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第3話:カルロ
重たい足を引きずりながらなんとか家の前までたどり着いた。まるで鉛がくくりつけられているように、体はぐったりと疲れきっていた。思ったよりも遅い時間になってしまった。以前は別に気にすることはなかったけれど、今は帰りを待ってくれる存在がいる。
人、ではないけれど。それでも確かに俺を待ってくれる存在が。
「ただいま、ガット。いい子にしてたか?」
「にゃあん」
家の中に入ると最近ようやく聞きなれるようになった声が響いた。真っ暗な部屋の奥にキラリと緑色の瞳が光る。逃げ出さないように急いでドアを閉めて、手探りで部屋の電気をつけながら足元に擦り寄ってきた黒い塊を抱き上げた。拾った時よりは幾分か毛並みが良くなっている。それに少しだけ、ほんの少しだけど体重も増えてきた気がする。こんな小さな体のどこに入っていくのかと思うほど、ガットはよく食べた。それまでどれほどひもじい思いをしていたのか不安になるほど、それはまあよく食べ、よく寝た。
ザラザラした舌先で頬を舐められる。首元に小さな頭が擦り付けられて少しくすぐったかった。抱きしめると獣の香りがして、それにちょっとだけ安心してしまう。ここ二日間で色々なことがあった。俺には無関係だと言いたいけれど、どうやらそう考えるのはあまりに楽観的すぎるようだ。
ガットを抱き上げてソファに向かう。カバンを放り投げて、重たく疲れ切った体をごろりと横たえた。腹の上にガットを乗せて顎の下をくすぐってやる。気持ちよさそうに目を細める表情を見て、そういえば数十分前もこういう顔を見たな、と冷静さを取り戻しつつある頭で考えた。
***
結局あの日、大学の前でジュセッペと別れた後、一応研究室に行って論文のデータを開いたけれど結局何もできずただいたずらに時間を過ごしていた。そこまで急ぎではないし、と自分に言い訳をするけれど、だからと言って締切まで残された時間は無限ではない。何か進めないと、せめて一文字でも書かないと、なんて思う一方で右手はタブレットに伸びてしまっていた。ロベルトから連絡が来ていないかと思って見ても、悲しいことに通知は一件も届いていなかった。
このまま何もせずただ研究室にいてもロベルトのことばかり考えてしまう。もういっそ全く別のことをすればいいのだろうか。とはいえ、俺にできることはそんなにない。外を走ろうにもまだ雪は少しだけ残っているし、何より寒い。この際論文を書くというのは諦めて、研究には関係ない本でも読んでみようか。幸いにも本ならこの薄暗くて清潔感とは程遠い研究室に山ほど置かれている。
「……ばかか、俺は」
今ここで悶々と悩んでいても仕方がない。俺にできることなんて何もない。そもそも、俺がここまで振り回される必要性だってどこにもない。
結局いつもこうだ。相手に対して無関心を装っていてもいつも心のどこかでは気になって気になって、気がついたら振り回されている。そうやって捨てられて、その結果がこの独り身だ。
ここまで気が滅入るのも寒さのせいだと思い、口をつけずに温くなってしまったコーヒーを一気に飲み干して、ノートパソコンの電源を切った。これ以上無意味にブルーライトを浴びる必要もない。続きは、未来の自分に託すとしよう。きっと今の俺よりはまだまともなはずだ。まともに、ならないといけないのだ。
手早く身支度を済ませて研究室を後にした俺は、予定よりもかなり早いが例のバーに向かうことにした。ジュセッペには後で連絡をしておけばいいだろう。それか近くのカフェで時間を潰してもいい。何にしても、一人で鬱々と考え続けることに耐えきれなくなったのだ。
「一応、連絡だけはしておくか」
数時間前に知ったばかりのアドレスをタップして短いメッセージを作る。予定がなくなったから先に店に向かう旨を送って、ポケットに放り込む。外はきっと寒いだろうからそのまま手を出せずにいると、思いの外早いタイミングでタブレットが振動した。
今までうんともすんとも言わなかったくせに。ちょっとだけ腹立たしくなる。理不尽とはわかっているけれど。
