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プロローグ ブラック社畜、雪下誠

 寝不足が重なると、人間の脳はいとも簡単に重大な論理的誤謬(エラー)を引き起こすものらしい。  それが雪下誠がこの世界での人生で最後に得た学びだった。  朝。  目の下に酷いクマをこさえ、青白い顔で駅に並ぶ眼鏡をかけた二十代半ばの男――――雪下誠が死人のような顔をして駅のホームの最前列に並んでいた。  夜遅くまで、否、朝早くまで残業をしていた誠は始発の電車で自宅に帰り着いた。そのわずか二時間半後には、こうして出社のために駅で電車が来るのを待っていた。  ひたすらに眠かった。  上司に会社に寝泊まりすればいいじゃないかと言われたこともある。行き帰りの時間が無駄じゃないかと。  だが誠はほんの二時間半だけでも、会社から離れたかった。  時には大音声の怒鳴り声で、時には軽い調子で嘲るように「お前は死刑だ」と死刑宣告してくる上司。死刑、は上司の口癖だ。二十四時間ずっと会社にいれば、心が死んでしまうと思った。  だからこうして身体が必死の悲鳴をあげて睡眠を求めていても、誠はいったん帰宅する習慣を止めなかった。始発で帰って、わずか二時間半後に出社するのは何も今日だけのことではなかった。  眠い。寝たい。眠い。眠い。眠い。眠い。眠い。眠い。  たった一秒だけでも睡眠が欲しい。  会社に行きたくない。上司に会いたくない。  ひたすらに眠りたい。狂おしいほどに睡眠を欲している。  その時、視界の隅で小さな点がだんだんと大きくなっていくのが見えた。  電車が来たのだ。  誠の脳はその時、素晴らしい閃きをもたらした。 (そうだ、電車に轢かれて一旦死ねば少し眠れるかもしれない)  その論理が抱える致命的破綻に気付いた瞬間には時すでに遅く、誠は線路に向かって一歩を踏み出していた。  死ぬことに『一旦』も何もない。一度死ねばすべてが終わりだ。  寝不足の脳はその事実を束の間忘却していたようだ。  誓って誠には希死念慮など一切なかった。死にたかったわけではない、ただ寝たかっただけなのだ。 (寝不足が死に直結するだなんて、知らなかったな……)  傍から見れば人生に絶望して、線路に身を投げたように見えるのだろう。  まさか脳の馬鹿げた誤動作で、死に向かおうとしていると気付く人はいないだろう。  線路に落ちるまでの距離が酷く長く感じる。  一瞬の間がどこまでも引き伸ばされ、電車が近づいてくる中、ゆっくりと誠は死に向かっていた。  その時だった。  線路があるはずだった地面が、明るく輝き出した。  目も開けていられないほどの眩い光。  誠は、その光の中に吸い込まれた。 「――――ッ!?」  眩い光が収まると、大勢の人が目の前にいた。  中世の教会かお城みたいな立派な建物の中、魔術師のような時代がかったローブを纏った人々がたくさんいる。  彼らは床にべちゃりと倒れ込んでいる誠を見て、困惑したように口々に騒いでいる。  外国語なのだろうか、彼らが話している言葉の意味は理解できない。 (僕、外国にいるのかな……)  非現実的な状況だった。  さっきまで最寄りの駅に並んでいたのに、一瞬で外国に行けるわけがない。 (そうか、これは夢なんだ)  誠は納得した。  こんなことが現実なわけがない。  現実でないと分かったら、やることは一つだけだ。 「それじゃあ、おやすみなさい……」  何やら騒いでいる魔術師風の人々を無視し、もう限界だと悲鳴を上げる身体の欲求に従って、誠は床の上に横になって就寝した。  異世界転移、第一日目の出来事だった。

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