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第1章

          5    塾を出て、渋谷駅まで二人で並んで歩いていると、何となく人の視線を感じるのは、夏川のせいなのだということに気付く。隣の男の美しさに、皆引き寄せられるように目が行く。夏川と一緒に歩かなければこんな経験をすることはないのだと思うと、真南人は改めて、隣の男の圧倒的な存在感を実感する。  そこには、夏川と比べて自分を卑下するような気持ちとか、比べるレベルを完全に越えている相手に対する羨望などは含まれていない。ただ、とても高揚感のある気分にふわふわと足が踊る感覚を、真南人は密かに味わっている。  京浜東北線に乗り大森駅で降りた時、真南人は、夏川は一体どこに向かおうとしているのかが無性に気になった。まだ行き先は聞いていないが、この駅の近辺には、真南人の良く知るある場所が存在するからだ。  時刻は夜の七時半だった。真昼の暑さの余韻がまだ残る駅周辺には、学生やサラリーマンの姿が目立つ。  大森駅に着いた途端、夏川はいきなり真南人の腕を取り、「こっちだよ」と言いながら目的地に向かって歩き出した。  真南人は夏川が進む方向に不穏な気持ちになる。でも、夏川はそんな真南人の心の中などまったく気にも留めず、ずんずんと歩を進める。  夏川が見慣れたコンビニの角を右に曲がった時、真南人は「まさかな」と小声で呟いた。そしてすぐ、「そんなわけない」という思いに変え首を軽く横に振った時、夏川がある建物の前でいきなり歩みを止めた。そのせいで、真南人は危うく夏川の背中にぶつかりそうになり、慌てて腹筋に力を入れそれを防いだ。 「ここだよ」  夏川は、真南人に振り返り建物を指差した。 「……病院?」 「そう。ここ。ここが俺のお気に入りの場所」 「……意味が分かりません。何故ですか?」 「まあ、いいから。後で分かるよ。ほら、中に入って、自販機でジュースでも買って行こうか」 「行こうって、どこにですか?」 「だから、俺のお気に入りの場所にだよ」  夏川はそう言うと、自動ドアの前に立ちドアを開け、一階ロビーにあるナースセンターの看護師に親しげに話しかけた。二人は既に顔見知りなのか、看護師はにこやかに夏川に応対すると、夏川は真南人に振り返り、エレベーターを指差した。  呆気にとられている真南人をよそに、夏川はエレベーターに近づき前に立つと、迷わず屋上の階のボタンを押した。そして、「真南人君。早く」と言い、真南人を呼ぶと、ほどなくして開いたドアに夏川は先に乗り込み、真南人は慌ててその後に続いた。 「あ、ジュース買うの忘れた。喉渇いてたのに」  エレベーターに乗るなり夏川は悔しそうにそう言った。 「屋上ですか?」  真南人は夏川に確認するように問いかけた。 「そう。屋上。これがね、なかなかいいんだよ。夜の屋上って静かで落ち着くんだ」 「でも、鍵が」  そう真南人が言いかけた時、チーンという音が鳴り、エレベーターのドアが開いた。 「大丈夫なんだよ。昼間は患者さんのために解放してるけど、夜はさすがに鍵をかけるよね。でも、ナースセンターの看護師さんに取り入って実は屋上の鍵を貸してもらってるんだ。彼女、俺の事が好きみたいで。なんかちょっと心が痛いけど、まあ、利用しない手はないなと」 「それって、完全なる病院の監督不行届じゃないですか」  真南人はやや皮肉を込めてそう言った。 「いやあ、俺にとってはかなりありがたいよ。それは、まあ、彼女は僕を信用してるからだと思うけどね。大丈夫だよ。変なことしてあの子に迷惑かけたりなんてしないから」 「そういう問題じゃないと思いますけど、それに、信用してるって言うけど、あなたの家族か誰かがこの病院に入院でもしてるんですか?」  夏川は軽い笑顔で真南人の質問を受け流すと、車椅子用のスロープを歩きながら、屋上のドアの鍵をポケットから出した。そして、ドアノブを掴むと、鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回す。すると、カチャンという音がシンとした空気に異様に響き、その音に、真南人の心臓は少しだけどきっとした。  目の前に広がる屋上は、薄汚れたコンクリートの床と、端の方に追いやられた物干し台があるぐらいで、想像通り殺風景だった。でも、薄い膜がかかったようなあまりクリアではない星空と、眼下に広がるキラキラした夜景はそれなりに美しく、感動するほどまではいかないが、意外と心に染みるその雰囲気に、真南人はすぐに入り込めた。 「どう? いいでしょ? ここが俺のお気に入りの場所だよ。特に夜がいいんだ。静かで、胸がすっとする」  夏川はそう言うと、屋上の端まで歩き、落下防止用の金網を掴むと、「これが邪魔だけどね」と言いながら、真南人に振り返り微笑んだ。 「それがなかったら、もうこの病院は危機管理もできない最低な病院ってことになりますよ」 「あはは。確かに」  夏川は金網を掴みながら両肘を伸ばし、後ろに仰け反るような形で笑った。 