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第1話 新入りギルド職員、マコト
「こちらはマコト・ユキシタくん。今日からこの冒険者ギルドに加わる新しい仲間です!」
「ど、どうも……」
マコトは拍手と共に新しい職場に迎え入れられた。
異世界転移したマコトは、この異世界で働くことになった。
どうやらマコトは異世界に召喚されてしまったらしいのだ。
これは夢に違いないと現実逃避してその場で寝入った後、目覚めたマコトはこの世界の言葉が理解できるようになっていた。
側にいた医者っぽい人が事情を説明してくれた。
言語理解促進なんたらという魔術をかけてもらったので、言葉が話せるようになったこと。
魔術師たちは異界から勇者を召喚しようとしていたが、間違ってマコトをこの世界に召喚してしまったこと。
マコトを元の世界に戻す術はないこと。
なので、お詫びにマコトに公務員としての職を紹介してくれること……。
すべてに現実感がなく、医者からの説明を受けている間もこれは夢だと思っていた。
もしかすれば電車に轢かれて植物状態になり、ずっと夢を見ているのかもしれないと。
でなければ、魔術だの召喚だのといった単語が当たり前のようにポンポンと出てくるはずがない。まるでファンタジー小説の世界に入り込んでしまったかのようだ。
(夢の中でさえ、勇者じゃなくて勇者に間違われて召喚されてしまった一般人だなんて……僕の自己肯定感の低さはどん底だな)
マコトは思わず自嘲してしまった。
医者はその笑みを見て、肯定の意と受け取ったらしかった。
マコトは異世界の新しい職場を紹介されることになった。
それがこの冒険者ギルドだった。
聞いた時は自分が冒険者をやらされるのかと焦ったが、マコトがやるのは冒険者ギルドの職員。
業務内容は事務仕事らしく、ほっと胸を撫で下ろした。
いきなり異世界で働くことに戸惑いはある。
けれども、新しい環境で働けること自体には感謝していた。前の会社には戻りたくなかったから。
異世界に無理やり転移させられたことで、もう前の会社に行かなくて良くなった。
マコトはその事実を福音のように感じていた。
そういった経緯で、マコトは冒険者ギルド職員の制服に袖を通してこの場に立っていた。
「彼は異界から来たらしいのです。この世界のことについて何も知らないそうなので、皆さんで助けてあげて下さい」
マコトが異界から来たという情報に、何人かがしげしげとした視線を向けるが、驚きの声は上がらない。まるで外国から来たという程度のインパクトしかないようだ。
もしかして、この世界ではしょっちゅう異世界から人を召喚しているのだろうか。
「それでは皆さんで、自己紹介をしましょうか」
このギルドのギルドマスターを務めているという背の低いちんまりとした壮年の男は(ギルドマスターというよりは部長と呼びたくなる)、ギルド職員全員を見回してにこにこと言った。
「クレアと言います、よろしくね」
「ダミアン、元冒険者だ」
「ブライアンです」
職員たちが順々に笑顔と共に名を名乗ってくれる。優しそうな人たちだ。
けれども、失敗ばかりしていたらこの人たちもすぐに冷たくなるに違いない。
前の会社でのマコトの経験だった。「死刑」が口癖の上司は最初から怒りっぽく怖かったが、それ以外の先輩や同期もマコトがドジばかり繰り返すどうしようもない存在だと気付くと、すぐにマコトに笑顔を向けることはなくなった。
せめてここでは、優しそうな彼らの期待を裏切らないように頑張らなければ。
最後の職員が、自己紹介をする。
「オレ、フェリックス。ま、適当によろしく」
最後に名を名乗った職員は、艶のある金髪に翡翠のような緑色の瞳をした若い男だった。
男のくだけた態度に、マコトは身を硬くする。いわゆる陽キャというのだろうか、こういう雰囲気の男がマコトは苦手だった。
相容れない存在。それが第一印象だった。
「さ、それでは仕事を開始しよう」
幸いにしてフェリックスは、マコトの表情が強張ったことに気が付かなかったようだ。
ギルドマスターの一言で一同は解散する。
「マコトくん、君のデスクはあそこだ」
「あ、はい! ありがとうございます!」
マコトはハキハキと返事し、示されたデスクに腰掛けた。
すると目の前で金髪が揺れた。翠緑の瞳がマコトを見つめており、にこりと細められた。
「よっ。分かんないことあったら、何でも聞いてくれよな」
なんと不運なことに、そこは先ほど苦手意識を感じたフェリックスという男の向かいの席だった。
「よ、よろしくお願いします……」
マコトは内心緊張と少しの恐怖を覚えながらも、頑張って笑みを返した。
傍から見れば、ギクシャクと口角を強張らせたようにしか見えなかったかもしれない。
気を取り直し、マコトは周囲を観察した。
ギルドの中は、冒険者たちがたむろする受付スペースとマコトのような職員が作業する事務スペースとで木製の壁で仕切られている。壁の向こうからくぐもった喧噪が伝わってくる。たくさんの冒険者や依頼人が訪れているのだろう。
「まずはこれの計算をしてくれるかな。計算が終わったら他の人にチェックをしてもらってくれ」
「はい!」
ギルドマスターから、数枚の書類を手渡された。
計算機もパソコンもない世界だからか、計算は人力だ。
渡された書類は冒険者から買い取った魔物の素材とその値段が記されていて、どうやら総額を計算すればいいみたいだ。
マコトが理解したのを見て取って、ギルドマスターは部屋を去っていった。彼の執務室に戻ったのだろう。
