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第66話 夏の稲光で、秋の嵐で、そして(旭輝視点)
エダシマさんは今どこにいるのだろうか。もう何年も経ったのに、まだ忘れられない……なんてな。こんなに引きずるとはな。
「久我山さん、二番に外線です」
「……はい」
電話なんて珍しいな、そう思った。大体メールが多いんだ。言った言わないで問題にならないように。仕事柄。
「もしもし、お待たせしました。久我山です」
『……こんにちは』
でも、声ですぐになぜ電話なのか分かった。
「……どうも、お世話になってます」
『……蒲田です』
「……えぇ、存じてます」
用件も、すぐに分かった。
『大変申し訳ないのですが……』
「はい」
そして予想通りの用件に、溜め息混じりで答えて言われた場所と時間をメモに書き残した。
十九時、か。
まぁ、待ち合わせには間に合うかな。ただその時間に指定されたところまで行くのが面倒だけど。それにこの仕事してる人間に十九時待ち合わせって無理だと思わないか? フツー。でも、あの人、どっか天然っぽいところあるし、無駄に生真面目だから、夕食は十九時、とか決めてそうだし。
それにしても、まさかレストランに呼び出されるとは思わなかったな。
レストランで食事をしながらするような話なんてないだろ? 和やかなムードなんて皆無になるだろうに。
主である先生の愛娘に手を出すな。
そんなところだろうから。
「やぁ、久我山」
廊下を歩きながら、小さく溜め息をついたところで、前方から声をかけられて顔を上げた。いたのは、同期の河野だった。
「どう? 調子は」
初任でデスクが隣だった。そこで半年、一緒に仕事をして、それからは異動になってパタリと会わなくなったが。地方に行っていたのが最近帰ってきたらしくて。
「……あぁ」
「あぁ、か……すごいよな。一年目の時の初々しかった久我山が今じゃ、有能だと上からの信頼も厚く? 下からは慕われる人気者だもんなぁ」
そして、どうしてか、新人の頃とは変わった俺のことがやたらと気に食わないらしい。見かける度に声をかけてくる。むしろ、新人の頃から数年経っても変わらない奴の方がおかしいだろ? と思うんだが。
「そして今度はあの先生の愛娘、だろ? さすがに先生の力とコネには、あの噂の初恋の人も負けたかよ」
「聞いてるぜ? 先生の祝賀会で気に入られたっていうじゃないか。すごいよなぁ。ゆくゆくは自分もそっちの世界へ、とか? あの先生のコネがあれば、一躍トップに躍り出られるもんなぁ」
「……」
「顔がいいと得すること多いよな」
「別に、そういうのじゃない。それに、ルックスなら河野の方が人気あるだろ? キャンパスグラフティだっけ? 初任の時に見せてくれただろ? ちょっとしたアイドル並だったのを覚えてる」
「!」
「それから、あの先生の祝賀会で気に入ってもらえたらしいが、彼女、婚約者いるよ。俺は丁重にお断りしてる。それじゃ」
まだ何か言いたそうにはしていたけれど、俺もこの後、あの時間にやたらとうるさい生真面目蒲田との約束があるから、その場を急いで後にした。
何せ、まだ仕事は山積みなのに、十九時よりも前、せめて三十分前にはレストランに行っておかないといけないから。
待ち合わせまでにどうにか仕事を終わらせて、急いで駅へと向かう途中で運よくタクシーを拾うことができた。それに乗り込んで、指定されているレストランのあるショッピング街へ。
これで間に合うな。
そう腕時計の時間を確認して、タクシーの後部座席シートに背中を預けた。
河野にも、先生の愛娘騒動は知られてたな。
それからあの人のことも。デスクが隣で、つい話したんだ。あの人に出会ってすぐでどうしても誰かに話したくて話したくて、隣のデスクだったあいつに話したんだ。エダシマさんのこと。
「……言う相手、間違えたな」
そうぽつりと呟きながら、タクシーの外を流れる賑やかな繁華街の景色を眺めてた。
大学進学のために上京してすぐ、この繁華街の賑やかさと煌びやかさにくらくらしたっけ。何時になっても人が行き交う街に驚いたのを覚えてる。生まれ育った場所はもう夜の七時にもなれば真っ暗でポツリポツリとお情け程度に灯ってる街灯の明かりすらいらないほど人もいなかったから。
「……」
そんな田舎で育った俺にとって、あの人はとても鮮やかだった。
あのあと、しばらくして、店に行ってみたいけれど、その時、彼はいなかった。名前、覚えてたから。
――あの、エダシマさん、は?
わざわざ他の店員にも訊いて。
――エダシマ……あ、聡衣君! すみません。彼、先週退職したんです。何か、ございましたか?
けれど、もうその時にはあの人はいなくなってた。慌てて、なんでもないです、なんて言ってその場を離れて。バカだなって、失敗したって、すぐに後悔したんだ。連絡先は無理でも、何かその後の彼の所在でもなんでも聞けばよかったのにって。けれどそれもやっぱりあの人の迷惑になるかもしれないと、引き返すことはしなかった。でも――。
「……」
まだ、覚えてる。
もう何年も経ってるのに、まだ覚えてるんだ。
あの人の夏の青空みたいな爽やかな笑顔と、春の桜のように柔らかい声色を――。
「ちょ、何! 今のっ」
「シーっ! いーから、聡衣!」
「はぁ?」
目の前を、男が二人、連れ立っ……て、じゃない。
「ちょっ、何っ」
男が、腕を掴んでトイレに。
「いーからっ、今、説明するから! とりあえず、聡衣!」
サトイ……って。
「はぁ?」
彼は。
彼は、サトイ? って。
今、確かにそう言ったよな。
そんなことあるか? でも、よくある名前じゃない。珍しい名前だ。それにあの髪色。あの横顔。もう記憶は朧げだ。何年も前のことなんだ。不明瞭で、不確かで。
でも、声はあんな感じだったようにも思う。
声色は違ったから確かじゃないけど。でも。
「!」
その前に、そんなあの人のことを思い出してる前に、なんだ今の。トイレに連れ込まれてたぞ。今、確かに。
「最低短小男!」
トイレに入った瞬間聞こえたのは、その人の弾くような激しい声。それから皮膚を打ち付けるただならぬ音。
「ってぇな! 人が優しくしてやってんのにっ」
「!」
男が殴られてた。
それは夏の稲光のようで。
「っっっっっ」
秋の嵐のようで。
「いや、さすがにあんたはグーで殴ったらダメだろ」
咄嗟に手を伸ばした。
「殴られても仕方ないことしてんのに」
その人は、目を見開いて、ふわりとあの時とは違う髪色になった明るいアッシュグレーの髪を揺らした。
「二股しておいて、女の方とデキ婚。けっこうぶん殴られて当たり前だぞ」
「! 誰だてめぇ! 関係ない奴がなんなんだよ!」
「ちょっと彼に用事があるんだ」
そして――。
「とりあえず、さとい、はもらってく」
その名前を、俺は少し緊張しながら口にした。
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