「あのね、実はさ、ここの病院に母がすごく世話になってるんだ。だから危機管理はちゃんとしてもらわないと困るんだよね」 「お母さんが?」 「そう。……ねえ、そんな遠くにいないで近くに来てよ。夜風が邪魔して声が聞こえない」 夏川は真南人の方に手を伸ばし「おいで」と優しくそう言った。真南人は、その耳に纏わりつくような声音に、背筋がぞくっと粟立った。  真南人は夏川までわざとゆっくり歩き、隣に立つと、目の前に現れた金網を無意識に両手で掴んだ。カシャンという音を立てぎゅっと掴むと、真南人の僅かに動揺している心が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。 「真南人君の質問に答えるよ」 「え?」  夏川が、心を決めたようにそうはっきりと言った。 「真南人君の言う通りだよ。俺はゲイだ」  そう言って、真南人の方を向いた夏川の顔は、隣のビルの明かりに照らされ少しだけ青白く輝いている。そんな夏川の大きな瞳の中の星が妖しく煌めき、真南人はその美しさに一瞬で心を奪われる。 「そうですか……」  真南人はそれだけを言うと、慌てて夜景に目を移した。 「しかもね、俺は金のために自分の体を使ってる。あのキスした男と援交してるんだよ。あの人街中であんなことするから……あ、真南人君、俺のこと軽蔑する?」 「軽蔑って、そんな……」  真南人は夏川の言葉に頭が完全に追いついていない。でも、夏川がゲイであることと、援助交際をしていることを同時に知っても、真南人は不思議と夏川に対する思いは変わらなかった。 「その人さ、ゲイであることがバレるとやばい立場にある人なんだよ。お互い利害が一致してね。援交関係になったの。でも、援交って言ってもね、基本俺はタチだから、その人のこと抱くの。相手はネコだから。あ、ネコってね、抱かれる側のことを言うんだよ」 「猫?」 「あっ……ごめん。そんなどうでもいい話聞きたくないよね……あ、あのね、結局、塾のバイトだけじゃ足りないんだよ。それに、それが一番手っ取り早いし」  真南人は、夏川から発せられた生々しい言葉に体が強張った。男を抱いている夏川の姿が頭に浮かんできてしまい、焦った真南人は、その姿を掻き消すために、質問を投げかけようと考える。 「どうしてお金がいるんですか?」 「……俺はね、自分がゲイだってことを父親に正直に話したことがあるんだ。そしたら、「早くそのおかしな病気を治せ」って、汚いものでも見るような目でそう冷たく言われたんだよ。だから俺は言い返してやったんだ。そんな病気の息子は父さんの跡継ぎなんか務まるまらないだろうって。俺の家はね、代々製薬会社を経営してるんだよ。同族経営だから俺も父親の後を継ぐ予定だったけど、父親が俺を拒絶したように、俺も拒絶してやったんだ。俺が会社は継がないって言ったら、父親何て言ったと思う? だったら大学なんて出なくていいって言って、本当に学費の一切を出してくれなくなくなったんだよ」 「ああ……それでお金が」  真南人は納得したように頷いた。 「そう。でも、でもね。母さんは俺の味方になってくれた。可哀そうって言って、俺を抱きしめてくれたんだよ。俺がどんな人間でも絶対に見捨てたりしないって言って、泣いてくれた母さんはすごく綺麗だった。俺は母親似だけど、人から言われても、自分の顔を綺麗だなんて思ったことない。俺には、母さんがこの世で一番綺麗だから」  あなたこそ、十分過ぎるくらい綺麗です。  真南人は本当にそう感じていた。だから、その気持ちを伝えたいと思ったが、結局できずに心の中で呟くことにとどまる。 「あの、夏川さんのお母さんがこの病院でお世話になってるって言いましたよね? それってどういうことなんですか?」  夏川から出た母という言葉に、真南人はさっきからずっと気になっていたことを思い切って尋ねた。 「この病院に入院してるんだよ。若年性アルツハイマーで。もう半年になるかな」 「そう、だったんですか」  真南人の心は重くなる。自分の立場に置き換え考えると、益々重くなってしまう。  今、自分の母親がアルツハイマーになったら、真南人は母親にどこまでのことをしてあげられるだろう。現に、母親の世話にどっぷり浸かり、それをまるで当たり前のように受け入れている未熟な自分ができることなんて、きっとたかが知れている。 「俺がこうなったのはお前のせいだって、お前の血が悪いんだって、父親は俺の目の前で母さんを口汚く罵ったんだ。その数週間後だよ。母さんの様子がおかしくなったのは。もちろんアルツハイマー型認知症になる理由が複合的なことぐらい俺だって知ってる……でも、心を傷つけられたストレスの影響力は大きいんだよ……俺はね、父親を絶対に許さないって決めたんだ。あんな男のいいなりになんて絶対にならない!」  夏川の初めて見せた怒りの表情に、真南人は強く魅せられた。眉間に深い皺を刻ませる苦悶の表情すら美しいと感じてしまう自分は、一体どうしてしまったのだろう。    