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第69話 恋の類(旭輝視点)

 初めて、好きな人とセックスをした。  それはとても満ち足りていて、こんなに心地良い行為で。たまらなく幸せなことなんだと、教えてもらった。  絶対に叶うことはないから「恋」なんて名前はつけてなかった。  けれど、誰か他と「恋」をする気も起きなかった。  いつだったか大昔、同僚の河野の訊かれたことがあったっけ。  ――恋人とかいたりすんの?  そう、デスクで、新人の頃、日々の業務にまだ戸惑うことも多かった時期に。  俺は、いない、と答えた。  じゃあ。飲み会に来るかと尋ねられて、断ったんだ。いないけれど、誰か、他に恋人を作る気もないと。  叶うわけがないから、もう二度と会うことは叶わないから「恋」と呼ばなかった。  でもずっと聡衣以外は目に入っていなかった。  いつか忘れられるまで、完全にこの感情に輪郭がなくなるまでは思っていたかった。  なんでだろうな。  そこまで大層なことをしてもらったわけじゃない。命を救ってくれたわけでもないし、何か、大事件ってわけでもない。  それでも、あの時、選んでくれたスーツは確かに何にもない田舎で育った俺を変身させてくれた。初出勤、山も林も、川もない、あるのは硬くて冷たいコンクリートと四角張った建物ばかり。どこまでも広がっているはずの空は高く高く聳え立つビルに阻まれて、ほとんど見えない。  行き交う人も足早で、俯きがちで、とにかく忙しいのか味気ない表情ばかり。  それでも不安も戸惑いもなかった。聡衣がかけてくれた魔法のおかげだと、内心、感動すらしていた。  会えないけれど、この人を射止められるほどの「かっこいいスーツメンズ」になれたら、あの人以上を見つけられるかもしれない、とも思ったんだ。そうしたらあの人への叶うことのない片思いは自然と終わるだろうから、なんて。  料理を覚えた。  無頓着だった服にも気を遣った。  仕事だってしっかりこなす。  あの人がかけた魔法で変身して。  そうしたらいつか会えるかもしれない、なんて少しは思ったのかもしれない。会える確率なんて途方もないほど天文学的数字になるけれど。  それでも「いつか」会えるかもしれない。忘れられるかもしれない。どっちともつかないまま。  そして、会えた。 「恋」を、した。  あの人に見合う男になって。 「……」  鏡で身支度が整ったことを確認して、タイピンを留める。黒の石がついた、タイピン。  あの時も、ガキみたいにはしゃぎそうになるのを必死で堪えたんだ。  笑うだろ?  聡衣が楽しそうに新しい職場の、オーナーの話をするのを聞きながら、ふくれっ面になりそうになったりして。  けれど、このタイピンをもらっただけで有頂天になって。まったく呆れる。 「聡衣……」  完璧からはほど遠い。 「んー……」  そっと、ベッドの端に腰を下ろし、手を伸ばす。  長い睫毛に触れるとくすぐったかったのか、眉をわずかに寄せてから、小さく迷惑そうな声を上げた。それから身じろいで、自分の口元を手で隠してしまう。丸まって、薄く開いた唇の隙間から心地良さそうな寝息を立てて。  あの人が、寝てる。  なぁ、信じられるか?  あの人が、俺のベッドで寝てるんだ。  笑って、隣で飯を食べて、酒を飲んで。  すごいことだよな。まるで魔法みたい。奇跡だ。  そう、あの日、聡衣に遭遇した日から、何度も何度も、何度も、胸の内で思っていた。  信じられない。  あの人にもう一度会えたんだぜ?  そう、何度も。  これは聡衣の知らないこと。  どれだけ俺がその度に感動してたかなんて。  どれだけ「夢じゃないよな?」って確認したかなんて。  どれだけ――。 