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第67話 夢、じゃない
嘘……だろ?
「さとい、が名前?」
「…………え?」
「名前、あれがそう言ってた」
こんなことってあるのか?
――聡衣君?
あの時、エダシマさんのことを訊いた店員は確かにそう言ってた。
「あ、うん」
もう顔は記憶の中に朧げに残ってるだけ。ただ鮮烈で鮮やかなのか、あの人と話した時の自分の中に起きた、今まで感じたことのない高揚感。
「漢字は?」
「は?」
「名前の漢字」
もう会えないと思ってた。
そりゃそうだろ。この広い世界でたった一度、スーツを選んでくれただけの人をもう一度探し出すことなんて不可能だろ。
「あ、えっと…… 耳へんに公園の公を書いて心」
「それと、衣、ころも? 伊、イタリアの?」
「あ、ころも……」
「聡衣」
ありえない。
「上は?」
もしもあの人ともう一度会えたなら、それは、奇跡。
エダシマさんは多分、あの男と付き合っていた。だけどその男には恋人がいて、その恋人は妊娠中。フツー、この状況でその女性の心配なんてしないだろう。でもこの人は、彼女には話を聞かれていないと思う。妊婦グッズを選ぶのに一生懸命だと教えると、ホッとした顔をした。
「それで」
どのくらいの確率だろう。
あの時の店員に再会できる確率。名前しか知らない、あと、歳か。同じ歳ってことしか知らない。そんな人と再会する確率。
「それで苗字は?」
「……ぇ」
「って、突然フルネームは怪しくて言えないか」
天文学な数値になる。
「これ、俺の名前」
その人は、俺がスーツの内ポケットから運転免許証を取り出すところをじっと眺めてた。その幾分か背の低い彼が目を伏せて、俺の手元だけを注視してる。その伏せた視線、長い睫毛は、朧げな記憶の中にしっかりと残っていた。綺麗な目元だと、あの時、思った。
「久我山旭輝だ」
あの人に名前を告げられた。
あの瞳がじっと俺を見つめる。
「聡衣は?」
少し、彼の名前を呼ぶ声が震えた。わずかに。
「不信なら、これ、運転免許証のコピーでもやろうか?」
「あ、いや、大丈夫、そこまでしなくても……えっと」
どんどん朧げに、雲に隠れて見えなくなる月のようにその輪郭が滲んでいっていた。その記憶の中でも名前だけは確かな、くっきりとした形を保って、頭の中に残っていた。
彼の名前は聡衣。
「枝島、です」
エダシマサトイ。
もう一度会いたいと願っていた。
「木の枝に島?」
「あ、うん」
会えた。
「聡衣は職なし、宿……今、なくなったな」
「は、はい」
天文学的数値になる。
「仕事は斡旋してやれないが、宿なら提供してやれる」
でも、会えた。
「家賃ゼロ、仕事が決まるまでいてもらっても構わない」
会えたんだ。
「光熱費、食費も、別にいらない。ただし、ちょっと頼み事がある」
奇跡。
「俺の恋人のフリをして欲しい」
もうなんでもいい。
なんでもいいから。
突拍子もない理由をなんでもかき集めて、とにかくこの人を引き留めようと、その突拍子もない理由をその足元に引き止められるようにと必死になってばら撒いた。
「聡衣」
突拍子もない。
「……にも程があるだろ」
自分のかき集めた、彼を引き留める理由に今更ながらに溜め息をついた。
「なんだ……恋人のフリって」
シャワーを浴びながら、たった数時間で起きたありえない出来事の連続を自由奔放に跳ねて流れていくシャワーの雫を目で追いながら思い返す。
蒲田もよく信じたな。
というか、あの人もよくついて来たな。もう少し怪しんでもいいだろうに。
「って、俺が言うなよ」
とある女性に好意を持たれている。だがこちらはその気が全くない。とにかくそのことをとある人物に証明しなければならない。けれど、どう話しても信じてくれそうにない。
なので、いっそのこと女性には興味がないんだと、興味がなくなったんだと証明したい。
だから、俺の恋人のフリをして欲しい。ちょうど住む場所も無くなってしまったようだし、それならうちに来て同棲していることに――なんて。
ドラマでもありえないだろ。そんな展開。
ラブストーリーにならない。突拍子がなさすぎて、信憑性のないご都合主義がすぎて。
「……ふぅ」
でも。
「……」
でも、起きた。
「……本物」
あの時のあの人が今、確かに俺の部屋にいて、俺のベッドで眠ってる。
「……」
風呂上がりに飲んでくれと渡したコーヒーのマグは洗ってシンクの脇に置いてあった。
そして、その人は俺のベッドにいた。夢でも幻でもなく。ちゃんといた。
疲れたんだろう。ぐっすりと眠ってる。
「嘘……じゃない」
そう呟いた声は確かに部屋にわずかに響いた。ソファに寝転びながら天井を見上げて。朧げになっていたあの人の輪郭が、今日見た、くるくると変わる表情で上書きされていく。
「……」
このままここで眠って起きたら、夢、幻……になってしまわないことを願いながら、俺もそっと目を閉じた。
「あ……えっと、おはようございます」
夢、じゃなかった。
朝日を浴びて、彼の明るい色の髪がいっそう鮮やかな色になっていて、その毛先が彼の動きに合わせて、わずかに踊る。
寝癖……。
「その……昨夜は色々と……お世話になりました」
起きても消えてなかった。
「久我山さん」
ちゃんと、いた。
「あぁ……」
はにかんで。どうしたものかと、少し戸惑いながらベッドの中で朝日を浴びてるその人は、少し幻想的にも見えて。
「おはよう。聡衣」
そう声をかけると、ちゃんと返事を返してくれることに、俺は内心ホッとして、そして、彼と言葉を交わしてることに内心、笑えるくらいはしゃいでた。
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