差出人は想像通りジュセッペで、あちらも暇をしているからもしよかったら合流しないかとのことだった。もし時間があるならここに連絡をくれと書かれていた電話番号を即座に押して、そういえばこうやって誰かと電話をするなんて久しぶりだな、とかすかに高揚する気持ちを抑えながらコール音に耳を立てた。
バーの開店時間は夕方の五時だ。ここからゆっくり歩いていけばおそらくそれくらいの時間にはなるだろう。大学の近くでジュセッペと待ち合わせをして、もう半分以上沈みかけている夕日を見ながら店に向かった。
「悪いな、お前を付き合わせて」
「んーん。俺も気になってたからいいんだけどさ。でもよかったの? やることあったんじゃない?」
「あー、まあ。でもいいんだ。集中できない時に無理やりやったっていいものはできない」
「ふぅん」
橙と紫の混じった夕日に照らされたジュセッペの瞳が、妙な揺らめきを持って瞬いた。燃えるような、溶けるような。不思議な色だ。この前あったばかりなのに何故かもっと前から知っているような気になってくる。じっくり話したのなんてつい数時間前だというのに。
不思議な男だ。気が付いたら足元に擦り寄ってくる、まるで猫のようだ。いや、猫にしては随分とでかいけれど。俺もある程度身長がある方だけど、それよりも十五センチくらい高いだろうか。これだけ背が高いとモテるだろうなぁ、なんて。そんなことを考えながらバーまでの道を歩く。
突然無言になったジュセッペの方をちらりと見てみると、もういつも通りなんてことない顔をしていた。先ほどのあの瞳はなんだったのだろうかと思うけれど、気のせいだと思い忘れることにした。今は何よりも、ロベルトのことだ。
「店に急ごうぜ。この時間なら多分客もまだ少ない」
「そうだな」
マスターや常連に話しを聞くなら人が多くない時がいい。イベントがある時の方が人は多いが、その分じっくり聞くことはできなくなる。それに、もしかしたらバーに行けば偶然ロベルトに会えるかもしれない。たまたま連絡が取れなくて、それで俺たちが勝手に勘違いしていただけなのかもしれない。きっとそうだ。そうに違いない。だから、店に行って会えたら、それでいいのだ。
そんな欠片しかない希望を抱きながらバーの扉を開いた。いつもと同じ、アルコールと、煙草と、性の香りがした。
***
「え、それじゃあ、本当に……?」
「そうなんだよね。あの子、どんなに忙しくても三日に一度は来てくれるの。なのにここ一週間、もうずっと見てなくて」
「……誰か連絡を取った人は?」
「それがねぇ、ロベルトを最後に見かけたのって一週間前なのよ。その時一緒に居たのってあんたでしょ? ルーカ」
「っ、そんな……!」
確かにあの日、夜を一緒に過ごしたのは俺だ。次の日朝、コーヒーを飲んで帰って行くのを見届けたのも俺だ。
ただそれが最後だった。それじゃあまた、と言って手を振る姿がローマの雑踏に消えていくのを見た。本当にそれだけだったのだ。まさかそのあと行方が知れなくなるなんて。ケータイを見ても相変わらず連絡はない。それはきっと俺以外の人も同じなのだろう。マスターを始め、ロベルトを知る人たちは皆メールなり電話なりをしたらしい。だが結果は、俺と同じだった。
どうやら仕事も無断で休んでいるようで、このままだと警察沙汰になりかねないとのことだ。まあ、この国の警察に何かを期待するというのも馬鹿げているけれど、それでも藁にもすがる思いなのだろう。
それに、あいつを最後に見たのが俺だなんて。それだけで妙な不安が胸をよぎる。あの夜、俺は何かしてしまったのだろうか。あいつが姿を消したくなってしまうほど、傷つけてしまっただろうか。しかしいくら思い返してみても滞りなくセックスは終わり、それなりに満足した時間を過ごしていた、気がする。それが俺だけの感想だったらとても悲しいけれど。それでも、あいつはそこまで嫌な顔をしていなかったように思う。
だったら本当に何なんだ。
とりあえず、と頼んでおいたウイスキーで唇を湿らせる。喉を焼くような熱さが胃まで転がり落ちてきた。その熱にむせそうになりながら、無理やり飲み干す。酒を飲まないとやっていられない気分だった。
「なあ、ルーカ」
「ん?」
隣でジントニックを飲んでいたジュセッペが不安そうにこちらを見ていた。そんなにひどい顔をしていたのだろうか。無駄に不安にさせる必要もない。心配ないぞ、という代わりに小さく笑うと、それで安心したのかジュセッペも少しだけ口元を緩める。
