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第6話

 ミケルを中心にして、ざわめきが放射状に広がってゆく。  一定の距離をあけて取り囲んだ群衆が、ミケルに奇異の目を向けている。 「人間がなんでこんなところに」 「気をつけろ、何をするかわからないぞ」 「早く捕まえろ!」 「逃げなきゃ! そこをどいて!」 「捕まえたら俺にくれ」  知らず、ミケルは両腕で体をかき(いだ)いていた。  トウマの顔が見られなかった。いったい、どんな表情を浮かべているだろう。落胆か、失望か、恐怖か。そこに読みとれる感情を確認するのが、怖かった。  群衆たちはミケルを、どうするのだろう。それを考えると、足がすくむ。  でもミケルは、この期に及んでもなお、こんなところに来るんじゃなかった、とは思わなかった。  トウマに、会えたからだ。  たとえ、人間だからと疎まれたとしても、彼とともに過ごしたこの数時間はミケルにとって、かけがえのない経験だった。心から、幸福だった。  だからもう、いい。どうなったって。そんなふうにも思える。  捕まると、あの屋台で見たような、剥製にでもされるだろうか。  ミケルが帰らないと、リディカは心配するに違いない。エリオの結婚にショックを受けて、自殺でもはかったんじゃないかとあわてるかもしれない。リディカにはずっと心配と世話をかけどおしだった。願わくば、ミケルはどこかへ旅立ったとでも思ってくれますように。  最後は幸福だったから、安心して。 「アンリ! どこ行くの、待ちなさい!」  甲高い女性の悲鳴じみた声が聞こえたかと思うと、小さな足音がして、腰の辺りに何かがぶつかった。少女がミケルに抱きついている。両腕をしっかりとミケルの腹部にまきつけ、泣きそうにした顔で見上げてきた。 「……君は、さっきの」  白目のない黒水晶のような瞳に、大粒の涙をためている。膝をすりむいたわけでもなく、ダンスの出番に遅れそうになったわけでもないのに。この観衆の中、一人でミケルのところへ走ってきたのだと思うと、自然と笑みがこぼれた。  少女の頭をそっと撫でる。 「ありがとう。心配してくれるのかい? 優しいんだね。でも、ここにいると危ない。お母さんが心配しているよ」  少女は涙をためたまま、(かぶり)を振った。 「アンリ、いい子だね。僕は大丈夫だから。もう戻りなさい」  その時突然、ミケルは後ろから抱きすくめられた。  トウマがミケルを、ぎゅっと強く抱きしめている。 「トウマ?」 「ミケル」  首筋に、トウマが顔をうずめている。息がかかって、こんなときなのに鼓動が高鳴る。  なんで。  どうして。  落胆は? 失望は? 恐怖は? 「ミケル、俺」  こうして、抱きしめてくれただけで十分だった。トウマの優しさに、胸がいっぱいになる。  名残惜しいけれど、そんな場合ではなかった。周囲がざわついている。 「トウマ、いけない。こんなことをしたら、君まで」  ミケルが言い終わらないうちに、トウマは勢いよくミケルから腕を離すと、少女のそばにかがみこんだ。 「この人は、俺が守るから大丈夫だ。おまえはもう、母ちゃんのとこに帰れ」  少女はミケルにしがみついたまま、トウマを睨むように見た。それを受けて、トウマはにやりと笑って見せる。 「信用しろって。俺に任せとけ」  そのきっぱりとした言いように、少女はようやくうなずいて、ミケルに向かって微笑んでみせると、母親の元へと駆け戻っていった。 「トウマ、僕のことはもういいから」 「ミケル、俺にしっかりとしがみついて」  有無を言わせず、トウマはミケルの腕を取ると自分の首に巻きつけさせた。 「何があっても、絶対に離さないで。いいね?」 「でも」 「いいから。何があっても、だよ。わかった?」  ミケルはもう、うなずくしかなかった。それを見届けて、トウマも小さくうなずいた。  そして、変化は唐突だった。  一瞬、トウマの姿がぼやけたかと思うと、瞬く間に(フォルム)が変わっていった。  首が伸び、長い角が立ち、尾が跳ねた。丸みを帯びた体から生えた脚には鉤爪(かぎづめ)が光り、背に大きく広げた翼膜をふわりと羽ばたかせた。  素早く、でも優雅に、舞い上がる。ミケルはその滑らかで固い皮膚を持つ首に、必死にしがみついた。何があっても離すなと言ったのは、このせいだったのだ。  足元に遠ざかった群衆の、驚きに息をのむ気配が伝わってくる。  