この世界の言語が理解できるようになる魔術の効果は、読み書きにも及ぶ。だからマコトは問題なく読み書きができる。
マコトは羽ペンを取って、さっそく仕事を始めようとした。
「あ、あれ、インク壺がない……?」
デスクの上にはどこにもインク壺がなかった。
慌てて他の人のデスクを見てみると、どこのデスクにもインク壺はない。なのにみんなスラスラとペンを走らせているのだ。インク壺にペンをつける様子はない。
マコトも真似して紙にペンを走らせてみるが、何も書けない。
「えっ、え……っ」
何故自分だけがペンを使えないのだろう。
仕事が始まってるのに何もできない様子を誰かに見つかって、ペンが使えないんですと説明したら「馬鹿な言い訳をするな!」と怒鳴られる。そんな想像が頭の中に浮かび、呼吸が荒くなり脂汗が滲み出した。マコトはパニックに陥りかけていた。
「マコト?」
不意にかけられた声にビクリと肩が震えた。
「どうしたんだ?」
向かいの席のフェリックスだ。
マコトの異変に気付いたのだろう、彼が声をかけてきたのだ。
「フェ……フェリックス、さん」
マコトは絶望的な気持ちで、覚えたばかりの彼の名を口にした。
これから彼に叱責され、怒鳴りつけられるんだ。想像だけで身が縮こまる。
「え、えと、その」
マコトはパニックで頭の中が真っ白になった。
何故か僕だけペンが使えないんです、というただそれだけの言葉が出てこない。
「ん……? ああ!」
フェリックスはマコトが手にしているペンに目を留めた。
彼の発した大きな声に、ビクリと震える。
「もしかして異界人って魔力を持ってないのか? これじゃあペンが使えないな」
「え、あ……」
どうやらこの羽ペンは魔力をインク代わりにして使用するものだったらしい。
それを聞いたマコトは絶望のどん底に落とされる。それでは僕には簡単な書類仕事も何もできないじゃないか、と。
新しい職場では頑張ろうと思っていたのに、初日でクビになるのか。
目の前が真っ暗になったその時。
「それならオレが魔力を充填してやるよ、貸してみな」
「あ……っ」
フェリックスがマコトの手の上から羽ペンを握る。
彼の手が暖かい。暖かくも熱い何かが流れ込んでくるのを感じる、これが魔力なのだろうか。
やがて魔力の充填とやらが終わったのか、羽ペンがほのかに光った。
「ほら、使えるようになったぞ」
気怠げながらも、優しい笑みを向けられる。
「……っ」
思わずぼろりと涙が零れた。
それを見て彼は慌て出す。
「おっ、おい、マコト大丈夫か!? オレなんかしたか!?」
「ち、違うんです、フェリックスっ、さんが優し過ぎて……っ。前の職場では、こういう時、怒鳴られるのが当たり前だったので……っ」
マコトは頑張って涙を引っ込めようとするが、自分の意思では嗚咽が止められない。
「異界って酷いところだったんだな……」
途切れ途切れの言葉を聞いて彼の眉が下がったかと思うと、今度は穏やかな笑顔になる。
「よし、そういうことなら休憩室にでも移動しよう。落ち着くまで思いっきり泣けばいいさ」
「え、でもお仕事始まったばかりなのに……」
「大丈夫だ問題ない、さぁ行こう!」
彼はマコトの手を取って歩き出した。
顔を上げる職員は誰もいない。本当に誰も気にしていないみたいだ。
前の職場ではトイレに行く回数すらカウントされていたというのに。
職員がくつろぐための小部屋に着き、マコトは長椅子に座らされた。
始業直後だからか、他に人はいない。
休憩室には長椅子がいくつか備え付けられており、見たことのない異世界の観葉植物が鉢植えに活けられている。テーブルの上にはコップが複数個と、ティーポットがある。飲み物でも飲みながら寛ぐためだろう。
「大人なのに感情がコントロールできなくて僕は情けないです……。こんなことのためにフェリックスさんの時間を使わせてしまって申し訳ないです」
「いやいや、マコトのおかげでオレもこうして堂々とサボれるし。そんなに気にすんなよ」
心から思っているかのように、彼は気怠い笑みを見せる。
堂々とサボれるだなんて……僕が気にしないように言ってくれているのだろう、フェリックスさんは優しいな。マコトはそう捉えた。
彼は備え付けられたコップの一つを手に取って、水差しから液体を注いでいる。
ティーポットが淡く発光しているから、あれも魔力を必要とする類の道具なのだろうか。
「ほら、飲みな」
「ありがとうございます……!」
コップを受け取ると中身は温かい紅茶であることが分かった。
ティーポットは紅茶を出す魔術の道具なのかもしれない。
彼は彼自身の分も紅茶を注ぐとマコトの隣に腰掛けた。
ズズ……と紅茶を啜る音が休憩室に静かに響く。
紅茶の温かさごと、彼の優しさが胸の内に染みていくようだった。
「……あの」
涙が収まってきた頃、マコトは出し抜けに口を開いた。
「フェリックスさんのこと、先輩って呼んでもいいですか?」
「セン、パイ?」
彼はきょとんとした。
どうやら先輩後輩という概念はこの世界にはないらしい。
それでもマコトは彼を先輩と呼びたくなったのだ。
「あ、ええと、上司とかじゃなくても、自分より前から仕事をしている人のことを尊敬して先輩って呼ぶ習慣があるんです、僕の世界では。だから、その……」
「へえ、面白いな。いいぜ」
彼は笑顔で受け入れてくれた。
フェリックス先輩は、気のいい親切な人だった。
最初に苦手な人だと思ってしまったのが申し訳なかった。
「よろしくお願いします、フェリックス先輩……!」
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