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第68話 名前をつけるなら(旭輝視点)

 相当、怖いだろ……とは思う。  自分でも。  冷静に第三者の立場から、遠くから眺めていたら、少し危ない奴なのではと怪しまれてもおかしくない……とは、思う。  六年も前、たった一度、数分接客してくれた販売員のことをずっと忘れずに覚えていたなんて。  衝撃的だったんだろう。  鮮やか、だったんだ。  憧れとかも。  でも、やっぱりこの感情に名前をつけるなら――。 「久我山君、申し訳ないんだけど、この資料、少し見てもらえないかしら」 「……あぁ」 「ここ、なんだけど」 「あぁ」  同じ部署の女性職員が首を傾げながら、その種類を差し出した。甘ったるい香りが、鼻先を掠める、どころか嗅覚を刺激する。  苦手だ。  この類の甘ったるい匂いは。 「いいんじゃないか? このまま提出しても問題なさそうだが」 「そう? ならよかったわ。ありがとう。忙しいのに引き留めて」 「いや、構わない。それじゃ」 「あ、ね、久我山君」 「?」 「近くに美味しいイタリアンのお店を見つけたの。そろそろランチの時間だし。一緒にどうかなって思って」 「あぁ……悪い」  腕時計で時間を確認する。  そろそろ、終わった頃、か。 「今日、ランチの約束があるんだ」  彼女に謝ると胸ポケットに入れておいたスマホを取り出す。  確か、十一時からだと言っていた。このくらいで電話をしないと、タイミングを逃しそうで急いで電話をかけると、数回鳴らしたところで回線が繋がった。 『もしもし?』  電話越しだと、少しかわいい印象の声なんだな。接客業の癖が染み付いてるのかもしれない。外行きの印象柔らかな声。 「あぁ、面接終わったんだな」 『あ、うん』 「どうだった?」 『あー……うん』  少し落ち込んで……はいなそうだ。でも、面接自体はダメ、だったんだろう。彼なら面接の感触が良ければ、声が弾んだように明るくなる気がした。  だから、多分、あまり結果に期待はしない方が良さそうだ。 「なぁ。面接受けたとこ、俺の職場からそう遠くないだろ?」 『あ、うん』 「じゃあ、昼飯、一緒に食おうぜ」 『え?』  そんなに嬉しそうな声、出さなくても。 「奢ってやる」  少し笑い出しそうになって、慌てて手で口元を抑えながら、その電話の向こうで聡衣が今している表情を思い浮かべた。 「じゃあ、十分後な」  声、そんなに弾ませなくてもと笑いながら、けれどそんなに喜んでくれる聡衣を待たせてはと急いで待ち合わせの場所へと向かった。 「ここ、コーヒーが美味いんだ」  聡衣を案内したのはオープンカフェ。  確かにコーヒーが美味いけど、ここのは苦味が少ない気がするから、きっとミルクをたっぷり入れる聡衣の好みに合うと思った。  好きなところへ、と言われ、窓際の、日差しがいっぱい降り注ぐ一角に腰を下ろすと淡い栗色の聡衣の髪が日差しの色に染まって明るいブラウンカラーに染まった。  触れてみたくなる、絹糸のような髪は今朝、見かけた時も癖がついていた。  もちろんそんな寝癖頭で面接を受けわけがないから、今はもう綺麗に整えてある。それにもわずかに喜んでる自分がいる。外行きの、セットされた聡衣、じゃない彼を知っていることに。   聡衣の方へチラリと視線を向けると、正面に座った彼はただのメニュー選びでさえも楽しそうにしていた。 「ベーグルサンドで腹膨れるか? だから、ほっそいんだろ」 「いーの! 食べたかったの」 「……どうした? 笑って」  聡衣は特にその問いに答えることはなく、運ばれてきたコーヒーを大事そうに両手で抱えるように口元へ運んだ。  リス、みたいだな。  そう思いながら聡衣を眺めてた。  多分少し猫舌なんだ。  ちょっとずつ口にしている。  その指先は繊細で、あの日、俺のためにと一生懸命にスーツを探してくれた時と変わらない華奢な指先だった。 「面接、微妙だったんだろ?」  そう尋ねると、パッと顔を上げてから申し訳なさそうにコクンと頷いた。 「ずっとメンズスーツ系でやってたからさ。デニムはあんまり詳しくないんだよね……デニムファッションって。デニムはとっても便利だけどね!」  聡衣は、よく喋る。 「だけど、デニムとただのパンツならパンツ派っていいますか……なんと言いますか。いや、でも我儘も言ってられないし。最終的には倉庫とかでバイトっていう手もあるので」  けど、声、かな。  声が心地良い。  だから聡衣が話してるとつい眺めてしまう。  あの時もたくさん説明してくれたっけ。スーツの良し悪し、俺が次に選ぶ時はこんなことを気にかけるといい、とか、俺の顔立ちならこんな色も似合うとか。表情をくるくると変えて、その繊細そうな指先を踊らせるようにひらひらさせながら。  俺はそんな聡衣にあの時も見惚れてた。 「……別にいいんじゃないか?」 「……え?」 「そんな焦って仕事見つけなくても」  この人の仕事とは畑違いだけれど、こんなふうに仕事をしたいと思った。  これから仕事をするのなら、この人みたいに一生懸命にやろうと思えた。  今は、その人がまたあの時みたいに仕事ができるなら、なんでも手伝いたいと思ってる。恩返し、じゃないな。そう言うのじゃない。  ただ、優しくしたい。優しく接してくれたから。それから――。 「宿も飯もとりあえずあるんだし。それに」  尊敬。  あと、憧れ。  そっちの方が大きかったのは確かだ。  たった数分、ただの接客。聡衣にしてみたら、その日偶然接客しただけの他愛のない、一人の客、でしかないだろう。それでも、俺にとってはそうじゃなくて。 「それに聡衣は確かにジーンズよりもスーツ系の方が似合うと思うよ」  尊敬も憧れも混ざってる。  けれど、六年前、俺の中に生まれたこの感情に名前を付けるなら、それは「恋」の類だと、俺は思う。

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