6 / 25
第1章
6
屋上から降りて病院を出ると、二人の距離が、病院に来るまでよりも急激に縮まったような気がして、真南人の心は途端に落ち着かなくなった。
自分のすぐ隣で歩く夏川との距離が物理的にも近いのは、まるで強い引力にでも引っ張られているみたいで、お互いにそれを感じつつも知らない振りをしているような感覚が、真南人の心臓をドキドキと躍らせた。
完全に自分の独りよがりだったら……。
真南人はふとそんな自分の思い込みに恥ずかしくなり、少しだけ夏川と距離を空けた。
「真南人君?」
そんな不自然な真南人の態度に気づいたのか、夏川が真南人の名を呼んだ。
「手を、繋ながない?」
「え?」
「大丈夫だよ。ほら、この路地を通ると、誰もいないから」
夏川は笑顔でそう言うと、真南人にそっと手を差し伸べた。
「大丈夫。治安は悪くないよ。俺はこの近道何度も通ってる」
夏川の白い手をじっと見つめながら、真南人は夏川に触れたい欲望を押さえようと戦うが、あっさりと負けてしまい、引き寄せられるように手を握った。
「行こう……」
夏川はそう言うと、真南人の手を取り強く引っ張った。初めて出会った時に交わした夏川との握手はまだ冷たかった。でも、今は火傷しそうなほど熱くて、その熱が全身を凄い速さで駆け巡っていく。
「あ、待って」
強引に手を引っ張られ、真南人は前のめりになりながら夏川と歩いた。
夏川が歩き慣れている路地は薄暗く、確かに他に歩いている人はいなかった。飲食店が数件置きにあるくらいで、正直余り賑わっている通りではない。
「ごめんね。今日の俺、少しおかしいんだ」
夏川は真南人の手をぎゅっと握ると、苦しそうにそう言った。その言葉の意味を考える余裕が既に真南人にはなく、真南人は足を止めると、夏川を躊躇うように見つめた。
「何が、おかしいんですか?」
そう真南人が問いかけた時、突然、生温かい夜風が真南人の頬を掠めた。
「真南人君はこの手を掴んでくれたね。それってどういう意味?」
「え?」
真南人はその質問に対する答えなど全く用意していなかった。ただ、夏川の手を握りたいという強い欲望に突き動かされただけで、心が正直にそれを求めてしまっただけで。
「わ、分かりません……僕は、ただ……」
「ただ……何?」
自分たちが立っているすぐ脇にある、更に細い路地に夏川は突然真南人を引き入れた。驚いた真南人をよそに、夏川は空き店舗になっている店の壁へ、真南人の両肩を掴むと強く押し付ける。
「な、夏川さん……な、何をして」
「初めて会った時から、凄く気になってた。真南人君のことが……でも、君がノーマルだったらって思ったら凄く怖かったよ……でも、違う? 君もゲイなの?」
暗くて顔は良く見えないが、夏川の声には焦燥感が漂い、切羽詰まっている感情が読み取れる。
「な、何をいきなり言うんですか? ち、違います」
真南人は自分でもその答えが分からない。本当に分からずそう答えるしかない。自分という人間は何者なのか、真南人は今までそんなことを考えたこともなかった。ただ、敷かれたレールに乗ることが正しく、そこから外れる世界があることなど想像したこともなかったからだ。でも、今自分が強く感じているこの胸が焦げるほどの切ない気持ちに名前を付けるなら、それは何だろう。一体何だろう。自分はそれに、名前を付けても良いのだろうか……。
「本当に? 初めて会った時から、俺には真南人君がこっち側の人間に見えたけど……違うの?」
夏川は真南人の両肩を強く握りながら、真南人の耳にわざと口を近づけてそう言った。
「は、離して夏川さん……ぼ、僕は違う」
真南人は、耳元に当たる夏川の吐息に見悶えながら、必死にそう伝えた。
「そうか、ごめんよ。不快な思いさせて。軽い冗談。これはさ、ただ単に俺の希望的な観測なわけ。真南人君がゲイだったら良かったのになっていう……」
夏川は落胆したように、真南人の肩からそっと手を離した。
「……どうして、僕がゲイの方がいいんですか?」
「そんなの……真南人君がめちゃくちゃ俺のタイプだからだよ」
真南人は一瞬で顔が真っ赤になった。思わず両手で頬を覆い、恥ずかしさの余りそのまま床にしゃがみ込んだ。
「だ、大丈夫? 気分悪くなったの?」
夏川は素早く真南人の脇にしゃがみ込むと、そっと真南人の肩に腕を回した。
「ごめん。本当にごめん。俺マジでおかしい。本当にどうかしてる……何かもう、真南人君の前だと俺、すげーバカになる……」
夏川は自分に心底呆れたように投げやりにそう言うと、優しく真南人の肩を摩った。