長い指で氷を回しながら、ジュセッペが口を開いた。
「お前さ、あの……ロベルトと付き合ってたの?」
「えっ、ロベルトと?」
「そう。すげー必死になって探してるし。俺と会った時に一緒に居たのがロベルトだろ? 仲よさそうだったから、付き合ってるのかなって」
「ああ、そういう」
なんだか無性に煙草を吸いたくなった。しかし屋内は原則禁煙だ。この店も同じように喫煙するためには外に置いてある灰皿のところに行かないといけない。それはどうにも面倒だったから、ウイスキーを飲むことでごまかす。
ロベルトと付き合っていたのかと言われたら、そういう事実は一度もない。俺は恋人がいればこう言う類のバーにはいかなかったし、わざわざ店の外で約束してまで会おうなんて思いもしなかった。お互い相手がいなくて、人肌恋しいときに一緒に寝たくらいだ。それでもタイミングが良かったのか回数はそれなりに多いけれど。
「付き合っては、いねーよ」
「そっか」
「まあ、関係はあったけどな。でもセフレとかじゃあない」
「……へぇ」
あいつはセフレにするには情がありすぎる。多分長く深い付き合いをしていたら俺は好きになっていただろう。たまに会って、たまにセックスするくらいの関係が俺たちはちょうど良かった。誰かを好きになるといつか嫌いになり、別れなくてはいけなくなる。それならば付かず離れずと言った距離感の方が多分どちらも傷つかない。
寂しさや孤独は、永遠に拭い去れないけれど。
「お前にもいるだろ。話してて安心する相手って。そういう感じだよ、ロベルトとは」
「それでセックスまでするの? ルーカは」
「はぁ? まあ、タイミングによるけど……なんだよ、急に」
「んーん、なんでもない!」
突然拗ねたようにグラスに入ったレモンをマドラーで潰し始めた。変な奴。気まぐれで、懐いたと思ったらすぐにそっぽを向く。本当に猫みたいだ。言われてみればガットと目の色が似ているし。ブルネットの髪もあいつの毛色に似ていなくもない。
もしもガットが人間になったら、こんな感じなんだろうか。
こんな場所にいるのに考えるのは家にいる気ままな子猫だなんて。そのギャップに思わず笑ってしまう。まあ、いくら悩んでいてもどうしようもない。それに本来なら俺がここまで心配する必要はないのだ。一度悩み始めると、ついどうしてもずっと考え込んでしまう。悪い癖だと思ってはいるが、人間の性格はすぐに変えることはできない。
賑々しい音楽を聴きながら、隣でまだ拗ねているジュセッペになんて声をかけようか悩んでいると、突然肩に誰かの手が置かれるのを感じた。ふわりと女物の香水も漂ってくる。ティーンの子が頑張ってお小遣いを貯めて、それでようやく買えた香水みたいな、甘い香りだった。
「あらやだ、ルーカじゃない? 久しぶりねぇ」
「カルロ! 本当に久しぶりだ!」
「全然会わないから、彼氏とラブラブしてると思ったのに……そうじゃないの?」
「あー、まあ……今度話を聞いてくれ」
もちろんよ、と流れるようなウインクをしながらカルロはくるりと指先に巻きつける。背もそこまで高くなく、後ろ姿は完全に女性だけど中身は割とえげつないし、バリタチなカルロは見るたびに連れている男が違う。今日は誰だろうと思い見渡してみても、珍しく誰もいなかった。
トパーズ色をした切れ長の瞳がきゅっと細められる。俺が恋愛のことで悩むといつも相談に乗ってくれる、頼れるやつだ。年齢もそこまで変わらないから気兼ねなく話せていたし、思っていることをズバズバと言ってくれるからこちらも相談しがいがある。そういえばもう随分と会っていなかった。相変わらず今日も美人で、きっとこの後その辺にいる新参者を捕まえてホテルに行くのだろう。
「ロベルトのこと、聞いたか」
「聞いたわよ。びっくりしちゃった。でもまあ、バカンスにでも行ってるんじゃあないの? 大丈夫よ、きっと」
「そう、だといいんだが」
バカンスでこんな風に、突然いなくなったりするだろうか。しかも職場にも連絡せず。誰にも行き先を告げず、突拍子もないことをする人間ではなかった気がする。カルロはこういうが、俺にはそんな簡単に考えることはできない。いや、だからこそ今こうしてバーに来て話を聞いているんだけど。
ああ、もう。また悪い癖だ。すぐに良くない方向に考えてしまう。ずっとどうにかしたいと思っていたのに。こういうとき、全部吹き飛ばしてくれるような一言をくれる人が、隣にいてくれたらいいのに。
