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Chapter4-5

 いつの間にか寝ていた早苗は、けたたましい着信音で目が覚めた。発信者は小松俊哉。もう仕事が終わる時間なのかと、ぼんやりした頭で通話ボタンを押した。 『良かった。何度か電話したんけど、全然出なかったから心配したよ』  時刻は18時半。スピーカーモードにして画面の通知30分くらい前から何度か俊哉からの着信履歴が並んでいた。 「す、すみません。なんか寝ちゃってて……」  電話に出たことに心底安心したという俊哉の口ぶりに、早苗は途端に申し訳なくなる。 『平気、平気。もしかして、体調悪い? 食べるものなければ買ってくよ』 「いえ、そこまでは大丈夫です。ちょっと睡魔に勝てなくて……本当にすみません」 『そんなに謝らなくていいよ。それより、住所教えてくれると嬉しいな。早苗くんの家、おれ知らないからさ』 「住所も送ってませんでしたね。自分で呼び出したくせに本当にすみません。駅の西口から公園の方に向かって歩いてもらうとコンビニのエイトトゥエルブがあると思うので、その角を左に曲がったところにある白い建物で、入り口にカーサ・アリビオって書いてある看板があるはずです」 『いいの、いいの。これから向かうけど5分ぐらいで着くと思う。今、駅に着いたところだから』 「わかりました。うち、オメガ用の社宅なのでアルファは許可カードか、住人が一緒じゃないとエントランスで止められるので入り口で待ってますね」 『オメガ用の社宅ならそうだよね。じゃあ後で』  そう言って、通話が切られる。早苗は抱き締めていた肌着を再び袋に入れてクローゼットの奥にしまった。変な体勢で寝ていたせいで前髪に寝癖がついてしまったのを、水で軽く直してから部屋を出た。  下に着くと、既に俊哉がテンパードアの前で待っていて、エレベーターから降りてきた早苗と目が合うと手を振ってきた。エントランスにいる管理人が、不審者を見るような目で俊哉を見ていたので、知り合いであることを告げると、次からは敷地の外で待ち合わせをするように注意された。 「お待たせしました」 「ううん、今来たところ。てか、オメガ用の建物って至る所からミントの香りがするって本当だったんだ」  俊哉がスンスンと鼻を鳴らす。早苗はもう慣れてしまっていたが、初めて京介がここを訪ねてきた時も同じ反応をしていたことを思い出した。 「ミント系の匂いってオメガのフェロモンを弱める効果があるみたいなので、こういうオメガ関連の施設ではよく利用されてるみたいです」 「そうなんだ。でも確かに、オメガの発情期に巻き込まれたらミントタブレットを噛むといいって話は聞いたことがあるかも」 「何人ものオメガが集まっているから、いくら空調がしっかりしているとは言っても、完全に空気清浄出来るわけないですからね」  エレベーターの呼び出しボタンを押すと直ぐに、扉が開いた。運良く他の利用者がいなかったのである。朝や夜の通勤時間になると、エレベーターを利用する住民が多くなるので、隣の非常階段を使って昇り降りをする方が早い時があるくらいだ。  そうこう話している家に早苗の部屋の前にたどり着いた。玄関を開けて室内に招き入れると、俊哉は新しい家に来た猫のように辺りを興味深そうにぐるりと見渡した。 「そんなにまじまじ見ないでくださいよ」 「ああ、ごめんね。さっきエレベーターの中で早苗くんから京介の匂いがしたから、部屋の中もあいつの匂いが充満してるのかと思ってた」  俊哉の何気ない発言に早苗は顔を赤くする。早苗から京介の匂いがしたのは、間違いなく先日こっそり拝借した京介の肌着を抱きしめたまま寝落ちていたせいである。  俊哉はニヤニヤとしながら、早苗を見下ろしていた。早苗が京介の匂いに縋っていたのはバレているのだろう。 「今日はいつもよりフェロモンの数値が高かったから……だから、京介さんの匂い嗅いだら落ち着くかと思ったんです!」 「へえ。早苗くんはおれと番うつもりでいるって言ってたのに、京介の匂いに縋っちゃうんだ」  開き直って京介の持ち物の匂いを嗅いでいたことを白状すると、俊哉は意地の悪い笑みを浮かべた。 「た……、ただの応急処置です」 「そっか。でも、自分の番に他の雄の匂いが付いてるのは気に食わないなあ」  そんなことを言いながら俊哉は距離を詰めてきて、早苗を壁に押しやり顔の横に手をついた。壁ドンである。  京介とは系統が違うものの、俊哉も整った顔立ちをしている。面食いでなくたって、そんな顔面で迫られたらときめきもするわけで――。 「ち、近くないですか?」 「なに、照れてるの?」 「驚いただけです」 「そんなに顔が赤いのに?」 「俊哉先輩みたいな顔面で迫られたら誰だって赤面くらいします。人間として正常な反応です!」  一瞬ぽかんとした後、俊哉はくつくつと喉を鳴らして笑い始めた。早苗の返しが余程面白かったらしい。その隙をついて、早苗は俊哉の腕の中から抜け出した。 「今日はこんなことをするために呼んだわけじゃないんです」 「ふふっ……そう、だったね。ははっ……」 「ちょっと、いつまで笑ってるんですか!」 「はー、面白かった。人間として正常な反応……なんて、言い訳はなかなか聞けないからね……うくくっ……」  本人は堪えてるつもりなのだろうが、全く堪えられていない。 「……もう笑ってていいので、同意書にサインください」  今だに肩を震わせている俊哉の腕を引いて同意書が置いてあるテーブルまで引っ張っていく。ボールペンを渡すと、俊哉は時々、込み上げてくる笑いで書く手を止めながら必要事項を全て記入し終えた。 「これで記入漏れないかな?」  ようやく落ち着いた俊哉が同意書を早苗に差し出した。早苗は指さしながら確認していく。必要事項は全て埋まっていた。 「大丈夫です。ありがとうございました」 「それ、いつ薬を貰いに行くの?」 「明日の午前診療時間に貰いに行こうかと考えてまました」 「本当に良いんだね?」  いつの間にか真剣な面持ちになっていた俊哉の言葉に早苗は頷く。 「そう。じゃあ、薬を受け取ったら連絡して」 「分かりました」 「これから予行練習する?」 「し、しません!」  早苗が思いっきり拒否をすると俊哉は少し寂しげな表情を浮かべる。 「冗談だよ」  そう言った俊哉は早苗に、唇が触れるだけのキスをする。突然の出来事で早苗が処理落ちしている間に、俊哉は部屋を出ていってしまった。

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