「大丈夫? 立てる?」
夏川は優しく真南人にそう言うと、真南人の脇に手を入れて体をゆっくりと起こした。
真南人の目の前には、さっきとは違う立ち位置のせいで、街頭に照らされた夏川の美しい顔がはっきりと浮かんでいる。夏川の顔があまりにも近くにあるせいで、真南人は夏川から溢れる強い引力に抗えず、その顔から、1ミリも目が離せなくなる。そのせいで、真南人と夏川は、まるで石にでもなったかのように、お互いをただ無言で見つめ合った。
「真南人君……ごめん……キスしていい?」
「え?」
「嫌、かな?」
突然の問いかけに真南人はパニックになり、自分の中の判断力という機能が、一瞬壊れかける。
「い、嫌とか……そんな」
真南人の心臓はバクバクと暴れ出し、それと同時に膝もがくがくと震え始めた。こんな経験は初めてで、まるで生まれたての子牛のような自分の状態が心の底から情けなくて、真南人は壁に寄りかかると、首が落ちてしまうほど深く項垂れた。
「こっち向いて。そのかわいい顔、俺に見せて……」
夏川はそう言うと、真南人の顎をそっと指で掬った。
「俺は真南人君の目が好きだよ。綺麗に縁どられた、大きな瞳が……この白い肌も、しっとりとした黒髪も好きだ……凄く色気がある」
「や、やめて……」
髪を妖しく撫でられ、真南人はびくっと肩を震わせた。自分をまっすぐに見つめる夏川に、真南人は渾身の思いで目を反らす。
「反らさないでよ。その目にじっと、見つめられたいな」
「な、夏川さん、こんな冗談やめませんか?」
夏川は、真南人の言葉を軽く無視すると、真南人の顎に添えた指に力を入れ、自分の方に真南人の顔を向けさせた。
「真南人君はこれを冗談だと思ってるの?……悲しいなぁ」
夏川がそう言った次の瞬間、真南人は、夏川の唇が自分の目の前に迫って来るのに気づき、驚きで思わず目を瞑った。
「あっ」
抵抗する間もない、唇が軽く触れ合うだけの儚いキスに、真南人は茫然と夏川を見上げた。
「あれ? 物足りない? もし、物足りないんだったら、真南人君から俺にキスしてよ……」
真南人は、挑発するような夏川の艶のある物言いに、自分の深層部に隠された何かが、今ゆっくりと目を覚ましていくような感覚に捕らわれた。その感覚は、自分を別な人間へと覚醒させるかの如く、真南人の理性を急激に奪っていく。
「ひどい……夏川さんは……本当に、ひどい……」
真南人の、自分でも驚くほどの低い声を聞いて、夏川から笑顔が消えた。
「ま、真南人君? 怒ったの?」
困惑したように問いかける夏川の頬を、真南人はいきなり両手で挟んだ。固まる夏川の顔を真南人は数秒間見つめると、自分から顔を近づけ、夏川の唇にキスをした。
「っん!」
夏川は驚いて一歩後ずさりをしたが、少しだけ躊躇いながら真南人の腰に手を置くと、そっと引き寄せ、自分の舌で、真南人のそれを刺激するように絡め取る。
真南人は夏川の舌と触れ合った瞬間、全身に稲妻が走ったような戦慄きを覚え、立っていることさえままならなくなった。この行為を止めなければと焦っても、まったく理性が働かず、巧みな夏川の官能的な舌先に、自分の舌と脳味噌がどろどろと溶けていくような感覚に酔いしれてしまう。
「んんっ、はあ、はあ……」
二人は、途切れ途切れに息をしながらキスをし、高まる興奮に突き動かされるように、大胆にも角度を変えながら深い口づけを交わそうとした。その時、二人の視線が偶然絡まり、その瞬間、真南人は不意に我に返った。
「あっ! んんっ……や、やっ、やめます! 終わりです!」
「んんっ? 何?」
夏川は名残惜しげに唇を離すと、潤んだ瞳で真南人を愛おしげに見つめた。
「ぼ、僕、もう帰ります。さ、さようなら!」
「え? 何で? 駅まで一緒に帰ろうよ」
「だ、大丈夫です! 一人で帰れます!」
「それは分かるけど……どうしたの? やっぱりキス、嫌だった?」
「ち、違います。そうじゃなくて……と、とにかく、よ、良かったです。夏川さんが援交をやめるって言ってくれて。ぼ、僕も早く医者になって、夏川さんのお母さんを助けられるよう頑張りたいと思います。じゃあ!」
真南人は踵を返すと駅に向かい歩き出した。その歩き方はとてもぎこちなく、今にも転びそうなほどつたないと自分でも分かる。
「真南人く―ん。ありがとう! 本当に今日はありがとう!!」
夏川の叫ぶ声が、夏の夜の生ぬるい空気に運ばれて真南人の耳元に届く。真南人は耳に残る夏川の声がものすごく恥ずかしくて、ぎゅっと固く拳を作ると、無我夢中で夜道を走り抜けた。
ともだちにシェアしよう!