「まーたそんな顔をして!」
「はっ? うわっ!」
気がつくと目の前にカルロの指があった。白くて、透き通るような細い指が勢い良く俺の額を弾く。その威力は見た目以上に大きい。頭蓋骨が揺れるくらいの勢いがあった。じんじん痛む額を抑えながら涙目で見上げると、どうしようもない弟を見る姉のような顔でこちらを見ていた。いや、カルロは男だから正確には兄のはずなんだが。なぜか今は、姉に見えた。
「もう、確かにあんたは物憂げな顔をすればいい男と思うわよ? でもねぇ、いつまでも辛気臭い顔してたら見ていて飽きるの、分かる?」
「はぁ!? え、あ、ありがとう!?」
「わかったならほら、笑顔笑顔! 辛気臭い顔よりも、あんたは笑顔の方がよっぽど魅力的なんだから」
そう言って、ぐいぐい?を引っ張られる。カルロは、ロベルトとも仲が良かった。体の関係があったかどうかは知らないけれど、誰かのことを心配するときにそういうつながりはもしかしたら必要ないのかもしれない。ただ純粋に、仲のいい友人を心配することに、ゲイとかヘテロとか、セックスしたとかしてないとか、本来なら関係のない話なのだ。
きっとカルロだって心配している。不安なのだろう。それは彼の手がひんやりとしていることからよく伝わってきた。そうだよな。俺も心配だよ。またここで、三人で馬鹿な話をして盛り上がりたい。底抜けに明るい表情を必死に取り繕うカルロに、俺はようやく救われた気がした。
「ありがとう、カルロ。君がいてくれて本当に良かった」
「あら何、口説いてるつもり?」
「まさか。そんなことしたら俺は世界中を敵に回すことになる」
「お口も上手になって」
ようやくいつもの軽口を叩けるようになって、へらりと表情が崩れるのがわかった。自分でも気がついていなかったけれど、どうやら無意識のうちに気が張っていたようだ。それを見たカルロも安心したのか、にこりと笑った。
笑った、けれど。
「あ、じゃあ、そろそろ行くね。待ち合わせがあるの」
「そうか。引き止めて悪かった」
「ううん。会えてよかったわ。それじゃあね」
一瞬引きつった顔をした後、そそくさと立ち去っていった。いったい何を見たのだろう。彼の視線の先にはジュセッペしかいないのに。もしかして元彼とかだったのかな、なんて思いながらようやく空になったウイスキーグラスを手放すことができた。
まあ、元彼に偶然会うことや彼氏の元彼に遭遇することなんてこの世界だとザラにある。一番ひどいのはそれで浮気がばれることだけど。そういう光景を見たくないから、俺は彼氏ができたらゲイバーに行くことは控えている。
「……なあ、さっきの」
「え? ああ、カルロか。友人だよ」
「ふぅん」
何かを考えているのか考えていないのか、さっぱりわからない横顔でジュセッペはジントニックを飲み干した。それから突然ごそごそとポケットを探り始めて、何だろうと思っていると「手、出して」と言い始めた。まるで学校の帰り道に見つけた石ころを見せようとする少年のようだ。
何だろうと思い右手を出すと、開いた掌にコロリと小さな雫が転がった。よく見るとそれは、ヴェネツィアングラスのチャームだった。
「何だこれ」
「渡すタイミングなくて、ずっと持ってたんだけど。これ、ルーカの目の色に似てるなって。それで、見たらついあげたくなっちゃって」
「へえ! すごい、綺麗だな」
小指の先ほどしか大きさはないが、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。確かにジュセッペのいうとおり、俺の目と同じエメラルド色をしている。そうか、これを渡したくてずっとそわそわしていたのか。それなら俺も悪いことをした。
「ありがとう、大事にする」
「気に入ってもらえたのならよかった」
「うん、こんなに綺麗なグラス初めてみた」
無くさないように大事にポケットにしまって、その日はそれでお開きになった。夜はまだ更けていないが、これ以上ここにいると俺もいつ悪い方向に考えてしまうかわからない。早いところ家に帰って、さっさと忘れた方がいい気もする。
