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Chapter1-1

「まだ、ケーキもコーヒーも残っていますよ……」  電話を終えた逢沢早苗の恋人、須田京介はデート中だというのに、伝票を取って立ち上がった。早苗は咄嗟にそんな言葉で相手を呼び止めた。  電話をかけてきた相手の元へ早く行きたいという本心を隠すつもりはないようで、京介はあからさまに深いため息をつく。 「すまない。ケーキはまだ手をつけていないから食べてくれ」  テーブルの上に並べられたカップからはまだ湯気が立っていたし、京介が電話している最中に運ばれてきたケーキにはまったく手がつけられていない。  だが、別に早苗は京介が手をつけなかったケーキを食べたくて呼び止めた訳では無い。にも関わらず、早苗は引き止める口実を真に受けたような答えが返ってきたことに思わず怒りが喉元まで上がってきた。  ここで感情的になっても仕方がない、と自分に言い聞かせ、一度深く呼吸をする。そのおかげか、湧きあがった怒りは少し緩和され、少しの冷静さを取り戻すことが出来た。 「久しぶりにデートできるって、すごく楽しみにしていたんですよ」 「早苗……」  早苗は自分は何も間違ったことなど言っていないと思っている。お互いに忙しかったので、早苗の発情期こそ一緒に過ごしてはいたが、京介とのこういったデートをするはおよそ半年ぶりなのだ。  それなのに彼は、まるで聞き分けの悪い子供がわがままを言っているとでもいいたげに、普段よりいくらか低い声で咎めるように早苗の名前を口にした。アルファの威圧も相まって思わず早苗は膝の上で拳を強く握りながら体を強張らせた。  京介はすぐに萎縮している早苗に気がついて、やり過ぎたと思ったのだろう。早苗の隣に膝をつき下から目を合わせた。  この大袈裟な振る舞いは自分を宥めるための物だろうと早苗は思った。しかし、彼の中には席に戻るという選択肢がないのだということ分かってしまい、早苗をより一層惨めな気持ちにさせる。 「怖がらせてすまない。心急ぐあまりに威圧的な態度をとってしまった。そんなつもりはなかったんだ」  そう言いながら京介はゆっくり早苗の頬に触れた。先ほどとは打って変わった相手の雰囲気と、ゆるりと頬を撫でる優しい手つきに思わず彼の行動を許してしまいそうになったが、なんとか踏みとどまる。ここで流されてしまったらいつもと同じだ。 「仕事が忙しいのは分かっていいます。だから、そのせいでなかなか会えないことについては不満はないです。けど、さっきの電話、職場からじゃないですよね? またあの人からだったんじゃないですか?」  早苗は先程の京介の電話相手に心当たりがあった。  小松伊織。その人は、度々、どこかで見ているのではないかと疑いたくなるほど、早苗と京介の時間に水を差すようなことをしてくる。今回で、3回目。我慢はもう限界だった。  今までは聞き分けのいい恋人でいたつもりだ。京介の大事な友情を尊重したいと思っていたから、呼び出されてすぐに幼馴染である彼のところへ行ってしまうのにも、文句1つ言わずに送り出してきた。  そんな気遣いが間違っていたのか、いつの間にか京介にとって早苗は自分を尊重してくれるいい恋人ではなく、ただの都合のいい人間になってしまったのだろう。今となっては京介は早苗を蔑ろにすることに、罪悪感を抱くことはないようだ。  だからデートの途中で抜け出そうそする京介に憤慨した早苗の気持ちなど、これっぽっちも理解できないのだ。こんな扱いを受けるのは、自分の偽善が招いたことだというのは重々承知の上だ。しかしだからといって、これからもこんな扱いをされ続けるのはもう耐えられない。  京介は珍しく食い下がる早苗に困惑しているようだった。普段ならば、京介を責め立てるような発言はしない。 「確かに電話の相手は伊織だったが、そんなに目くじらを立てるようなことでもないだろう」 「……本当にそう思っているんですか?」 「悪いが、早苗が何に対して腹を立てているのか分からない。どうしてそんなに怒るんだ」  京介は本当に、早苗が何に対して怒っているのか全く理解出来ていない様子だった。どうしてここまで価値観に差ができるのだろうか。もはや自分の常識が間違ってるのではないかと疑ってしまいそうになる。 「オレって京介さんの恋人ですよね? それともオレの勘違いですか?」 「早苗は俺の恋人だ。急に何を言い出す――」 「だったら! どうして、デート中にあの人の呼び出しに応じるんですか?」 「体調を悪くした友人を放って遊んでいられないだろう?」  つい語気が荒くなる早苗に対して、京介は淡々と答えた。 「でも、実家で暮らしてるんですよね。京介さんがわざわざデートを放ってまでお見舞いに行く必要があるんですか?」 「今は同居している家族が仕事で海外に行っているらしい。だから忙しいところ申し訳ないと言っていた」 「仮にご両親が海外に行っているとしても、確かお兄さんも近くにいますよね? 家族なんだからそっちに頼んだっていいじゃないですか」 「どうしたんだ。今日はワガママがすぎるぞ。それにあの兄弟は色々複雑なんだ。だから幼馴染の俺が少し手を貸してるだけだと前に説明したじゃないか」  何を言っても無駄だ。京介は早苗の言葉に耳をかすつもりなんてないらしい。早苗の気が済むまで喚かせて後で宥めれば良いとしか思っていないその態度に、もう何かを言う気力もなくなる。  京介の常識と早苗の常識がここまで違っていたとは考えてもいなかった。ここで何を言ってもきっと京介は、早苗のわがままに振り回されて困ったとしか思わないのだったら、もう何を言うのも止めてしまおう。 「……分かりました。行ってください」  後日、このやりとりについて文句を言われるのも億劫だと思い早苗がそう言うと、京介は安堵したような表情で、「今度埋め合わせをする」と言って今度こそ本当に行ってしまった。  彼にはもう残された早苗に気を向ける余裕すら持ち合わせていないようだ。なんでこんな惨めな思いをしなければならないのかと思うと、目頭が熱くなってくる。 「ワガママって、なんだよ……」

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