真南人はその感情に抗いたい気持ちでいっぱいになった。そうでなければ、出会った時からこの夏川という人間に自分の心が静かにこじ開けられ、その隙間から顔を出し始めたもう一人の自分の存在を、否が応でも認めざるを得なくなってしまう。  真南人は感情的になる夏川を見つめながら、そっと深呼吸をし、冷静さを取り戻そうと努めた。  夏川は、そんな真南人を不安そうに見つめ返す。 「どうしたの? 真南人君。引いちゃった?」 「いいえ。違います。……あの、夏川さん」 「何?」 「さっきから黙ってましたが、この病院なんですけど」 「うん?」 「僕の父が経営する病院なんです」 「え?!」 「驚かせてすみません。言うタイミングを逃してしまって。僕の父は脳神経内科専門の医師で、認知症のエキスパートです。僕もいずれ父の後を継いで、認知症専門の医師になる予定です」 「う、嘘……」 「アルツハイマー病を含む認知症は、初期段階だったら、進行を遅らせることができる良い薬が開発されていますが、未だ根本的治療薬は見つかっていません」 「は、はあ……」 「僕が何を言いたいか分かりますか?」 「い、いや……」 「夏川さんは今すぐにそのくだらない援助交際をやめるべきです。そんな手段でお金を手に入れて父親に反発しても、夏川さんが傷つくだけですから。あなたのしていることは全く無意味です。もっと意味のあることをしてください」 「意味のあること?」 「そうです。夏川さんは自分の素晴らしい環境に全然気づいてない。その頭脳が何のためにあるのかも」 「どういうこと?」 「製薬会社。これがキーワードです」 「製薬会社ってうちの?」 「まだ気づきませんか? 新薬ですよ。認知症の新薬。夏川さんは父親の後を継いで、この病気の新薬を開発してください。大好きなお母さんのために」  夏川の目が弾かれたように大きく見開いた。 「ゲイであることを拒絶されたことや、お母さんが傷つけられたことに怒る夏川さんの気持ちは良く分かります。お父さんだけでなく、人って想定外なことに出くわすと、パニックになり、他の誰かのせいにしたくなる弱い生き物ですから。だからこそ、息子にゲイだと告白されて、お父さんは夏川さんが思ってる以上にショックだったし、パニックだったはずです。常識的で昔気質の人なら尚更です。だから、簡単に受け入れてもらおうなんて所詮無理な話なんです。ただ、そこで諦めては駄目です。自分を投げやりに貶めたりせず、夏川さんはゲイという自分にもっと誇りを持つべきなんです。その心持のまま、お父さんに受け入れてもらえるよう諦めず歩み寄ったら、その気持ちはいつか必ずお父さんに届くんじゃないかと思います。きっとお父さん、夏川さんが後を継いでくれたら、やっぱり嬉しいと思いますが、どうでしょうか?」  夏川はぽかんと口を開けたまま、そう一気に話す真南人を呆然と見つめている。 「は、はは……真南人君ってさ、俺が思ってる以上に大人だったんだね。目から鱗ってこういうことを言うんだな。きっと」  夏川は自虐的な笑みを浮かべながら、金網におでこを軽く打ち付けた。 「すごく恥ずかしいよ。バカだな、俺は。自分のしてきたことが今更ながらに信じられない」  悲しそうな夏川の横顔に真南人の胸は締め付けられる。でも、真南人は今すぐにでも、夏川とその見ず知らずの男との援助交際を止めさせたかった。やはりそれはどう考えても夏川にとって良策であるわけがないし、その投げやりな行為によって、夏川の心がいずれ取り返しのつかないまでに傷ついてしまうのではないかと危ぶんだからだ。  それでも、無言で俯く夏川の横顔を見ていると、真南人の心はひどく居たたまれなくなってしまう。 「やっぱり真南人君をここに連れて来て正解だった。俺はね、君がこの場所にすんなり溶け込むような気がしたんだよ。真南人君の雰囲気が、俺はとても好きだから」 「は、はあ」  真南人は一瞬、話がおかしな方向に向かってしまうのではないかと不安になった。確かに、年下の分際で、目上の者に進言するなどかなり生意気な行為だったと後悔しても、時既に遅い。 「やめるよ」 「え?」  真南人は俯いていた顔を勢いよく持ち上げた。 「……バカらしい援交は。だって、年下の真南人君にそこまで言われたら、格好悪くてやめないわけにいかないだろう?」 「夏川さん……」 「まあ、どんな風に父親に歩み寄ったらいいかは正直まだ分からないけどね……ただ、俺はね、母さんへの暴言だけは父親に絶対に謝ってもらいたいんだよ。それを条件に、会社を継ぐことを前向きに考えてもいいかな……」  何かを吹っ切るように、夏川は天を仰ぎ見みながらそう言った。  真南人は心の底から安堵した。これ以上自分を傷付ける夏川を真南人は見ていたくない。これが最善の方法かなんて神様じゃない真南人には分からない。でも、決めるのは夏川だ。夏川がそう決めたのなら、それは最善の方法に違いないと真南人は強く思った。

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