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第35話 固結び

 ――こいつは俺の。  びっくりした。  びっくりした。びっくりした。 「はぁ……さっきの、楽しかったな」  びっくり、した。 「あぁいうの、一度やってみたかったんだ」  旭輝は笑いながらそんなことを言って、あははって、声に出して笑って、今日はずっとおろしたままの髪をかきあげた。  一度やってみたかった、なんて言ってさ。  その一度やってみたかった王子様みたいなこと、王子様がお姫様を守ってあげるようなのさ、相手、違ってるじゃん。  お姫様、でしょ?  女の人が対象のくせに。俺みたいな男相手に守ってあげたって、ちっとも楽しくなんてないでしょ? 俺、男だもん。  知ってるでしょ?  俺が、ああいう奴相手ならグーでぶん殴れる男だって、覚えてる、でしょ? あ、しかも同じトイレだし。ちょっと笑える共通点発見、なんちゃって。  トイレで痴話喧嘩。  トイレでナンパ。  俺がお姫様なわけないじゃん。 「トイレに行ったあとを追いかけるように知らない男が入って行ったのが見えたからな」  それで、様子を見に来てくれたの? 「心配してよかった」 「わ、わかんないじゃん。俺、ゲイだよ? ナンパされてついてこうとしてたかもしれないじゃん」  ホイホイって捕まえられてたかもしれないじゃん、なんてこれっぽっちも可愛くなくて、これぽっちもそんなしたくなかったことを、まるで子どもの反対言葉遊びみたいに言ってしまう。  あぁ、もう。  なんでこんな思ってもいないこと言うんだろ。  なんでこんな不貞腐れたような言い方しちゃうんだろ。  そう自分の呆れそうになった俺の頭を、旭輝がふわりと微笑んで、大きな手で。  ぽんぽん、って。  二回、した。 「陽介、だっけ?」 「え?」  話し、変わっちゃった。 「楽しい友達だな」 「あー、うん。けど、今日は特別はしゃいでた」 「そうなのか」 「イケメンにとことこん弱い」  クスッと笑ってる。きっと陽介が隣にいたら、絶対にぎゃーイケメン! って騒いでると思う。  あのナンパ男は、旭輝にああ言われて、「あぁ、そうなんだ。ごめんね」って軽く謝ってその場から立ち去った。でも、もう時間も遅くなってきてたし、明日、陽介含め全員仕事だったから、飲み会はそこでお開きになった。  陽介は楽しそうに手を降って「またね、久我山さん」って言ってた。  またね、って。 「あ! あれか!」 「?」 「頭からバリボリ」 「………………っぷ、あははは」  言ったっけ、そんなこと。まぁ、あり得そうなそんなテンションだったよね。陽介。  今日、異様に高かった陽介のテンションと、今、旭輝がしてみせた、「頭からバリボリ」のジェスチャーが相まって、すごく面白かった。陽介、完全に妖怪じゃんって。ホラー映画大嫌いな俺でも、大笑いしちゃうくらい、確かにやっちゃいそうなノリだったから。 「……笑った」 「えぇ? 何、」  な、に。  鼻のとこ、ぎゅって。 「飲んでる最中、あんま笑ってなかったろ?」  ぎゅって摘まれた。 「今日、せっかくの休日、連れ回したからな」 「……」  鼻、触った。 「俺も足、すげぇ疲れた」  笑ってなかった? 俺?  そう、だよね。あのナンパの人、俺のこと友達って思ってたもんね。目の前でイチャつく友達カップルに「はいはい」って返事をしてる退屈そうな友人だと思ってたもんね。  旭輝、気がついてくれたんだ。 「あ、旭輝!」 「んー……?」 「た、楽しかったよ!」  でも退屈なんかじゃなかったよ。  つまらなくなんかなかった。 「動物園、久しぶりだったから楽しかった。ライオンも、虎も、クマも、馬も……カンガルーだって」  すごく楽しかったの。 「あとイルミネーションも、綺麗だった」  見惚れるくらい綺麗だって思ったし。 「だから、その疲れてもない、し……あ、アパレル販売員って一日中立ち仕事だから全然あのくらいヨユーなの! へっちゃら! まだ歩ける! むしろ仕事じゃないからのんびり歩いてて、ヨユーだし」  楽しくて仕方なかった。だから一生懸命、ぎゅって自分の胸のところを固結びし続けてた。ぎゅ、ぎゅーってさ。そうでもしないと。 「今からジョギング……はしたくないけど。運動好きじゃないから。けどっ」 「っぷは、すげ……まだ歩けるのか?」  そうでもしないと。 「やっぱ、何年もアパレルやってる奴の足腰すげぇな。けど」  今日は昼間日差しがあると暖かくて、ボリュームのあるマフラーをしてると少し汗ばんでしまいそうなほどだった。でも、日が落ちるとぐんと寒くなって、今は、このマフラーしてないと風邪引きそうなくらいで。 「聡衣の鼻、すげぇ冷たかったぞ」 「……ぁ」  旭輝が目を細めて微笑みながら、自分のすっと通った鼻筋を指先で撫でてから、摘んでみせた。今さっき摘んだ俺の鼻先が冷たかったと言いながら。 「風邪引く。明日も仕事だろ?」 「……」 「帰ろうぜ」  俺は旭輝を見つめて、ぎゅって、固結び。 「聡衣」  そうでもしないと、溢れちゃいそうで――。  なんか、溢れそうで、マフラーの中に顔を隠して、唇を噛み締めて、キュッと結んだ。

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