにも食わせてやりたいけれど少しあいつにはしょっぱいかな。
いつでもどうぞ、と言わんばかりの態度が良かったのかジュセッペはもう一度だけ水を飲んで、意を決したように俺の方をじっと見つめてきた。俺よりも明るいグリーンの瞳だということに、この時初めて気がついた。
「あの店の常連がさ、最近行方不明になったらしい」
「……行方不明?」
聞かされたのは、思いもよらない内容だった。ジュセッペの話しによれば俺が最後に店に行った日、つまり俺たちが初めて出会った日の翌日からその男とは連絡が取れなくなったらしい。そこまで頻繁に通っている男ではなかったから最初は気にならなかったそうだが、いつもなら毎朝仕事に向かう際に店の前を通るので、その時バーのマスターと一言二言会話をするらしい。しかしこの一週間一度も朝会うことはなく、最初の二日くらいはてっきりどこか新しい彼氏でもできたのかと思っていたが、さすがにこれほどまで長く姿を見せないのはおかしいと感じたそうだ。
バーの常連に話を聞いても「見かけていない」としか返ってこず、これはますますおかしいと今バーではこの話で持ちきりだそうだ。
ジュセッペもたまたま昨日の夜バーに行った時に聞かされたそうで、顔も名前もわからない男のことを聞かれても答えようがないとのことで俺に聞きたかったとのことだ。
「それで、そいつの名前は? 俺もそこまで詳しいわけじゃあないけど」
皿の端っこについたトマトソースをフォークの先で掬い上げながらたずねる。常連というほど通って胃はいないが、少なくともジュセッペよりはあの店のお世話になっている。会ってもらっちゃあ困るが、もしかしたら俺の知り合いかもしれない。
そう、軽い気持ちで聞いてしまったことが、俺の未来を大きく変えてしまうのだけれど。この時の俺はまだ知る由もない。
「そいつの名前は、ロベルトっていうらしいんだ」
「……えっ」
ロベルト。俺が最後に寝た男だ。あの日の夜。下手くそな誘い文句と言い訳で俺を誘い、俺も失恋の傷を隠したくて身体を預けた男だ。まさか、あいつが。でもなんでだ。確かにいろいろなことは適当で、大雑把なやつだけれど決して人から嫌われるような男じゃあない。それは恋愛対象としても、一人の人間としてもだ。
そうだ、ロベルトなんて名前、イタリアには腐るほどいる。ここローマだって歩いていればロベルトという男に五人は出会えるだろう。俺が知らないだけであの店には俺の出会ったことのない「ロベルトくん」がいるのかもしれない。いや、きっとそうだ。そうに違いない。そうじゃあないと、俺は
「……その、ロベルトって男は栗毛の髪をしているのか」
「え、どうだろう。そこまでは聞いてないけど……あ、でもスッゲー綺麗な目なんだって。青色の」
「青い……目か」
そういえばあいつも、青い目をしていた。春の空のような、澄んだ青い目だ。俺を抱いた時もその目に射抜かれて、どうしようもなく泣きたくなったことを覚えている。別に好きだったわけじゃあない。身体の相性がすこぶる良かったわけじゃあない。ただ、寂しかっただけなのだ。寂しくて、惨めで、誰でもいいから俺の存在を認めて欲しかっただけなのだ。
だからと言って簡単に捨て切れるほど俺も冷たい人間じゃあない。それなりの情も湧くし、気にはなる。ましてやつい先週だかれたばかりの相手だ。
「ルーカ、大丈夫? 顔色悪いけど」
「いや……問題ない。ただちょっと、古い知り合いの可能性があってな」
「そっか……今夜、一緒にバーに行ってみる? 俺に聞かされるより、直接聞いたほうがいいかもしれねぇし」
「そう、だな。ああ、じゃあ今夜、あの店で」
頭の中で情報がぐるぐると回る。ロベルト、お前、どうしちゃったんだよ。なんで急に。あの日の朝、俺に「また今度」って言ったじゃあないか。別に好んで抱かれたいとは思わないけれど、友人としてはもっと仲良くなりたかった。寝起きで機嫌の悪いガットに引っかかれて、懐いて欲しいから近いうちにキャットフードを持ってくるって、言ってたじゃあないか。
つい最近まで、肌と肌が溶けるような距離にいた相手が突然行方の知らぬところに行ってしまったことが想像以上にショックだったらしく、俺はまだ半分も残っているサラダを残してしまった。かなりひどい顔をしていたらしく、気を使ってくれたジュセッペが家まで送ると言ってくれたがさすがにそれは申し訳なかったのでアドレスだけ交換し、一緒にまた大学まで歩くことにした。
行きとは違ってかなり重苦しい雰囲気になり、何かを話そうにも言葉はかけらも出てこない。お互い距離を測りかねているのかぎこちない空気を肌で感じていた。
自分でもおかしいと思っている。ここまで俺がショックを受ける必要は決してないのだ。ただの知り合い、ただ一回寝ただけ。この世界ではよくある話だ。だというのにまるで自分の身内が傷つけられたかのように、俺の心臓は痛んでいる。昔から他人に対する興味は低いが、一方で一度懐に入れるととことんまで大事にする節があった。きっと今回もそれなのだろう。たった一回寝たくらいで彼氏ヅラするな、とロベルトに言ったことがあるが、全く同じことを自分にも言いたい。たった一回寝たくらいで、親密な顔をするな。俺はあいつの恋人でも、セフレでも、友人でもない。だからここまで気を病む必要はないと、自分に言ってやりたい。
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