トウマの変化(へんげ)したドラゴンは、テントの上部まで翔け上がると、布のつなぎ目に空いた隙間に勢いよく突っこんでいった。布はつなぎ目から左右に避け、支柱のポールがぐらりと揺れる。どよめきが起き、テント内がにわかに騒々しくなった。ミケルは無我夢中でしがみついていて、下の様子はわからなかった。ミケルの視界の届く範囲にあるのは、立派なドラゴンの体躯だけだ。  やがてバタつかせた翼のおかげで十分に広がった裂け目から、ミケルを背に乗せたドラゴンは夜の闇へと羽ばたき出た。光や音楽や喧騒が、はるか下方に広がっている。でもそれも、ほどなくして消え去った。後はただ暗闇に、小さなオレンジ色の点のような光がぽつぽつと(とも)るばかりだ。  飛行を楽しむ余裕もないうちに、ドラゴンは下降を始めた。両翼を広げた状態で、ゆるやかに下りてゆく。地面とおぼしきところへ到着するまぎわに数度、ゆっくりと羽ばたいてから着地した。  ほっと息をついたミケルが背から滑り降りるのを待って、ドラゴンは当初と同じように瞬く間に、トウマに戻った。  ぐらり、とミケルが座りこむ。 「ミケル! 大丈夫か?」 「……ちょっと、腰が抜けちゃった」 「悪い、驚かせて」  トウマに支えられ、立ち上がる。そのままトウマは、ダンスをしていたときと同じように、ミケルの腰を抱いた。 「怖かった?」 「……少し。でも、あんまり見えないから、そんなには」  ミケルは片手を伸ばして、トウマの青灰色の耳に触れた。 「トウマは、ドラゴンだったのか」 「あんたは、人間だったんだな」 「……ごめん、黙ってて。嫌だろう、人間なんて。それなのに助けてくれて、ありがとう、本当に」 「嫌なんかじゃないさ」 「だって、昔」 「うん。でも俺、違う話も聞いたんだ。人間に捕まったそいつは、そこにいた一人の人間と心を通わせて信頼関係を築いて、戦のときにその人間とその国のために戦ったって。結局、国は滅んでしまったけれど、その人間との絆は切れることはなかった。その話を信じるやつは少ないんだけど、俺はそっちのほうがいいなって思ってた。だって俺は人間に会ったことなかったからさ、本当に人間が悪いやつかなんてわかんなかったもんな」 「じゃ、僕のこと、嫌じゃ、ない?」 「あんたみたいな人間がいるなら、あの話もきっと本当だと思う。初めて会った人間があんたで、本当に良かったと思うよ」 「……トウマ」  ミケルの腰へ回していた手を、背中のほうへ移動させてトウマは、さらにミケルを抱きよせた。顔が近くなって思わず、ミケルは目を伏せる。 「俺、あんたが好きだよ」  耳元にささやかれて、息が止まる。  そんなことって、あるのだろうか。頬が熱くて、顔を上げられない。 「ねえ、あんたは?」  答えて、いいんだろうか。僕なんかが。  ハロウィンだし。カーニバルだし。  そんな言い訳はもうやめる。なんか、なんかじゃないのだ。 「僕も、トウマのこと、好きだ」  顔を上げてミケルは、はっきりとトウマを見た。そこには見目の良い笑みがあった。 「ミケル、キスしてもいい?」  夢かもしれない。夢でもいい。ミケルはうなずいて返す。  間際に目を閉じると、唇にやわらかな感触があった。そっと触れ、優しくついばみ、深く重ねる。一度離すと、今度は割り入ってきた温かいものに舌を絡め取られた。  初めてのキスは、頭の芯がとろけそうなほど気持ちが良かった。  この時間が、ずっと続けばいいのに。そうミケルは思った。  いっそ、このまま時間が止まってしまえばいい。このまま離れられなくなればいい。  でもあいにく、そうはいかない。  唇を離すと、今度は切なげなトウマの顔があった。 「もうすぐ、ハロウィーンが終わる。異界どうしがつながってるのは、ハロウィーンの間だけなんだ。あんたはもう、帰らなくちゃ」 「……もう、会えないの?」 「ミケル」  トウマはもう一度、顔を寄せてきてキスをした。惜しむように幾度も、唇を合わせる。 「離れたくないけど、俺はあんたの世界には行けないし、あんただって俺の世界で暮らすわけにはいかないだろう」  それは確かに、その通りだ。ミケルだって、リディカや家族や友人たちを心配させたままではいられないし、学校には生徒たちもいる。観念して、ミケルは覚悟を決めた。 「来年のハロウィンでなら会えるかな」 「そんなに待てない。次は、夏至前夜祭(ミドサマー・イブ)だ。