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第29話 透明人間、蒲田
――今日は冷えるから、中に入って待っててくれ。すぐに降りるから。
と、言われましても……えぇ。こういうところに、ひょいって入って怒られない? 不審者侵入って警備員さんが捕まえに来たりしない? 受付で、「なんだお前は」って睨まれたりしない? どう見たってサラリーマンに見えないでしょ? なんの仕事してるんです? って感じじゃない?
そんななのに、スーッと入って待ってて大丈夫?
この前、書類を届けに来た時は外で待ってた。中には入らなかったから。
でも、今回は寒いから中に入って待ってることになって。
黒いコートにしてよかった。
グリーンの鮮やかなコートにしちゃってたら、すっごい浮いてた。
中に入ると、ホッとするくらいエアコンで暖まってた。
乾燥すごそう。
肌とかカピカピにならないのかな。って、こういうところに勤めてる女の人は、そういうの完璧な人ばっかなのか。
すごい……とこ、だなぁ。
ここで久我山さんは仕事してるのかぁ。正面エントランスは天井が高くて、わずかな声さえも響き渡るような、そんなところで。でも、絨毯が敷き詰められてるから、十センチのピンヒールで颯爽と歩いたって、なんの音もしない。
そんなところで待っていた。
デート、じゃないよ。
そういうんじゃなくて、今日は――。
「久我山君」
天井の高い高いエントランスにとても綺麗な高い声が響いた。
「あぁ」
「今日はもう帰るって」
「あぁ」
「ごめんなさい。この件だけ意見いただいても構わないかしら」
わ……美人。
エントランスに向かう久我山さんを追いかけるようにして、ピンヒールでもないし十センチでもないけれど、絶妙なバランスで足が綺麗に見えるラインのパンプスを履いた女の人がそこにいた。
「これなんだけど……」
まるで久我山さんの胸元に寄り添うようにして、その人は隣に立っている。うなじを曝け出すような角度で首を傾げながら。ほのかに香水をつけていたら、ふわりと鼻先にその香りが触れるような、そんな距離感で。
「……でいいんじゃないか?」
「そうかしら。ありがとう。助かったわ」
あ……。
「あぁ、それじゃ、お疲れ」
「お疲れ様」
多分、そう、ですよね。
「聡衣」
「……うん」
久我山さんはフロントにいる俺を見つけて、少し歩を早めてこっちへ向かってくれる。もうその背後に女性はいなくなってた。きっと職場の方へと戻っていったんだと思う。
「待ったか?」
「ううん」
ちらっとでも、さっきの女の人は、久我山さんが誰のところに向かったのか、確認したんじゃないかなぁ、なんて。
で、それが男だったから確認終了、とかなのかも。最近、浮いた噂がないだろう久我山さんの現状確認、とか、かな。
「行くか」
「あ、うん」
ご安心ください。
「久我山さん」
「?」
「今の人、すっごい美人だったね」
「……そうか?」
「うわぁ、今、男性を十人くらい敵に回したと思う」
「なんでだよ」
「今、プラス五人くらい、また敵に回した」
久我山さんはただいまフリーです。
そんで、俺たちはそういうのじゃ、ないので。
俺、ノンケは恋愛対象外、なので。
「だから、なんでだよ」
「知ーらない」
「聡衣」
「?」
もちろん、ノンケの久我山さんは恋愛対象、外なんで。
「寒くなかったか?」
「……全然」
だからご安心くださいって、胸の内で言いながら、頻繁に付けてくれてるあのタイピンがキラリと光るのを見つめた。
用心深いくらいじゃないと政治家の秘書なんてきっと務まらない。
「就職おめでとうございます。これは就職のお祝いです。どうかお二人で仲良く召し上がってください」
恐るべし、政治家秘書の情報網。
なぜに俺の転職成功を知っている。
「あ、ありがとうございます」
「……いえ」
俺、言ってないけれど。
「お仕事先、ご自宅の近くなんですね」
「あぁ、俺たちの、マンションから歩いて数分、最適だろ?」
久我山さんも言ってないとは思う。
「それは、とっても良いところを見つけましたね。お祝いさせていただいてる私もそれは安心できます」
今日、仕事場で待ち合わせてまで俺たちは外食デート、ではなく。
蒲田さんに食事に誘われた。あ、もしかして、お店の定休日までもう調べてあるのかな。あるよね。そうなんです。明日はお店が定休日でお休みなんです。もう一日、月曜日もシフトでお休みをいただけることになってる完全週休二日制なんですけど、それも知ってたりする?
転職一週間目のタイミングで食事に誘われたんだもん。なんでも知っていそう。そして怖いのは本当に最初に言われた通り、生活をする上でなんの邪魔もないこと。監視されてる感も、邪魔な監視者も一切目に入らないのがむしろ恐ろしくない?
「交際の方は順調ですか? 枝島さん。あ、ビールどうぞ」
「あ、どうも……えっと、交際の方は順調です」
そこで、怪しまれることのないように、初めての時と同様に。手を。恋人つなぎでぎゅっとしながら、ぐいーっと二人でくっつけて作った武骨な握り拳を彼の目の前に突き出して見せた。
もちろんそれを怪しんでいますって顔で睨まれたけれど。
もしかして、蒲田さんって変装がド下手と見せかけて、本当は透明人間にでもなれる地球外生命体なんじゃないの?
「そうですか。それは何より」
「はい」
実は常にさ。
「そのくらい順調で、お付き合いの方もすでに二ヶ月になりますよね? あの時で一ヶ月でしたから」
「えぇ」
「そのわりには」
「?」
身体のどこかにあるスイッチひとつ押しただけで透明人間になれるんじゃないの? ねぇ、本当はそうなんでしょ? ねぇ、ねぇ。じゃなかったらさ。
「いまだに、枝嶋さんは久我山さんと苗字で読んでいらっしゃるんですね」
じゃなかったら、今、今日、一度も蒲田さんの前で久我山さんって言ってなかったのに、そんなことを知ってるわけが、ないじゃない?
「ラブラブ、なのに?」
恐るべし、政治家秘書、透明人間蒲田、恐るべし。
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