「……」  長い片想いをしていたかなんて。  他じゃ、あんな気持ちにならなかった  他の誰かじゃ、あんなに胸は躍らなかった。  聡衣じゃなきゃ。  そしてそっと、寝癖に触れた。触れたいと指先が焦れるくらい、綺麗で柔らく、サラリと艶やかな髪は思っていた通り、触れると優しい気持ちになれた。  昨日、無理させたかもな。  止められなかったから。  今日はできるだけ寝かせておいてあげたい。だから、あとで聡衣を困らせるだろう寝癖を手櫛で直してやろうと、何度か撫でて。それでもめげずに跳ねる寝癖に笑った。 「……ん」  やばいな。寝てる聡衣の邪魔だ。  少し、騒がしくしすぎた。せっかくできるだけ起こさないように静かに朝の支度を終えたのに、全部終えて、そばに行った途端に寝てるのを邪魔してる。 「ん」  残念、もう少し寝顔を見ていたかった。でも、起きた瞬間の寝ぼけた顔も見てみたい。そろそろ仕事に行く時間だから、その前に――。 「……聡衣」 「……い、と」 「糸?」  名前を呼ぶと、朝日も手伝って眩しそうに瞼をキュッときつく結んだ。そして、その拍子に睫毛がかすかに揺れる。 「……おはよう。寝言言ってたぞ。糸って」 「!」  挨拶の言葉に覚醒した瞬間、パッと目を瞬かせた。その瞳を長い前髪が隠してしまうから指先で阻止して、そっとかき上げる。 「ぉ、おはっ」 「っぷ、すげ、一瞬で真っ赤」 「だ、だって」  頬は指先にしっとりと馴染む柔らかさで、昨日、抱きながら何度もそこにキスをした。その頬が真っ赤に染まってる。 「あのっ」 「朝飯、作ってある」 「へ? あ、時間? えっと、あのっ、ごめっ」 「いや、聡衣はまだ出勤時間じゃないだろ? ゆっくり寝とけよ」 「あのっ」 「俺は仕事に行ってくるから」 「あ、うん」  起き上がると、柔らかな寝癖は思っていた以上に楽しげに踊っていた。  鏡でそれを見たわけでもない聡衣は寝ぼけながら、俺の布団に包まって、じっとこちらを見つめてる。 「聡衣」 「?」  その髪にキスをして、額に、頬に、優しく唇で触れた。 「好きだ」 「へ? わ、ぁっ」 「それじゃあ、行ってきます」 「へは! はいっ、行ってらっしゃい!」  最後に唇に触れて、ここでもう終いと手を離した。真っ赤になったパプリカみたいな聡衣は布団の中で口をぱくぱくと開けている。 「帰りは、あんまり遅くならないようにする。夕飯俺が作るよ」 「へ、はっ」  真っ赤なパプリカは言葉も忘れてしまったみたいに、まだ、口をぱくぱくと動かしてた。 「よ、ここ最近は随分熱心に残業しまくってたみたいだな」 「……河野」  駅から職場へ向かう途中、声をかけてきたのは河野だった。黒のスーツに、革手袋をして、ニヤリと、印象の悪い笑顔をこっちに向けている。 「必死に仕事詰め込んで、まさかこの忙しい時期にまとめて休みでもとって恋人さんと新婚旅行、とか? って、まだ続いてるんだっけ?」  そういや、こいつの……。 「なぁ、河野」 「は?」  おかげかもな。  ―― その、聞いちゃったんだ。あの、同僚の人からずっと好きだった人がいるって。  なんか聡衣に余計なことを言ったようだけど、でも、色々掻き回してくれたおかげっていうのも多少はあるんだろ。  聡衣は怖がりだから。 「今度、飲みに行こう。奢る」 「は、はぁぁぁっ? なんで、俺がお前にっ」 「違う。俺がお前に奢ってやるんだ」 「! わかってるよ! そういう意味じゃない!」 「ならよかった」  なぁ、すごいだろ? 「なんで笑ってるんだ。気持ち悪い男だなっ」  あの日。  あの日、そう、お前に話したあの人に再会できたんだ。  なぁ。 「なんなんだっ!」  なぁ、あの人の恋人に、なれたんだ。

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