またここへ来て。絶対に迎えに来るから」 「ミッドサマー? わかった。必ず」 「約束だからな。ミケル」  トウマは最後にまた、ミケルの頬を両手で挟むようにしてキスをすると、肩をつかんでミケルを振り返らせた。 「このまま真っすぐ、来たときと同じようにランタンの明かりを追っていくんだ。今ならまだ、ジャック・オ・ランタンの魔力が残ってるから障害物は向こうから()けてくれる。見えなくても大丈夫だから」 「わかった」 「けっして後ろを振り返らないで。ミケルが見えなくなるまで、俺はずっと見てるから」 「トウマだけ見てるなんて、ずるいな」 「また、夏に」 「うん。必ず」 「さあ、行って」  背中を押され、ミケルは駆け出した。トウマから遠ざかってゆくのは切なくて寂しくて、胸が張り裂けそうだけど、ぐずぐずしていたらまた、リディカに叱られそうだ。  ミケルの進む先を指し示すように、ランタンのオレンジ色の光は一直線に点っている。トウマの言ったように、乱立しているはずの林の木々は一本たりとも進行方向にはなかったし、木の根や石などに足を取られることもなかった。ミケルは真っ暗な闇の中を、ただひたすらに光を追って駆けていった。  見覚えのある景色へとたどり着くまで、そう時間はかからなかった。もともと林はそれほど広いわけではない。ぼやけた視界の中に、ハロウィンナイト限定の電飾に彩られた町の入り口のアーチが浮かび上がる。そこをくぐって最初の角にあるパブが、昔からの友人の店だ。  扉を開けると、騒々しい音楽が襲ってきた。店内は人であふれている。ふざけた仮装をした大人たちが、夜どおし騒ぐのもハロウィンナイトの常だ。 「いらっしゃい。あれ、ミケルじゃないか。リディカが探してたぜ。おーい、リディカ―! ミケルが来たぜ」  カウンタの中から聞こえたのは友人の声だった。ただ、カウンタの中にいる数人のどれが友人なのかはよくわからない。  ミケルがカウンタの隅に席を確保したところで、呼ばれたリディカが人混みから姿を現した。真っ青な目元に真っ赤な口紅で、人混みではただただジャマになる大きな魔女帽子をかぶっている。 「ちょっとミケル、何してんのよ。待ち合わせに来ないのは予想してたけど、イベントにも来ないなんてどういうつもり? あたし一人で子どもたちの面倒見たのよ。あら、メガネどうしたの? それにその髪は何? あたしの渡した角つきケープは?」 「それが……、林の中でメガネ落として割っちゃって、何も見えなくて道に迷って、ケープもどっかで失くしちゃった」  リディカの、やたらと大きなため息が聞こえてくる。 「あきれた。ミケルってば、内容も予想をはるかに上回っちゃうわ。さすがってところよね。でも無事帰ってこられて良かったわ。ちょっと心配してたのよ。それでその髪はもしかして、エリオのせいってとこかしら」 「さすがリディカだな」 「大丈夫なの? ショック?」  リディカは声をひそめるためにミケルへと顔を近づけていたけれど、浮かれ騒ぐ周りの客たちは誰一人、二人の会話になど興味を示していなかった。  ミケルはカウンタでもらった水をひと息に飲み干し、言った。 「もう、大丈夫。今日、すごくいいことあったから」 「いいことって何よ。その様子じゃ、教えてくれるつもりはなさそうね。まあいいわ。迷子になってメガネが割れて、それでいいことあったなんて、いつもくよくよしてばっかりのミケルにしてはめずらしいじゃない。でもまあ、落ち込んでなくて良かったわ。大丈夫かしらって、心配してたのよ。けっこうね」  ミケルの明るい表情を見て、リディカは安心したようだった。また熱気の立ち上る騒ぎの中へと戻ってゆく。  財布を忘れたのだと伝えると、ハロウィンだから特別に一杯だけサービスしてやると友人が言うので、ミケルはスパイス入りのビールを頼んだ。ハロウィンの夜にはかかせない飲み物だったが、こんなに満ち足りた気分で飲むのは初めてかもしれなかった。  傍らの窓から覗いた空にはぽっかりと満月が浮かんでいた。その輪郭はまったく定かでなかったけれど、その目映(まばゆ)さを堪能しながらミケルは、ゆっくりとこの、慌ただしくも恐ろしい、それでいてひどく甘やかな夜のことを、想い返した。                                   ー了ー

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