雪は降っていないが相変わらず冷え込むローマの星空の下で、俺たちは「それじゃあ」と言って別れた。次の約束なんかはしない。それが俺のルールだったからだ。もしもタイミングが合えばまた会える。そういう世界だ。だから約束なんて、別に必要なかった。
だから、一度も俺は振り返らない。振り返ると未練が残りそうだからだ。まだ離れたくないとか、まだ一緒にいたいとか。そういうことを考えてしまう。でもそれは、結局誰でもいいのかと思われてしまいそうだから、なるべく振り返らないようにしていた。
そんなことを思っていたのに。次の日、あっけなくジュセッペから連絡がやってきた。指導教官と用事が終わり、ちょうど休憩時間にかかってきたその電話はカルロが大怪我をしたという内容だった。
「カルロが大怪我!? なんで、そんな」
『わかんねーけど、さっきたまたまそういう連絡が来て! とりあえずまたあの店に集合でいいか?』
「わ、わかった。俺もなるべく早めに用事を終わらせるから」
なんだってこう、立て続けに事件が起きるんだ。しかも俺が話した相手が、次の日に大怪我をしたり行方不明になったり。偶然だと言い張ればそれまでかもしれないけれど。でもどうにも、気持ちが落ち着かない。
俺とは何も関係がないと、言いたいけれど。そう思うには偶然が重なりすぎている気もする。とにかく事情を聞かないことには何もわからない。急いで机に広げた文献やノートパソコンを片付けて俺は大学を後にした。まさか二日連続であの店に行くなんて。どうせ行くのならもっと楽しい気持ちで行きたかった。しかし今はそんなことを言っている暇はない。
どうか、カルロが無事であるように。
ただそれだけを考えながらバーまでの道を急いだ。
***
「にゃーん」
ガットの声で、ハッと現実に引き戻される。気がつけば抱きかかえたまま随分と時間が経っていたようだ。ふかふかの肉球で口元をくすぐられる。そういえば食事の用意をしていなかった。腹が減っているのかもしれない。買い置きのキャットフードを手にして、たまにはちょっといいものをあげようかと猫缶を開けると颯爽と飛びついていった。全く、現金なやつめ。
嬉しそうに皿の中身を空にしていく姿を見ながら、ようやく息をつける気がした。耳の下を指先でなぞる。気持ちよさそうに喉を鳴らす様を見ると無性に安心した。結局カルロもそこまで大きな怪我ではなかったようだ。しかもよく聞けばうっかり車道に飛び出してしまい、車と接触しただけとのこと。どうせあいつのことだ、飲みすぎてへべれけになったんだろうと思い、マスターから話を聞いた時は(不謹慎だけど)ちょっと笑ってしまった。
カルロは「誰かに押されたのよ!」と言っていたらしいが、かなりの酒豪である人間に言われても説得力はあまりない。気をつけるんだぞ、と電話越しに言うとふてくされたように唸っていた。
「そうだ、ガット。お前にお土産だ」
「んにゃ?」
「といっても、貰い物だがな」
口の周りをペロペロ舐めているガットを膝に乗せて、首に細い革の紐を巻きつける。その先には先日ジュセッペにもらったヴェネツィアングラスが付いていた。今日、学校に行った時これを作ってきたのだ。見た目の割に少し重みがあったが、これほどぎゅっと色素が凝縮しているからよほど良いものなのだろう。もともとはペンダントトップだったのか小さな穴が空いていたおかげでそこに金属をつけて首輪にしたのだ。
最初は気まぐれで拾ったけれど、いつまでも首輪なしは良くない。名前をつけてしまったし、今ではこいつがいないと落ち着かないほど生活に馴染んできている。情が湧いて捨てられなくなると思ったけれど、そんなのもう今更だ。
苦しくないように結んでやると、最初は気になるのか爪先で引っ掻いていたが早々に飽きたのか大きなあくびをしていた。
「おお、似合う似合う」
「にゃおん」
「よかったな、ガット」
「にゃぁ」
膝の上でくるりと丸まった黒い毛玉を撫でながら、このグラスをくれた相手のことを思い出した。
「そういえば、なんであいつカルロが怪我したことがわかったんだ」
確かに俺とカルロが会話をした時に隣にいた。だがあの二人は面識がなさそうにしていたし、俺よりも先に連絡が来るなんて不思議な話だ。何か別の伝手があったのか、それとも本当に元彼だったのか。
あいつは、わからないことがたくさんだ。
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